特殊事件「論争」:ファン・カルロス・イズピスア・ベルモンテ(Juan Carlos Izpisua Belmonte)(米)

2021年7月27日掲載 

ワンポイント:【長文注意】。ヒトと動物のキメラや異種間雑種の作成はOK? イズピスア・ベルモンテ(米国のソーク研究所・教授)が率いる中国・スペイン・米国グループがヒトとサルのキメラ胚を19日まで発生させることに成功したと「2021年4月のCell」論文で発表。その先の発生、そして、獣人の作成はいずれ技術的に可能になるだろう。しかし、現在、人間社会の倫理と法律は禁止している。どうしていけないのか? 倫理と法律は変わるのか? 現在までの実験は合法なので国民の損害額(推定)は0億円(大雑把)。

【追記】
・2021年09月18日記事:実験室で培養した人間の「ミニ脳」に目が生えてきたとの報告、光にも反応 – GIGAZINE
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白楽の研究者倫理
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目次(クリックすると内部リンク先に飛びます)
1.概略
2.経歴と経過
3.動画
4.日本語の解説
5.論争の経緯と内容
6.論文数と撤回論文とパブピア
7.白楽の感想
9.主要情報源
10.コメント
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●1.【概略】

ファン・カルロス・イズピスア・ベルモンテ(J. C. イズピスア・ベルモンテ、Juan Carlos Izpisua Belmonte、Juan Carlos Izpisúa Belmonte、Juan Carlos Izpisúa 、ORCID iD:?、写真出典)は、スペイン出身で、米国のソーク研究所(Salk Institute)・教授になった。専門は発生生物工学(人間と動物のキメラ作成)である。

なお、「イズピスア・ベルモンテ(Izpisua Belmonte、またはIzpisúa-Belmonte)」が姓である。「スペイン人の苗字は2つ」あるのが普通だそうだ。

イズピスア・ベルモンテが率いる中国・スペイン・米国グループは、ヒトとサルのキメラ胚作成に成功し、「2021年4月のCell」論文を発表した。

この論文が、古くて新しい論争を引き起こしている。

このキメラ胚には1つの生命体の中にヒトの細胞とサルの細胞が混在している。このキメラ胚を母体に入れて1つの生命体として誕生させたら、それは、ヒトなのかサルなのか、新種なのか?

現在、キメラ胚を 1つの生命体として誕生させることは禁止されている。

それどころか、発生初期以上に育てることを、多くの国は法律で禁止している。

では、基本問題として、人間と動物のあいのこ(キメラ、さらには、異種間雑種)の作成はOKでしょうか? 

白楽が問いたいのは、法律はどうあれ、読者のあなたは、賛成なのか? いや、反対なのか? そして、その理由は?

日本国憲法の第23条は「学問の自由は、これを保障する。」とある(参考:2016年10月の大浜啓吉の「学問の自由とは何か」論文)。

多くの国も基本的には学問の自由を保障している。

しかし、

学問研究についてはその性質から本来は自由に委ねられるべきではあるが、明らかに反人倫的な生体実験や人類の将来に危険を及ぼすおそれのある研究については一定の規制が必要と考えられている。科学技術のめざましい発展から人体実験・生物兵器研究・核物質の平和目的以外での利用研究・ヒト遺伝子の操作などについては危険性や反倫理性の故に法的規制の必要性も議論されている]。(学問の自由 – Wikipedia

では、誰がどのような根拠で「反人倫的」「人類の将来に危険を及ぼすおそれのある研究」だと判断し、どのような法的根拠で禁止できるのか?

イズピスア・ベルモンテの「2021年4月のCell」論文が契機となって、今まで、超えてはならないバイオ研究の境界線を、先進国は40年ぶりに動かそうとしている。

科学技術の進歩につれ、将来、その境界線線は更に動くだろう。

一体、どのような理由でどのように、そして、どこまで動くのか?

人間の病苦からの解放、それにともなう富への希求は極めて大きい。それに対する倫理観の維持、宗教、既得権益も極めて大きい。両者が対立する力学はどうなっている(どうなっていく)のだろうか?

ソーク研究所(Salk Institute for Biological Studies)。写真出典http://neuroscience.onair.cc/salk-institute-for-biological-studies/

ソーク研究所(Salk Institute for Biological Studies)。© Nils Koenning 写真出典https://www.world-architects.com/en/nils-koenning-berlin/project/salk-institute-for-biological-studies-louis-kahn

イズピスア・ベルモンテ研究室の集合写真(写真出典)。日本人を含めアジア人が多そう。

  • 国:米国
  • 成長国:スペイン
  • 医師免許(MD)取得:なし
  • 研究博士号(PhD)取得:イタリアのボローニャ大学とスペインのバレンシア大学
  • 男女:男性
  • 生年月日:1960年12月16日
  • 現在の年齢:64歳
  • 分野:発生生物工学
  • 論争論文発表:2021年(60歳)
  • 発覚年:2021年(60歳)
  • 発覚時地位:ソーク研究所・教授
  • ステップ1(発覚):
  • ステップ2(メディア):「Nature」、「Time」、レオニッド・シュナイダー(Leonid Schneider)のブログ記事など多数
  • ステップ3(調査・処分、当局:オーソリティ):
  • 研究所・調査報告書のウェブ上での公表:該当せず(ー)
  • 研究所の透明性:該当せず(ー)
  • 論争:人間と動物のキメラ作成
  • 論争論文数:1報
  • 時期:研究キャリアの中期から
  • 職:論争後に研究職(または発覚時の地位)を続けた(〇)
  • 処分:なし
  • 日本人の弟子・友人: 2010-2017年の鈴木啓一郎(Keiichiro Suzuki)(大阪大学・教授)、2014年の栗田昌和(Kurita Masakazu)(東京大学・助教)など多数いる

【国民の損害額】 国民の損害額:総額(推定)は0億円(大雑把)。 

●2.【経歴と経過】

出典:Prof__Izpisa_Curriculum_Vitae.pdf

  • 1960年12月16日:スペインで生まれる
  • 1980-1985年(19-24歳):スペインのバレンシア大学(University of Valencia)で修士号取得:薬理学
  • 1985-1987年(24-26歳):イタリアのボローニャ大学(University of Bologna)とスペインのバレンシア大学(University of Valencia)で研究博士号(PhD)を取得:薬理学
  • 1987-1993年(26-32歳):ドイツのマールブルク大学(University of Marburg)、欧州、英国、米国のポスドク
  • 1993年(32歳):米国のソーク研究所(Salk Institute)・助教授、後に準教授
  • 2000年(39歳):同・正教授
  • 2015年(54歳):上記と兼任で、スペインのカトリカ大学サンアントニオ校(Universidad Catolica San Antonio de Murcia)・正教授
  • 2018年10月(57歳):「タイム」誌の2018年の最も医療に影響力のある人物50人の一人に選ばれた → Health Care 50 | Time.com
  • 2021年4月(60歳):衝撃的な「2021年4月のCell」論文を発表

●3.【動画】

以下は事件の動画ではない。

【動画1】
 研究紹介動画:「Aging, interrupted – YouTube」(英語)1分31秒。 Salk Instituteが2011/02/18に公開

【動画2】
 研究紹介動画:「Researchers May Have Discovered The Mechanisms Behind Aging – YouTube」(英語)2分3秒。 Salk Instituteが2015/05/02に公開

【動画3】
 研究紹介動画:「Salk scientists achieve first safe repair of gene mutation in human embryos – YouTube」(英語)3分21秒。 Salk Instituteが2017/08/03に公開

【動画4】 研究紹介動画:「Salk scientists modify CRISPR to epigenetically treat diabetes, kidney disease, muscular dystrophy – YouTube」(英語)3分25秒。 Salk Instituteが2017/12/08に公開

●4.【日本語の解説】

★2019年08月05日:Antonio Regalado(訳者不記載):「中国で「ヒトとサルのキメラ」作製が進行中、臓器不足解消で」

出典 → ココ、(保存版) 

ある研究チームが、一部がヒトで一部がサルの胚を作製していることをスペインの日刊紙エル・パイス(El País)が報じた。

物議を醸すこと必至の初の試みである。 同紙によると、スペイン出身の生物学者であり、米カリフォルニア州にあるソーク研究所のファン・カルロス・イズピスア・ベルモンテ教授は、サルを対象とする研究者たちと一緒に中国で、この憂慮すべき研究を実施しているという。

ベルモンテ教授らの目的は、「ヒトと動物のキメラ」(この場合、ヒトの細胞を加えたサルの胚)を作製することだ。 今回の研究の背後にある考えは、全体がヒト細胞で構成されている腎臓や肝臓などの臓器を持つ動物を作り出そうというものである。

移植用臓器の供給源として使える可能性があるからだ。 キメラ作製の手法には、受精後数日の異種胚にヒトの胚性幹細胞(ES細胞)を注入する過程が含まれる。ヒト細胞を異種胚に加えて、胚とともに成長させようというわけだ。

ベルモンテ教授は以前もヒト細胞をブタの胚に加えることでヒトと動物のキメラの作製を試みた。しかし、ヒト細胞をブタ胚に有効に定着させることはできなかった。

サルは遺伝的にヒトにより近いため、今回の新たな実験は成功するかもしれない

★2021年4月17日:BBCニュース:ヘレン・ブリッグス(訳者不記載):「ヒト幹細胞をサルの胚に入れ培養 倫理面で問題視も」

出典 → ココ、(保存版)。英語記事:2021年4月15日、Helen Briggs:Human cells grown in monkey embryos spark ethical debate – BBC News 

ヒトの細胞を含んだサルの胚が、研究施設でつくられた。15日付の米科学誌セルで発表された。これを受け、生命倫理をめぐる新たな議論が沸き起こっている。

この研究はアメリカと中国の合同チームが取り組んだ。米ソーク研究所のホアン・カルロス・イズピスア・ベルモンテ教授がチームを率いた。

・・・中略・・・

異種の遺伝子型の細胞が混在している「キメラ」と呼ばれる胚は、これまでもつくられてきた。2017年にはベルモンテ教授も関わり、ヒトとブタのキメラ胚が世界で初めてつくられた。ヒツジの胚にヒトの細胞を加えた例もあった。

同教授によると、そうした研究は、移植用臓器の深刻な不足を改善する可能性がある。また、人間の初期段階の成長や、病気の進行、老化について理解を深めることにもつながるという。

・・・中略・・・

オックスフォード大学のジュリアン・サヴレスキュー教授は、今回の研究が「ヒトとヒト以外のキメラというパンドラの箱を開ける」ものだと述べた。

「今回の胚は成長20日目に破壊されたが、ヒトとヒト以外のキメラが開発されるのは時間の問題だ。おそらく移植用臓器をつくる目的で実行されるだろう。

それがこの研究の長期的目標の1つになっている」 遺伝子科学の推進などに取り組む英プログレス・エデュケーショナル・トラストのディレクター、サラ・ノークロス氏は、胚と幹細胞の研究で前進がみられているとした一方で、「倫理と規制の面で難しい問題があり、社会的議論が必要なのは明らかだ」と述べた。

●5.【論争の経緯と内容】

★キメラと異種間雑種

キメラは、

生物学における キメラ (chimera) とは、同一の個体内に異なる遺伝情報を持つ細胞が混じっている状態や、そのような状態の個体のこと。嵌合体(かんごうたい)ともいい、平たく言うと「異質同体」である。(キメラ – Wikipedia

異種間雑種は、

交雑(こうざつ)または異種交配(いしゅこうはい)(英語: crossbreed)とは、生物学においては、異なる種や異なる亜種の関係にある動物・植物を特に人工的に組み合わせて交配させ、繁殖し雑種を作ること。(交雑 – Wikipedia

キメラと異種間雑種は生物学的に次元が異なる。

ファン・カルロス・イズピスア・ベルモンテ(Juan Carlos Izpisua Belmonte)の研究は「キメラ」作成である。

なお、イズピスア・ベルモンテの「キメラ」作成は、ヒトの臓器を動物体内で作成して、その臓器をヒトに移植することを目的とした基礎研究である。

この意図や方法は、イズピスア・ベルモンテの独得の発想ではない。従来から多くに研究者がこの手の研究を行なっている。

臓器サイズ・飼育数・倫理的問題などからヒトの臓器を作らせる動物はブタが最適と言われている。

以下の図の出典 → 2018年1月29日毎日新聞:文科省専門委:ヒト臓器、動物で作製容認 移植は認めず 

★ヒトと動物のキメラ

2017年、ファン・カルロス・イズピスア・ベルモンテ(Juan Carlos Izpisua Belmonte)は、ヒトと動物のキメラ作成を発表した。

ブタ胚の中でヒト細胞、ウシ胚の中でヒト細胞、ラット胚の中でマウス細胞を増殖させることに成功した。

写真の左がイズピスア・ベルモンテで右が論文の第一著者のジュン・ウー(Jun Wu)である(写真出典)。

  • Interspecies Chimerism with Mammalian Pluripotent Stem Cells.
    Wu J, Platero-Luengo A, Sakurai M, Sugawara A, Gil MA, Yamauchi T, Suzuki K, Bogliotti YS, Cuello C, Morales Valencia M, Okumura D, Luo J, Vilariño M, Parrilla I, Soto DA, Martinez CA, Hishida T, Sánchez-Bautista S, Martinez-Martinez ML, Wang H, Nohalez A, Aizawa E, Martinez-Redondo P, Ocampo A, Reddy P, Roca J, Maga EA, Esteban CR, Berggren WT, Nuñez Delicado E, Lajara J, Guillen I, Guillen P, Campistol JM, Martinez EA, Ross PJ, Izpisua Belmonte JC.
    Cell. 2017 Jan 26;168(3):473-486.e15. doi: 10.1016/j.cell.2016.12.036.

★論争になった論文

上記のように、2017年に、ブタとヒト、ウシとヒト、ラットとマウスのキメラ胚作成に成功している。

それをベースに、「2021年4月のCell」論文では、ベルモンテ(米国のソーク研究所・教授)が率いる中国・スペイン・米国グループがヒトとサルのキメラ胚作成に成功したと報じた。

「2021年4月のCell」論文の書誌情報は、

第一著者の「Tan T」は、米国ではなく、中国の昆明理工大学(Kunming University of Science and Technology)に所属している。

今回の「2021年4月のCell」論文のポイントはヒトとサル、つまり、ヒトに近縁で動物実験としては多用されないサルを用いた点である。

サルの胚132個にヒト人工多能性幹細胞(human extended pluripotent stem cells)を注入し、ヒトとサルの細胞を一緒に増殖させた。受精後11日目に91個が生存し、17日目に12個が生存、19日目に3個の胚が生存した。この時点で実験を終了したので、ヒトとサルのキメラを成長させ、キメラ生物を作ったわけではない。

議論のもう1点は、従来、実験室でヒト胚を培養してよいのは14日間までとする「14日間ルール」がある。その14日間を越えて、19日まで培養したことだ。この点は後述する。

以下の写真(出典、Credit: Weizhi Ji, Kunming University of Science and Technology)は、作成したキメラ胚の想像図で、赤色がヒト細胞で他の色はサルの細胞である。

★論争点

イズピスア・ベルモンテ(Izpisua Belmonte)は、ヒトへの移植用臓器の供給源として、動物体内にヒトの細胞でできた臓器をもつ動物(例えばブタ)を作ろうとしている。

しかし、目的は何であれ、結果として、身体の1部がヒトで他の部分が動物という個体である。イヤ、逆に、身体の1部が動物で他の部分がヒトという個体と言ってもいい。

いずれにしろ、身体の1部がヒトで他の部分が動物という生物を生み育てた実験例はない。

しかし、ヒトの細胞(組織)と動物の細胞(組織)が混ざった個体は存在する。

異種移植(いしゅいしょく、英: Xenotransplantation)とは、生きている細胞、組織、または臓器を、ある種の個体から別の種の個体へ移植することである[1]。

ヒトへの異種移植は、先進国における重大な医療問題である末期臓器不全の治療法として研究されている。また、ヒトへの伝染病の可能性、多くの医学的、法的、倫理的問題も提起されている[2]。ゲノム編集により、動物への遺伝子操作の技術革新がなされ、異種移植はより注目されつつある。異種移植の成功例がいくつか発表されている[3]。(異種移植 – Wikipedia

1997年、米国のハーバード大学のチャールズ・バカンティ(Joseph P. Vacanti)らは、背中にヒトの耳が生えているマウスを作製した(実際はヒトの細胞ではなく、ウシの細胞を使用)(以下の写真By Source, Fair use, LinkVacanti mouse – Wikipedia)。

Vacanti mouse.jpg

生命科学の現実から離れ、想像上の話になれば、昔から、人魚など身体の1部がヒトで他の部分が動物という想像上の生き物はたくさんいた。

紀元前5世紀、古代ギリシャのパルテノン神殿の壁画に下半身がウマで上半身がヒトの像がある(写真:By Carole Raddato from FRANKFURT, Germany – The Parthenon sculptures, British Museum, CC BY-SA 2.0, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=94149400)。

身体の1部がヒトで他の部分が動物 人獣(じんじゅう)、獣人(じゅうじん、けものびと)という言葉もある。英語で、therianthropy(セリアンスロピィ)という。 →  獣人 – Wikipedia Human–animal hybrid – Wikipedia List of hybrid creatures in folklore – Wikipedia 

【是非】

イズピスア・ベルモンテの研究の賛否の内、否定の主要な観点は倫理的問題である。

つまり、神でもない人間が新しい生物を創造してよいのか? である。

「2021年4月のCell」論文はイズピスア・ベルモンテが率いる中国・スペイン・米国グループが行なったが、米国のNIHから研究助成を受けていない。

なお、イズピスア・ベルモンテは米国にある信頼度の高いソーク研究所の教授である。それなのに、米国のNIHから研究助成を受けられない。

米国政府は、ヒトとサルのハイブリッド胚の作製を規制し、研究助成しない方針だから、研究助成を受けられない。

他方、中国はその規制がない。

今回、中国で研究が実施されたのは、米国では規制されていて、できない研究だからだ。

では、なぜ、規制を受けるのか?

学問の自由は保障されないのか?

以下に賛否を羅列するが、賛成から始めよう。

★賛成

  • ヒトへの移植用臓器の供給源になりえる(応用)
  • ヒトを実験台に薬剤試験を行なえないので、このヒト・動物キメラで薬剤試験を行なえる(応用)
  • 進化距離や種間障壁に関する生命科学の疑問点の解明に役立つ(基礎)

★反対

反対の大きな理由は2種類ある。

  1. 基本的にしてはいけないことだから
  2. 危険・害があるから

「反対の1」の場合、以下の理由である。

神里彩子の意見を伺おう。 → 2012年1月17日、「ヒトと動物のキメラをめぐる倫理的問題と今後の課題」の31ページ目に以下の理由を述べている。

  • 人と動物の境界を曖昧になる?
  • 「人間の尊厳」性が低下する?  →ヒトと動物の違いはどこにある?
  • ‘Playing God’・自然の摂理に反する?
  • 動物の福祉に問題?

これらの理由は妥当だろうか?

なんか、ごまかされていないか?

「人間の尊厳」性が低下」というが、現実の世界では、殺人からヘイトスピーチ・セクハラ、極度な貧困など別の局面で、人間の尊厳性が低下している状況がたくさんある。そっちは、いいのか。

【モロー博士の島】

以下の否定的ポスターの作者は不明である。

レオニッド・シュナイダー(Leonid Schneider)のブログ記事に上記ポスターはソーク研究所(Salk Institute)由来とあった(Original image: Salk)ので、ソーク研究所が作ったと思われる。

自虐的ポスターということなのか?

このポスターは、神でもない人間が新しい生物を創造することへの根源的な否定を、H.G.ウェルズのベストセラー小説『The Island of Dr. Moreau』(モロー博士の島)になぞらえている。

つまり、ポスターは、イズピスア・ベルモンテ=モロー博士と見立てて、獣人の化け物が現実化すると非難(アピール?)している(ように見える)。

ポスターには「The Doctor Is In-SANE!」(医者は狂っている!)の字も入っていて、見た目だけでなく、文字でも、イズピスア・ベルモンテの研究に対する恐怖を煽っている。

ここで白楽、我に返った。

『The Island of Dr. Moreau』を知っていると思って話しを進めてしまったが、悪かった。ご存じない方もいますね。

以下に、『The Island of Dr. Moreau』(モロー博士の島)の説明を引用しておきます。

今しも進化の法則を書き換えようとしている、天才的な遺伝学者Dr.モロー。博士の島の研究所を訪れた国連の弁護士が目にしたのは、動物を半人半獣の化け物に変身させるという驚異の、しかし許されざる実験だった。(D.N.A./ドクター・モローの島 | 動画配信/レンタル | 楽天TV

なお、驚くことに、『モロー博士の島』(The Island of Dr. Moreau)は、125年前の1896年に執筆されている。H.G.ウェルズは天才だ。

【反対の2】

「反対の2」に移ろう。

「反対の2」は、科学技術上の問題である。

しかし、その理由を具体的に記述している記事はとても少ない。

記載してない記事の例に挙げて申し訳ないが、以下に例を2つ挙げた。

  1. 2011年の神里彩子の原著論文:ヒトと動物のキメラを作成する研究はどこまで認められるか?
  2. 2021年4月24日記事:サルがヒトの臓器不足を解消? 世界中で生命倫理に懸念の声「議論内容の発信を」(ABEMA TIMES) – Yahoo!ニュース

上記の2つには記載していないが、いろいろ探すと、「反対の2」の理由として以下が挙げられていた。

  • 移植臓器を作ろうとしたのに、予想していない臓器になった。・・・白楽が思うに、この場合、移植しなければ良いので実害なし
  • 移植した臓器がガン化する
  • 仮に人の臓器が動物の体内で育ったとして、その臓器の中に動物の細胞が交じることは避けられませんから、異種移植であることからくる免疫の問題などはずっとついてまわります。しかし、例えばブタで人の臓器をつくったとしても、その臓器の中の血管はブタの細胞になるということがわかると、研究者は、血管を生じさせる遺伝子を欠損させたブタをつくるようなことをします。血管のないブタの胚に人の細胞を混ぜて成長させれば、血管が人の細胞に置き換わったブタが生まれるというわけです。(最終更新2021.2.28 :動物性集合胚:人と動物のキメラ規制緩和に反対する要望書&まとめ│PEACE 命の搾取ではなく尊厳を

なんか、説得力が弱い。

本当に危険なんだろうか?

十分詰めていないが、別の話もあるので、賛否の議論をここで終える。

★学会方針

国際幹細胞学会(ISSCR: International Society for Stem Cell Research)のガイドラインは、現在、研究者がヒトと動物のキメラ作成を禁じている。

また、ヒトの細胞が動物宿主の中枢神経系と統合する可能性がある場合は、国際幹細胞学会は、十分に監視することを研究者に推奨している。

2021年5月26日、ところが、国際幹細胞学会は14日を超える胚の培養を禁止していた従来の方針を変え、条件付きで認めるとした。  → 2021年5月26日:The ISSCR Releases Updated Guidelines for Stem Cell Research and Clinical Translation

国際幹細胞学会の上記のサイトは情報が多く、変更点がわかりにくい。キメラ(Chimeras)の項目を見ても、わかりにくい。

結局、ガイドライン更新検討チームの議長を務めたロビン・ラヴェル=バッジ(Robin Lovell-Badge、写真出典同)のわかりやすい「Nature」記事を紹介しよう。 → 2021年5月26日の「Nature」:Stem-cell guidelines: why it was time for an update

議長のラヴェル=バッジ(Robin Lovell-Badge – Wikipedia)は、英国のフランシス・クリック研究所(Francis Crick Institute)の幹細胞生物・発生遺伝学部も部長でもある。

ラヴェル=バッジは「Nature」で次のように書いている(抽出)。

国際幹細胞学会は、実験室で無傷のヒト胚を培養できるのは14日間までとする「14日間ルール」を制定していた。14日を過ぎる胚は廃棄しなければならない。これが今までのガイドラインである。

14日というのは、中枢神経系の最初の兆候が現れる少し前の段階である(最初のニューロンは42日目に現れる)。

この「14日間ルール」は、既に、英国やオーストラリアなど数十か国で法制化されている。

そして、今回、最も大きな改訂点は、この「14日間ルール」を緩和したことだ。

約40年前に「14日間ルール」を制定したとき、世界の研究者の誰も、ヒト胚を5日間以上培養する技術を持っていなかった。

しかし、現在、14日間以上培養することが技術的に可能と思える状況になっている。

ところが、現在のルールはそれを禁止している。

つまり、現在のガイドラインは、ヒト胚を14〜28日培養することで、不育症(ふいくしょう、習慣流産)や心臓・脊椎の先天性異常の解明ができるかもしれない可能性を排除している。

これでは、現行のガイドラインが人類の健康と福祉に貢献する生命科学の足かせになっている。今回、その足かせを外すことにしたのである。

★国の規制

2015年、米国・NIHは、ヒト細胞を動物の胚に注入する研究に連邦政府の資金を提供しないと発表した。

米国と同じように、英国、日本など多くの国では、ヒト細胞を使用したキメラ胚の研究を制限している。

各国の規制の歴史・現状を省略するが、要するに、世界の多くの国がキメラ胚研究を規制している。

★日本

読者は日本の事情に関心が高いと思うので、日本のことだけ、もう少し解説しよう。

と言っても、他サイトの文章や新聞記事を以下に貼りつけただけだが。

まず、理解しておく2点。

  1. ヒトと動物のキメラや異種間雑種の作成に関する論争で、日本は日本独自の哲学・思想に基づいているわけではない。例によって米国(と欧州先進国)の後追いをしているだけである。
  2. 構造的問題として、規則を制定する委員は生命科学者が中心なので、基本的に研究推進派である(委員を選定するのは官僚で、この人たちも推進派)。産業界も研究推進派である。倫理と絡む問題だが、研究反対派の宗教人、動物愛護団体の人は入っていない。

総合科学技術会議や文部科学省でたくさんの議論をし、法律を作っているが、1つだけ以下に挙げる。

2012年1月17日、神里彩子「ヒトと動物のキメラをめぐる倫理的問題と今後の課題」に以下の記述がある。

動物性集合胚の取扱い期間は、原始線条が現れるまでの期間、あるいは、 原始線条が現れない場合でも作成した日から起算して14日間のみ(第5 条)

「我々は、人間の胚の発生過程の中の<原始線条の形成>に着目した。・・・これは胚が個体としての発生を開始する出発点である。」( The Warnock Report on Human Fertilisation and Embryology, 1984)

「ヒトに移植することが可能なヒトの細胞からなる臓器の作成に関する基礎的研究」に限り認める(特定胚指針第2条、第15条2項) 理由) 「動物体内での移植用臓器の作成研究など有用性が認められるとともに、 基本的に動物であることから、個別審査を前提に研究のためにこれを作成し 使用することは認めてよい。」(諮問第4号「特定胚の取扱いに関する指針につい て」に対する答申(平成13年11月28日総合科学技術会議))

2019年、日本はヒト細胞を含む動物胚の実験の禁止を解除し、そのような研究への資金提供を開始した。 → 2019年7月26日の「Nature」記事:Japan approves first human-animal embryo experiments

【胚「14日ルール」解禁の意味】

大隅典子・東北大学・副学長は、彼女が大学院生の頃から、白楽は面識がある。母親(大隅正子・日本女子大学・名誉教授)と科研費・研究班で一緒になったこともあり、母親にも面識がある。

先日、チョッとしたメールをもらったその大隅典子さんの顔写真が掲載されていた朝日の記事を引用しよう。

2021年6月19日の記事:ヒトはいつからヒトか 胚「14日ルール」解禁の意味は:朝日新聞デジタル保存版

大隅典子教授=本人提供:出典同記事

ヒトの受精卵(胚(はい))を使った研究について、各国は法律やガイドラインをつくり、受精から14日を超える胚の培養を厳格に禁じてきた。

だが、国際幹細胞学会は5月26日付で、指針を改定し、科学や倫理の専門的な評価、承認を受ければ認める分類に変えた。

これまで、なぜ14日でしばってきたのか。なぜいま、「14日ルール」を緩和するのか。受精卵をどこまで培養するのか。神経発生学が専門の大隅典子・東北大教授に聞いた。

・・・中略・・・

14日目ごろに「原始線条」という線ができて、上の層の細胞の一部がその線に沿って下に落ち込んでいきます。これが原腸陥入です。

このイベントを境に、①上の層が神経や皮膚などになる外胚葉(はいよう)、②下の層が消化器などになる内胚葉、③落ち込んだ細胞が血液や筋肉などになる中胚葉となり、運命が決まるのです。

さらに、14日目ごろにもう一つ大きなイベントが起きます。体に「左右」ができるのです。心臓が若干左側にあるように、ヒトの体は左右対称ではありません。

受精から14日目ぐらいに一部の細胞に生えた毛がぐるぐる回り始めます。その回転によって物質の流れができて、ある遺伝子は必ず左側だけではたらくようになるのです。

――ただ、受精したときからヒトという考え方もあるのではないでしょうか。

受精卵の中で、着床してさらに発生が進むのは全体の3割ほどと言われています。

受精した時点でヒトだとすると、おなかの中でたくさんのヒトが死んでいると考えることになり、現実的な考えではありません。

また、ES細胞(胚性幹細胞)は、受精して4~5日目の胚の一部を使います。

詭弁(きべん)かもしれないですが、ES細胞をつくるために、受精から1週間の胚をヒトの萌芽(ほうが)と呼ぶにはまだ早いことにしないと、研究者の心が痛みます。

もちろん、堕胎が21週までという点や、本当の意味での人権は生まれてからという点で、法律的なヒトの始まりとは異なります。

【胚「14日ルール」解禁】

2021年6月22日の記事:ヒト胚ルール見直し 「禁断」の領域に踏み出すわけは :朝日新聞デジタル保存版

ヒトの胚の培養は14日までとするルールは、40年ほど前に提唱され、英国などでは法律で、日本では国の指針で規定されている。

見直しに動いたのは、生命科学の分野で強い影響力を持つ国際幹細胞学会だ。2021年5月、同学会の指針を改定し、14日を超える培養を解禁した。

ただ、無条件に認めるわけではなく、科学や倫理の専門的な評価、承認を受けることとした。指針改定の委員会のメンバーで英フランシス・クリック研究所の発生生物学者、キャシー・ニアカン氏は、「14日を超えて培養したいグループに青信号を出すものではない」と強調する。

今後は各国が規制をどう見直すかが焦点になる。

改定作業に携わった京都大の斎藤通紀教授(細胞生物学)は「英国や米国、中国など、この分野の研究が進んでいる国は、間違いなく研究を進めてくるだろう。日本も世界の最先端にキャッチアップしていく必要がある」と指摘する。

つまり、日本も間もなく「14日間ルール」を緩和するだろう。

そして、いずれ、世界のどこかの研究者が、ヒトと動物のキメラ胚を 1つの生命体として誕生させてしまう。人間と動物のあいのこ(キメラ、さらには、異種間雑種)が作成される。人々が強固に反対しなければだが・・・。

●6.【論文数と撤回論文とパブピア】

★パブメド(PubMed)

2021年7月26日現在、パブメド(PubMed)で、ファン・カルロス・イズピスア・ベルモンテ(J. C. イズピスア・ベルモンテ、Juan Carlos Izpisua Belmonte、Juan Carlos Izpisúa Belmonte、Juan Carlos Izpisúa)の論文を「Izpisua Belmonte[Author]」で検索した。1989~2021年の33年間の392論文がヒットした。

2021年7月26日現在、「Retracted Publication」のフィルターでパブメドの論文撤回リストを検索すると、0論文が撤回されていた。

★撤回監視データベース

2021年7月26日現在、「撤回監視(Retraction Watch)」の撤回監視データベースでファン・カルロス・イズピスア・ベルモンテ(J. C. イズピスア・ベルモンテ、Juan Carlos Izpisua Belmonte、Juan Carlos Izpisúa Belmonte、Juan Carlos Izpisúa)を「Izpisua Belmonte」で検索すると、0論文が訂正、0論文が撤回、「2017年8月のNature」論文・ 1論文が懸念表明されていた。

「2017年8月のNature」論文の最期著者はシュークラト・ミタリポフ(Shoukhrat Mitalipov)である。イズピスア・ベルモンテが共著者になっているが、責任はミタリポフと考えてよいだろう。 → 「間違い」:シュークラト・ミタリポフ(Shoukhrat Mitalipov)(米) | 白楽の研究者倫理

★パブピア(PubPeer)

2021年7月26日現在、「パブピア(PubPeer)」では、ファン・カルロス・イズピスア・ベルモンテ(J. C. イズピスア・ベルモンテ、Juan Carlos Izpisua Belmonte、Juan Carlos Izpisúa Belmonte、Juan Carlos Izpisúa)の論文のコメントを「Izpisua Belmonte」で検索すると、16論文にコメントがあった。 

●7.【白楽の感想】

《1》危険・害?

本文で述べたように、ヒトと動物のキメラや異種間雑種の作成に反対の理由として、以下の2点がある。

  1. 基本的にしてはいけないことだから
  2. 危険・害があるから

しかし、多くの記事では、反対の理由を「倫理的問題があるから」と書いているだけで、つまり「1」だけで、「2」の理由を具体性に示している記事はとても少ない。

「具体性に示していない」ということは、危険・害を「具体的に示せない」という印象を受けた。つまり、大きな危険・害はない(または、予測できない)ということだ。

《2》タブーに挑戦 

ファン・カルロス・イズピスア・ベルモンテ(Juan Carlos Izpisua Belmonte)は、移植治療に使うヒトと動物のキメラ作成の研究以前に、遺伝子操作をしてマウスの老化を遅らせる研究をしていた。

以下の漫画は、レオニッド・シュナイダー(Leonid Schneider)のブログ記事にソーク研究所(Salk Institute)由来とあった漫画だが、老マウスが遺伝子操作されて、若くなっくる過程を描いている。

つまり、イズピスア・ベルモンテは生命科学研究のタブーに挑戦している。

ただ、本記事で議論したヒトへの移植用臓器の開発は、イズピスア・ベルモンテだけが独占的に先行した研究をしているわけではない。

日本人の中内啓光(なかうち ひろみつ、1952年 – )も「移植治療を目的とした、動物の体内におけるヒトの臓器の作製を目指している」(中内啓光 – Wikipedia)。 → 2013年7月11日記事:朝日新聞デジタル:動物の体内でヒト臓器 東大・中内教授「まずは膵島」 – テック&サイエンス

《3》映画「アイランド(The Island)

ヒト移植用臓器で、本記事では、H.G.ウェルズのベストセラー小説『The Island of Dr. Moreau』(モロー博士の島)を引き合いに出した。

ただ、白楽は、マイケル・ベイ監督の2005年の米国映画「アイランド(The Island)を思い出してしまう。

動物にヒト臓器を作らせるより数歩進んで、イヤイヤ、数歩ではなく、次元が異なる話だが、ヒト臓器を提供するためにクローン人間を作る話である。これが現実になることはないと思う。(画像出典:The Island (2005) – Moria https://www.moriareviews.com/sciencefiction/island-2005.htm)

《4》『生物改造時代がくる』

本記事では、白楽が翻訳した『生物改造時代がくる』を強く思い出した。

マイケル・ライスとロジャー・ストローハン(Reiss, Michael J., Straughan, Roger)の『生物改造時代がくる』(共立出版)を、1999年に白楽が翻訳した。表紙はアマゾン

大学名を忘れてしまったが、本書はどこかの大学の入試問題に採用された。

白楽が欧州歴訪中に事後報告があった。また、その数か月後、出版社から大学入試問題集に掲載したいので、許可してくださいという依頼がきた。

長谷川眞理子(現・総合研究大学院大学・学長)が朝日新聞に書評を書いてくれた(1999年6月6日版)。

白楽は長谷川眞理子さんに面識がないし、献本していなかったし、書評を依頼してわけではない。いまだに書評のお礼を言えていない。ここで御礼申し上げます。有難うございました。書評をクリックすると写真は大きくなります。2段階です。本ブログの多くの図表は拡大できます。

今回、この本を読みなおした。自分で訳しておいてなんだが、今回のような問題を考える枠組みとしてとても有益である。

例えば、以下の文章がある。「本の部分コピー」「原稿のコピー」の混在スタイルで以下示す。

―――
遺伝子操作が「モラル的に正しい、または、間違っている」と、証明できない。

―――
モラルの問題を検討するのに、もう1つ有力な方法がある。その方法とは、モラルの問題を“外在的問題”と“内在的問題”の2つに分類することである。遺伝子操作を例にとると、遺伝子操作の“操作自体が悪い”という内在的問題と、“操作の結果おこることが悪い”という外在的問題、のどちらかに問題を分類するのである。
―――

新しい科学技術のよって得られる利益と支払う費用を天秤にかける。

―――

多くの人々が遺伝子操作を不自然だと思っていた。

ある人たちにとっては、これは本能的な反応ではなく、遺伝子操作がもたらす結果に不安なのを別の言葉で表現したにすぎないかもしれない。

それにしても多くの人々が遺伝子操作を不自然だと思っているのも事実だろう。

この思いの根源を一言でいうと、「何といっても自然が一番いい」という思いではないだろうか。

自然界は私たちがよく知っているように、長い進化の道のりをへてでき上がった。その長い進化の過程で悪いものは淘汰され、いいものが残った。

その選択は100%完全ではなかったかもしれないが、十分吟味されている。

この調和のとれた世界に、どこの馬の骨ともわからない遺伝子改造生物を導入するというのだから、これはまさにギャンブルだ、というわけだ。

――

遺伝子操作は不自然だという言葉のなかに、「神が創造した完璧な世界である自然を、遺伝子技術が冒涜しているのではないか」という宗教的感情が随所に見られる。

―――

非難の根底を最も単純に言い切ってしまうと、次のようになるだろう。

「自然そのもの及び自然であること、それら自体に価値があり、良いことで善なのだ。遺伝子操作は、それ自体不自然で、自然の摂理に逆らい、自然を乱す。生物種の枠組みを越えて交配するなどとんでもない。すべての遺伝子操作はそれ自体、内在的に悪い間違ったことである」。

―――

―――

「“自然”は良い正しいことで、“不自然”は悪い間違ったことだという考えをここで検討しようと思うが、そもそもこの断定的な言葉は正しいのだろうか?

“自然”の出来事、産物、結果、プロセス、傾向はすべて良くて正しいのだろうか?

まず現実をしっかり見つめてほしい。

地球上の現実の“自然”に存在する物質が人間の害になることはかなり多い。

また、人間の“自然”な感情や振る舞いからくる嫉妬心や攻撃性は、通常、ほめられたモラルとは思われていない。

“自然”の出来事である地震やハリケーンは、人間活動を破壊し、人々に苦しみをもたらし、その名の通り“自然”災害と呼ばれている。

さらには、“自然”の多くの病原性微生物が人々に苦痛と病気、そして死さえもたらしている。

このような現実をみると、“自然”は良い正しいことだとは思えなくなる。

それでも“自然”が良くて、“不自然”は悪いのだろうか?

―――

自然界にある生物種の境界を越えてはいけないという議論のなかに、“自然主義的過信”の特殊な例が見られる。この考え方のどこに欠陥があるか検討してみよう。

生物種の境界を明確に決めることができたとしても、実のところ、境界があること自体は良いも悪いもないハズである。だから、その境界を越えてはいけないとか越えたほうがいいとか、その境界についての正しい倫理基準を設定することはできない。

《5》安全性

タブーに挑戦する生命科学研究を禁止する要因の筆頭は“外在的問題”で、「安全性」である。

そして、現在、世界中で使われているその科学技術は全部安全なのだろうか?

「安全性」を理由に禁止する人々の根底は「変化への恐怖・不安」である。

「安全性」はそのいいわけである。

人間はズサンである。技術者も間違える。例えば、橋梁工事で写真(出典)のような不始末を起こす。 

医者も間違える。

例えば、体内にハサミを置き忘れる。

CNNは、医療過誤により米国で毎年約25万人が死亡し(つまり、毎年約25万人が医者に殺されている)、数百万人が負傷していると報告している(毎年数百万人が医者に心身を傷つけられている)。 → 2019年11月12日記事:The Most Common Types Of Medical Mistakes At U.S. Hospitals

日本の総人口は米国の4分の1として米国と同じ頻度で医療過誤が起こっていると仮定すると、毎年約6万人の日本人が医者に殺され、数十万人の日本人が医者に心身を傷つけられているとなる。

つまり、どんな技術も、100%の安全はない。得られる利益と支払う費用のバランスで判断していく。

今までも、ずーっと、人間社会はそうしてきた。

科学技術の危険性は事件・事故を隠蔽しなければ、そして、研究活動を維持させれば、いずれ克服されることが多い。そのために研究者がいて、日夜奮闘している。

以下再度、『生物改造時代がくる』から抜粋した。

―――

安全性を倫理(エシックス)的に評価するには、その新技術に関して、得られる利益と支払う費用を秤にかけるのだ。

―――

生物自然界の大異変の例としてあげられるのは、多数の人間がわけのわからない奇病にかかって死ぬとか、世界的な干ばつが起こるとか(霜の害から作物を守る“不凍バクテリア”を自然界にまくと、雨滴ができにくくなり、雨が降らなくなる可能性がある)、除草剤耐性の雑草が蔓延することなどである。

動植物の遺伝的多様性が失われれば、将来地球上に何か大きな変化があったとき自然界の受けるダメージが大きくて、自然界はすぐには立ち直れない、という恐怖もよく取り上げられる。

白楽には、これらの指摘・警告は非現実的な脅迫に思える。
―――

『生物改造時代がくる』を《4》で引用したが、同じ部分を再度、以下に示す。

人間社会はどんなに注意しても未来に起こるかもしれない大異変を回避できないにちがいない。

危険があると警告を受けた新技術の研究開発をすべて禁止してしまったら、まだ人類が気づいていない危機が将来やってきたときどうなるのだろう。

研究開発を禁止しなければ開発できたかもしれない未来の危機を救う理論や技術が、そのときないかもしれない。人類はそういうリスクを負うことになってしまわないのか?

いままでの科学技術の歴史を見てみると、人類の進歩は、まったく予期しない発見と発明の連続の上を歩いてきた。

遺伝子操作の研究開発を放棄して“安全なふり”をしようというのは、「新たな理論や技術を開発することで50年後に起こるかもしれない大異変を乗り切ろうとするな」、と私たちにいっているようにも聞こえる。

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日本がスポーツ、観光、娯楽を過度に追及する現状は日本の衰退を早め、ギリシャ化を促進する。日本は、40年後に現人口の22%が減少し、今後、飛躍的な経済の発展はない。科学技術と教育を基幹にした堅実・健全で成熟した人間社会をめざすべきだ。科学技術と教育の基本は信頼である。信頼の条件は公正・誠実(integrity)である。人はズルをする。人は過ちを犯す。人は間違える。その前提で、公正・誠実(integrity)を高め維持すべきだ。しかし、もっと大きな視点では、日本は国・社会を動かす人々が劣化している。どうすべきなのか?
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●9.【主要情報源】

① ウィキペディア英語版:Juan Carlos Izpisua Belmonte – Wikipedia
② 2021年4月15日のニディ・サブバラマン(Nidhi Subbaraman)記者の「Nature」記事:First monkey–human embryos reignite debate over hybrid animals
③ 2021年4月15日のアリス・パーク(Alice Park)記者の「Time」記事:Scientists Created the First Embryo With Human and Non-Human Primate Cells | Time
④ 2021年4月21日のレオニッド・シュナイダー(Leonid Schneider)のブログ記事:The Island of Dr Izpisua Belmonte – For Better Science
★記事中の画像は、出典を記載していない場合も白楽の作品ではありません。

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