ワンポイント:約29年前のデータねつ造事件だが、当時の関係者が調査の状況を詳述した資料は重要
●【概略】
ジェームス・アッブス(James H. Abbs、写真出典)は、米国・ウィスコンシン大学マディソン校(University of Wisconsin-Madison)・教授で、医師ではない。専門は神経科学(パーキンソン病)だった。
1987年(42歳?)、元院生の公益通報によりねつ造・改ざんが発覚した。
1987年(42歳?)、ウィスコンシン大学・予備委員会がシロと判定した。しかし、1988年1月(43歳?)、地元の新聞に「ウィスコンシン大学が事件隠蔽?」と、すっぱ抜かれた。
1988年1月(43歳?)、今度は、NIHが調査を始めたが、アッブスは、調査は不当と裁判所に訴えたので2年間のブランクが生じた。
1992年5月(47歳?)、裁判が決着し、NIH(つまり、研究公正局)は調査を再開した。
1996年4月2日(51歳?)、調査に4年もかかったが、研究公正局は、アッブスにねつ造・改ざんがあったと結論し発表した。締め出し期間は標準の3年間を科した。
ウィスコンシン大学マディソン校(University of Wisconsin-Madison)。写真出典
ウィスコンシン大学マディソン校(University of Wisconsin-Madison)。写真出典 By 英語版ウィキペディアのVonbloompashaさん, CC 表示-継承 3.0
- 国:米国
- 成長国: ?
- 研究博士号(PhD)取得:あり
- 男女:男性
- 生年月日:不明。仮に1945年1月1日とする。1970年に最初の論文を発表しているから
- 現在の年齢:79歳?
- 分野:神経科学
- 最初の不正論文発表:1987年(42歳?)
- 発覚年:1987年(42歳?)
- 発覚時地位:ウィスコンシン大学・教授
- 発覚:公益通報
- 調査:①ウィスコンシン大学・予備委員会、1987年4~7月。②NIH・1次調査、1988年4月-1989年暮。③裁判所、④NIH・2次調査、1992年5月-1996年4月2日、期間4年間
- 不正:ねつ造・改ざん
- 不正論文数:1報。1論文撤回
- 時期:研究キャリアの中期
- 結末:辞職していない? 名誉教授になった
●【経歴と経過】
ほとんど不明
- 生年月日:不明。仮に1945年1月1日とする。1970年に最初の論文を発表しているから
- 19xx年(xx歳):xx大学で研究博士号(PhD)取得
- 19xx年(xx歳):米国・ウィスコンシン大学・教授
- 1987年(42歳?):不正研究が発覚する
- 1996年4月2日(51歳?):研究公正局がアッブスにねつ造・改ざんがあったと報告した
●【不正発覚の経緯と内容】
アッブス事件では、学術誌編集長の対応と研究公正局(前身)の対応を、当時の学術誌編集長・ロバート・ダロフ(Robert Daroff)と研究公正局側のアラン・プライス(Alan Price )が、講演会資料や2015年の論文(20頁)で詳述している(【主要情報源】①、②)。
本記事は、それらの記述に準拠した。
★発端:バーロウの公益通報:1987年4月
1987年、アラン・プライス(Alan Price、上記写真右)はミシガン大学(University of Michigan)・学長補佐からNIHの管理職に移籍し、1989年、当時発足したばかりの科学公正局(研究公正局の前身)の調査官に就任した。
1987年1月1日、ロバート・ダロフ(Robert Daroff、上記写真左)はケース・ウェスタン・リザーブ大学(Case Western University)・神経生物教授に在籍のまま、米国神経学会(American Academy of Neurology)の公式学術雑誌「Neurology」誌の編集長に就任した。
1987年4月9日、ダロフ編集長は、アッブス教授の元院生で、ボーイズ・タウン・ナショナル研究所(Boys Town Nat. Inst.)のスティーブン・バーロウ(Stephen Barlow)から、1通の手紙を受け取った。
手紙には、アッブス教授の「1987年のNeurology」論文の図1のチャートは、1983年に発表した論文のチャートを加工して再使用したのではないかと指摘していた。
不正と指摘された論文は以下の論文で、アッブス教授が第1著者で、他の2人は「Hartman DE」「Vishwanat B.」で、所属はウィスコンシン州のグンダーセン医学財団研究所(Gundersen Medical Foundation in Wisconsin)だった。
- Orofacial motor control impairment in Parkinson’s disease.
Abbs JH, Hartman DE, Vishwanat B.
Neurology. 1987 Mar;37(3):394-8.
★指摘された不正の内容:図1
バーロウが不正と指摘したデータは図1、図2、図4の3つだった。
図1のチャートは「1983年のJ Speech Hear Res」論文の図6のチャートと酷似していた。「1983年のJ Speech Hear Res」論文は以下に示すように、バーロウが第1著者で、アッブス教授が最後著者だった。
- Force transducers for the evaluation of labial, lingual, and mandibular motor impairments.
Barlow SM, Abbs JH.
J Speech Hear Res. 1983 Dec;26(4):616-21.
以下が「1983年のJ Speech Hear Res」論文の図6である。少し傾いているが。
そして、「1987年のNeurology」論文の図1は以下である。
両者を重ね合わせると以下のように、チャートはほとんど一致した。
これで、「1987年のNeurology」論文の図1のチャートはデータが流用されたもの(つまりねつ造)だとわかる。
白楽の感想として、チャートはピッタリとは一致していないので、「流用が明白」とは言いにくい気もするが、この分野では、偶然でこんなに一致することはないそうだ。チャートの形が少し違うのは、別に見えるように少し操作したためと理解されている。
図2と図4は、白楽には、実験ノートや元データをみないと、ねつ造・改ざんかどうか判定できない。バーロウがどの部分をねつ造・改ざんと指摘したのか、白楽は把握していない。ただ、このグラフなら、ねつ造・改ざんは容易にできるだろう。
★ダロフ編集長の選択:1987年5月
問題の「1987年のNeurology」論文は以下のスケジュールで出版されていた。
投稿:1985年8月
受理:1986年1月
出版:1987年3月
バーロウがねつ造と公益通報してきた時、ダロフ編集長の選択肢は3つあった。
- 無視。編集長就任前に出版されているので自分としては問題としない
- 手紙をアッブス教授に送り、反論させる
- 編集委員会を招集するなどして、決着をつける
ダロフ編集長の講演スライドには、「JCI」誌編集長のスティーヴン・ロック(Stephen P. Lock)の言葉が加えてあった。
「我々はJCIであって、FBIではない(We are the JCI, not the FBI)」・・・スティーヴン・ロック(Stephen P. Lock)
しかし、バーロウは同じ内容の手紙を以下にも送付していた。
- ウィスコンシン大学医科大学院長(UW/M Medical School Dean)
- ウィスコンシン大学ワイスマン・センター長(UW/M Waisman Center Director)
- ウィスコンシン大学神経学・神経生理学科長(UW/M Neurology and Neurophysiology Department Chairmen)
- 「J Speech Hear Res」誌編集長(Editor of the Journal of Speech and Hearing Research)
- NIH ・NINCDSの副所長(Deputy Director of the National Institute for Neurological and Communicative Disorders and Stroke (NINCDS) at the NIH)・・・「1987年のNeurology」論文に研究助成した機関
当時、研究公正局はまだ発足しておらず、前身の科学公正局のそのまた前身の組織が、ジェームス・アッブスの研究ネカト疑惑の通報を受けた。
結局、ダロフ編集長は「決着をつける」決心をした。それで、次のように対処した。
バーロウに返事を書いた .
また、バーロウの手紙を、①ウィスコンシン大学の院長と②学科長、③グンダーセン医学財団研究所長、④NIH ・NINCDSの所長に送付した
さらに、「1987年のNeurology」論文の著者3人(アッブス教授と「Hartman DE」「Vishwanat B.」)にも手紙を書いた。
1987年5月、ダロフ編集長は、アッブス教授からの研究ネカトを否定する長い手紙を受け取った。
当時の状況を少し述べる。
1980年代後半から1990年代初頭、生物医学や医学の学術誌の編集長の研究ネカトに対処する考え方・方法に、コンセンサスはなかった。
1990年の科学公正局の学術誌編集長の会合に、24人の編集長が集まったが、編集長の1人は大学がねつ造・改ざんと結論しても、自分としては論文撤回はしたくないと述べていた。他の編集長は、論文を撤回できるのは著者であって編集長ではないとも述べていた。これら無知・無能と思える発言にダロフ編集長はとても驚いたそうだ。
★ウィスコンシン大学の対処:1987年4~7月
1987年4月、ウィスコンシン大学医科大学院長(UW/M Medical School Dean)のアーノルド・ブラウン(Arnold Brown、写真出典)は、神経学科長のヘンリー・シュッタ教授(Henry Schutta)にバーロウの公益通報に対処する予備委員会を設けるよう命じた。
シュッタ委員長は、予備委員会の4人の委員のうち3人を、アッブス教授と同じ神経学科から選んだ。予備委員会は、実際は一度も開催されず、アッブス教授からの書面での回答を求め、その回答に対して各委員が委員長に意見を伝えるというプロセスで進めた。
1987年5月、シュッタ委員長は、アッブス教授の回答に対する各委員の意見をまとめ、ブラウン院長に「バーロウのアッブス教授に対する不正の申し立ては根も葉もないという結論に至りました。予備委員会の結論としては、公式な調査を要求する正当な理由が見当たりません」と回答した。
1989年に発布された政府(健康福祉省)の研究ネカト規制では、研究ネカトの委員会は、利益相反がない専門家からなる委員で委員会を構成し、フェアーで分析的な報告書としてまとめることとしていた。
しかし、1987年当時はその研究ネカト規制は発布されていなかった。シュッタ委員長は、少なくとも、アッブス教授が所属する学科以外から委員を選ぶべきだったが、そうしなかったのである。
1987年6月、ウィスコンシン大学のブラウン医科大学院長は、シュッタ委員長のまとめた報告書をNIHの外部研究局副局長(NIH Deputy Director for Extramural Research)のキャサリン・ビック(Katherine Bick、写真出典)に送付した。
そこには、「不正申し立てには根拠がない。さらなる調査は不要」と記してあった。
1987年6月、シュッタ委員長(神経学科長)はバーロウに次のように報告した。
「貴殿は誤っており、疑念は称賛すべきものではないという結論に、委員会は至りました。貴殿が重大なエラーをしたことは明らかです。私達は貴殿がアッブス教授と他の2人の共著者に謝罪する倫理的責任があると強く思います。従って、私達は貴殿からの謝罪を持って、委員会を終了する予定です」。
しかし、バーロウは謝罪に応じなかった。次節に示すように、別の手段に訴えた。
★新聞報道:1988年1月
1988年1月30日、地元の新聞「The Capital Times」紙のガードナー・セルビー記者(Gardner Selby)が「ウィスコンシン大学が事件隠蔽?(A UW Whitewash?)」という記事を書いた。
記事の中で、バーモント大学の言語病理学・教授のバリー・ギター(Barry Guitar、写真出典)は、「1987年のNeurology」論文の図のチャートと「1983年のJ Speech Hear Res」論文の図のチャートが偶然似たなんて「異様」だと述べ、バーロウの不正申し立ては、根拠があり、ウィスコンシン大学ともアッブス教授とも無関係な専門家の委員を選出し、調査すべきだと批判した。
アッブス教授の大学院時代の指導者・ロナルド・ネツェル・名誉教授(Ronald Netsell、写真出典)も、「チャートは本来、完全に別ものだ。それなのに、別の実験のチャートがこれほど重なり合ったというのを、私はかつて、一度も見たことがない」と述べている。
セルビーの記事は、ウィスコンシン大学ワイスマン・センター(UW/M Waisman Center)のアッブス研究室の研究員・ゲーリー・ワイスマー(Gary Weismer)の証言も掲載していた。
ワイスマー研究員はウィスコンシン大学・予備委員会の2人の委員からの質問に、バーローの申し立てを支持すると答えた。そのため、見せしめに、研究室から段階的に退去するよう、アッブス教授から命令されたのである。イヤガラセである。
記事はアッブス教授の主張も掲載していた。「問題のチャートは、ワイスマン・センターの5階に自分のオフィスがあるが、その4階にある製図室で、午前6時ごろ、手で描いた。そこは、共同研究者とは別のキャンパスだから、それを証明する証人はいないし、チャート作成の協力者もいなかった」。
1988年4月、NIHの「研究ネカト退治隊(fraud-busters)」隊員の研究者・チャールズ・マカッチェン(Charles McCutchen)は問題視されたチャートを分析し、NIHのキャサリン・ビック副局長に、「偶然似る確率は異様なほど低い。1983年の論文のチャートを少し改変し1987年の論文に使用したと考えざるを得ない」と伝えた(【主要情報源】⑤)。
★NIHの再検討:1988年1月
1988年4月、マカッチェンの報告を受けたキャサリン・ビック副局長は、アッブス教授、バーロー、ブラウン院長、ダロフ編集長の4人に手紙を書いた。
「私達は、提供された情報に基づいて、1987年に、バーローの主張を無効としたが、事件に無関係な科学者の最近の分析によると、私達の結論が間違った情報または不完全な情報に基づいてなされたと思われる。ウィスコンシン大学調査報告書の関係者は、追加の調査を行ない、調査報告書へのコメントをNIHに提供するよう求める」
1988年5月、ビック副局長は、ウィスコンシン大学からの追加の調査報告書とコメントを受け取った。NIHのNINCDS委員会にそれらを分析するよう依頼した。
1988年8月、NINCDS委員会は分析結果をビック副局長に次のように伝えた。
「マカッチェンの議論は説得力に欠ける点がある。また、マカッチェンの分析に不適切は統計処理が見られた。委員会は、問題が簡単に解決するとは考えられない」と報告した。
1988年9月、ビック副局長は新たに別の上級調査委員会を設け、すべての資料を検討するよう依頼した。
1988年10月、NIHの研究所連絡事務所長はビック副局長の名前で、アッブス教授に問題の論文に関係したすべての患者の測定グラフを提供するよう依頼した。
1988年12月、アッブス教授は研究をまとめた表を提出したが、実験ノート、メモ、患者の測定グラフは一切、提出しなかった。1987年の論文で記載した図のデータは実験室で自分1人で測定したと主張し、その方法を詳細に記述した文書は提出した。
1989年3月、ダロフ編集長は、マカッチェンの手紙と重ね合わせたチャートを学術雑誌「Neurology」誌に掲載した。
「バーロー氏は2つ目の図のチャートは1つ目の図のチャートをトレースしたものだと主張しています。読者のみなさんご自身がご判断ください。ここに、チャートを重ね合わせた図も示します」と記載した。アッブス教授の反論も同時に掲載した。
1989年3月、NIH副所長のウィリアム・ラウブ(William Raub、写真出典)が、生物統計学の6人の専門家に意見を聞いた。3人の専門家はそれぞれ異なる方法で分析したが、結論は基本的には同じで、「チャートが偶然同じになる確率はきわめて低い」だった。
1989年夏、ラウブ副所長は分析の結果を、その頃発足した科学公正局(研究公正局の前身)に渡した。
1989年暮、科学公正局の調査官・アラン・プライス(Alan Price)が、科学公正局に移籍した最初の仕事としてこのケースの調査を担当した。
★ダロフ編集長の公開:1990年1月
1990年1月、ダロフ編集長はアッブス教授の反論に対するゲーリー・ワイスマー(Gary Weismer)の批判を学術雑誌「Neurology」誌に掲載した。ワイスマーはアッブス研究室の元・研究員でウィスコンシン大学・教授になっていた。
★裁判:1990年1月
1990年1月と2月、科学公正局のプライス調査官はアッブス教授に研究ネカトの調査をすると通告した。
科学公正局の要請に応じ、アッブス教授は8人の専門家を推薦してきた。内2人は委員を引き受けるとのことだったので、科学公正局は部外の専門家として別の2人の委員を選任し、調査委員会を発足させた。
アッブス教授に書面で伝えたあと、1990年6月4日にウィスコンシン大学でインタビューを予定していると、5月11日に伝えた。
1990年6月1日、アッブス教授が新たに雇った弁護士・カール・グルブランドセン(Carl Gulbrandsen)が6月4日のインタビューに関する手紙のやり取りのコピーが欲しいと言ってきた。
コピーを受け取ったグルブランドセン弁護士は、6月4日のインタビュー開催のプロセスに問題があるとし、アッブス教授に「質問には何も答えるな」とアドバイスした。
1990年6月4日、科学公正局チームは仕方なくアッブス教授抜きで、他の人たちにインタビューしてきた。
1990年7月、ウィスコンシン大学の法務・役員事件担当副学長のメラニー・ニューバイ(Melany Newby)は、アッブス教授の研究記録の科学公正局への提出を拒否した。
というのは、アッブス教授は、科学公正局は連邦政府の「行政手続法(Administrative Procedure Act) 」に違反していると、健康福祉省と科学公正局を相手に、ウィスコンシン連邦裁判所に訴訟を起こしたのである。そして、ウィスコンシン大学は原告(アッブス教授)側の一部だったからだ。
なお、健康福祉省は当時の科学公正局の行政手続きを1991年の官報(Federal Register)に印刷・発表していた。連邦政府の不正調査では、それまで、このような行政手続きを、どの省庁もしてこなかった。
1990年10月、ウィスコンシン連邦裁判所は、裁判中なので、一時的であれ、科学公正局の調査を認めなかった。つまり、調査は中断されたままになった。
1990年12月、ウィスコンシン連邦裁判所の判決は、アッブス教授の勝訴になった。
健康福祉省はワシントンD.C.の連邦控訴裁判所(Federal Appeals Court)の上級審にすぐに控訴した。
1992年5月、1年半後、連邦控訴裁判所の裁決は、ウィスコンシン連邦裁判所の判決を無効とし、アッブス教授の訴えを却下した。1989年の規則に従い、アッブス教授事件は現在も調査中だとした。(【主要情報源】④)
しかし、アッブス教授が研究ネカト調査の手順に異議を唱え、裁判をおこしたことで、結局、約2年間、調査は中断してしまった。
★NIH調査の再開:1992年5月
1992年5月、新しく設立された研究公正局で、科学調査官のプライスは調査を再開するとウィスコンシン大学に伝えた。
1992年6月、ウィスコンシン大学のデイヴィット・ワード学長(UW/M Provost David Ward)は調査を再開するための資料を送付してくれるように研究公正局に依頼した。
プライスは、1990年5~6月にウィスコンシン大学に送付した手紙の内容を思い出した。そこには、ウィスコンシン大学の1987年の調査には、客観性、徹底さ、能力が欠けていると懸念したから、科学公正局(研究公正局の前身)が調査したという内容だったのだ。
ウィスコンシン大学は、1987年と1990年に調査したので、1992年も調査すると伝えてきたが、研究公正局が独自に調査していけない理由はない。
研究公正局は、独自に調査をし、ウィスコンシン大学からさらに情報を得ようと1993年まで試みた。
1993年11月、ウィスコンシン大学はいくつかの資料を送付してきた。
1994~5年、研究公正局はじっくり調査した。
1996年2月、研究公正局は調査報告書をまとめ、草稿をアッブス教授に送付し、コメントを求めたが、アッブス教授からは何もコメントが得られなかった。
★研究公正局の結論と行政手続き:1996年4月2日
1996年3月、健康福祉省の研究公正局担当・弁護士(HHS OGC Counsel for ORI)のスティーヴン・ゴデック(Stephen Godek)は、アッブス教授と調停合意の示談交渉をした。
研究公正局は、「1987年のNeurology」論文の図1、図2、図4の3つをねつ造・改ざんと結論した。この結論について、アッブス教授は、肯定も否定もしなかったが、3年間の締め出し期間には同意した。
1996年4月2日、研究公正局は、官報に、アッブスにねつ造・改ざんがあったと発表した。締め出し期間は標準の3年間を科した(Federal Register, Volume 61 Issue 69 (Tuesday, April 9, 1996))。
★論文撤回:1996年8月
研究公正局は、詳細な調査内容を添え、「1987年のNeurology」論文の撤回を、学術雑誌「Neurology」誌のダロフ編集長に依頼した。
アッブス教授は、以前から「国際医学ジャーナル編集者委員会(International Committee of Medical Journal Editors)」の規定によれば、「論文撤回には正当性がない。妥協しても部分撤回だ」とダロフ編集長に伝えていた。
しかし、研究公正局長のクリス・パスカル(Chris Pascal, J.D.)は、アッブス教授が論文撤回のルールを誤解しているとダロフ編集長に伝えた。
1996年8月、ダロフ編集長は研究公正局の調査結果により、「1987年のNeurology」論文にはデータねつ造・改ざんがあるという理由で、論文を撤回した。
●【論文数と撤回論文】
2016年4月20日現在、パブメド(PubMed)で、ジェームス・アッブス(James H. Abbs)の論文を「Abbs JH [Author]」で検索すると、1970~1998年の61論文と2011年の1論文の計62論文がヒットした。
2016年4月20日現在、1論文が撤回されている。本記事で問題視している「1987年のNeurology」論文が1996年に撤回されている。
- Orofacial motor control impairment in Parkinson’s disease.
Abbs JH, Hartman DE, Vishwanat B.
Neurology. 1987 Mar;37(3):394-8.
Retraction in: Neurology. 1996 Aug;47(2):340.
●【事件後の人生】
第一追及科学者のスティーブン・バーロウ(Stephen Barlow、写真出典)はその後どうなったか?
バーロウはボーイズ・タウン・ナショナル研究所(Boys Town Nat. Inst.)で熱心に研究を続け、インディアナ大学 (Indiana University) に移籍した。次いで、カンザス大学 (University of Kansas)に移籍し、NIHから研究費の助成を受け、2000年に正教授に、その後、学科長なった。2016年現在もカンザス大学・教授である。
●【白楽の感想】
《1》事件の対処記録
ダロフとプライスの事件資料は貴重である。事件への対処例は、今後の、研究ネカト処理の参考になるだろう。
日本も事件の対処記録を作って公表したらどうだろう。
《2》第一追及科学者と追及記者
この事件も優れた第一追及科学者・スティーブン・バーロウ(Stephen Barlow)の功績が大きい。そして、本来その追及に感謝し徹底的に調査すべき大学当局(ヘンリー・シュッタ神経学科長)がアホだった。大学当局が研究ネカトの解決の邪魔をした。このパターンは研究ネカトでよくある1つの典型だ。
第一追及科学者を顕彰し、当局を処罰するシステムを作るべきだ。研究ネカト対処システムの改善ポイントだ。
もう1つ、マスメディアの追及記者も重要な働きを果たしている。アッブス事件では、バーロウの話を聞いて記事にした「The Capital Times」紙のガードナー・セルビー記者(Gardner Selby、写真出典)である。この記事で、事件に蓋をしたウィスコンシン大学がひっくり返った。この記者にジャーナリズム賞だ!
原理として、第一追及科学者と追及記者のコンビがうまく機能したときだけ、闇に葬られそうになった研究ネカトが白日にさらされる。この2者は研究ネカト解明に、ほぼ必須である。
米国の研究公正局は強力ではあるが、研究公正局が事件を見つけるわけではない。単に、誰かが発掘した事件を調査するだけだ。だから、発見する人と発掘する人、つまり、第一追及科学者と追及記者が重要なのだ。
日本は、この点、まるで意識がない。逆行はしていないと思うが、改善ポイントだと理解できていないようだ。
《3》大学当局が邪魔をした
本事件は1987年発覚の研究ネカト事件だが、大学当局が研究ネカトの解決の邪魔をした。
その後、約30年経過しているが、2016年4月20日現在も、大学当局が問題視される場合が多い(気がする)。2016年4月5日の記事でイヴァン・オランスキー(Ivan Oransky)とアダム・マーカス(Adam Marcus)が指摘している(Universities stonewall investigations of research misconduct)。
研究ネカトが発覚すると、研究者の所属する大学当局が、問題対処の主導権を握る。しかし、実際の担当者は、通常、研究ネカト問題の素人である。そして、大学の体面や評判を守ろうと、隠蔽する傾向が強い。
米国では研究公正局がアドバイスするし、各大学に研究公正官がいるので、それなりのレベルが保たれる。それでも、学長や副学長がトンデモない判断ミスをする場合がある。
ましてや、日本を含め、研究公正局や研究公正官がおらず、研究ネカトへの対処システム・意識・文化が低い国・大学は多い。研究ネカト問題の改善では、大学当局もなんとか変わる必要があるだろう。
●【主要情報源】
① 2012年5月19日講演。Robert Daroff and Alan Price、「CSE Short Course on Publication Ethics」:https://www.resourcenter.net/images/CSE/Files/2012/AnnMtg/Handouts/Daroff_Price_PublicationEthics.pdf(保存版)
② 2015年論文。Alan Price and Robert Daroff:「Historical Model for Editor and Office of Research Integrity Cooperation in Handling Allegations, Investigation, and Retraction in a Contentious (Abbs) Case of Research Misconduct」。Accountability in Research 22 (2), 63-80 (2015)(保存版)
③ 1996年4月2日、研究公正局の報告:1996.04.02 : ORI CONCLUDES INVESTIGATION AT UNIVERSITY OF WISCONSIN-MADISON(保存版)
④ 1992年5月1日決定。裁判記録。U.S. Court of Appeals for the Seventh Circuit – 963 F.2d 918 (7th Cir. 1992) Argued Jan. 13, 1992. Decided May 1, 1992:James H. Abbs and Board of Regents of the University Ofwisconsin System, Plaintiffs-appellants, Cross-appellees, v. Louis W. Sullivan, Secretary of the Department of Health Andhuman Services, et al., Defendants-appellees,cross-appellants, 963 F.2d 918 (7th Cir. 1992) :: Justia(保存版)
⑤ 1988年4月12日、議会小委員会前の証言。TESTIMONY BEFORE THE DINGELL SUBCOMMITTEE 12 APRIL 1988(保存版)
⑥ 1996年5月17日の「Science」誌:\Friendly, Jock. “After 9 Years, a Tangled Case Lurches Toward a Close,” Science 272 (17 May(保存版)
★記事中の画像は、出典を記載していない場合も白楽の作品ではありません。