ヨハヒム・ボルト (Joachim Boldt)(ドイツ)

【概略】
141024 Dr_-Joachim-Boldt-620x380ヨハヒム・ボルト (Joachim Boldt)は、ドイツのギーセン大学・教授、シュタット・ルートヴィヒスハーフェン病院(Klinikum Ludwigshafen)・主任麻酔科医で、人工血漿、静脈内輸液のカリスマ専門家として世界的に高い評価を得ていた。手術中に血液量を増やすための輸液コロイド(HES::ヒドロキシエチルでんぷん液)の使用を推奨していた。写真出典

ところが、2010年、治験審査委員会に未承認の研究実施、データねつ造論文で有罪と立証され、ギーセン大学・教授を解雇された。1999年以降に発表した102論文の内、88報が論文撤回となった。

  • 国:ドイツ
  • 成長国:ドイツ
  • 男女:男性
  • 生年月日:1954年9月29日
  • 現在の年齢:62歳
  • 分野:麻酔科学
  • 最初の不正論文発表:
  • 発覚年:2010年(56歳)
  • 発覚時地位:ギーセン大学(正式名:ユストゥス・リービッヒ大学ギーセン)・教授、シュタット・ルートヴィヒスハーフェン病院・主任麻酔科医
  • 発覚: 論文読者
  • 調査:シュタット・ルートヴィヒスハーフェン病院調査委員会。2011年2月~2012年8月。調査期間は1年6か月
  • 不正:データねつ造。治験審査委員会に未承認の研究実施
  • 不正論文数:撤回論文数は88報。撤回論文数の多さは世界2位
  • 時期:研究キャリアの初期から
  • 結末:大学と病院の辞職。犯罪捜査が終われば、10年以上の実刑と10万ユーロ(約1,400万円)の罰金と言われている

141024 1280px-Ludwigshafen_Klinikum_20100709[1]写真:シュタット・ルートヴィヒスハーフェン病院(Klinikum Ludwigshafen)  © Rudolf Stricker / Wikimedia

★主要情報源:
① ウィキペディア Joachim Boldt – Wikipedia, the free encyclopedia
② リトラクチョン・ウオッチ(Retraction Watch)の記事:(Boldt inquiry concludes: False findings in at least 10 studies, but no harm to patients | Retraction Watch
③ 2011年3月3日のヘイディ・ブレイク(Heidi Blake)の「Telegraph」紙の記事:Millions of surgery patients at risk in drug research fraud scandal – Telegraph

【経歴】
事件前の経歴がサイトから削除され、不明点が多い。
141024 pionierzy2a[1]写真出典

  • 1954年9月29日:ドイツで生まれる(推定)
  • 1993年(38歳):ギーセン大学の「並外れた教授(”professor extraordinary”)」と呼ばれた
  • 2010年(56歳):不正研究が発覚する。ギーセン大学・教授。シュタット・ルートヴィヒスハーフェン病院主任麻酔科医。この時点で、静脈内輸液のカリスマ専門家として世界的に高い評価を得ていた
  • 2010年(56歳)11月:シュタット・ルートヴィヒスハーフェン病院を辞職
  • 2011年(56歳)2月:ギーセン大学・教授職を解かれる

【不正発覚の経緯】

2009年12月4日 学術誌『Anesthesia & Analgesia』(麻酔と無痛覚)にボルトの論文が出版された。

2009年12月18日 論文読者から学術誌『Anesthesia & Analgesia』(麻酔と無痛覚)の編集長スティーブン・シェーファー(米国・スタンフォード大学・麻酔学教授)(Steven Shafer – Wikipedia, the free encyclopedia)に公益通報の電子メールが届いた。電子メールには「結果は異常にきれいすぎる。血液凝固への効果などは“魔法”だ」とあった。

2011年2月 シュタット・ルートヴィヒスハーフェン病院が調査委員会(委員長:Eike Martin教授)を設け、調査を開始した。

★【動画】シュタット・ルートヴィヒスハーフェン病院の調査委員会(委員長:Eike Martin教授)「WEBREPORT: AFFÄRE UM JOACHIM BOLDT」、(ドイツ語)44秒、RegenbogenDEが2012/08/08 に公開

2011年3月 研究ジャーナル6誌の編集長は、ボルトの102論文の内の89論文がドイツの治験審査委員会(IRB = Institutional Review Board)の承認を受けていない研究だったと発表した(BBC News – ‘Unethical’ anaesthetics research is retracted)。6誌のうち4誌は「Anesthesia & Analgesia」「Anaesthesia」「European Journal of Anaesthesiology」「British Journal of Anaesthesia」である。

2012年8月 シュタット・ルートヴィヒスハーフェン病院調査委員会が報告書を公表した。

約1年6か月かけて、ヨハヒム・ボルト氏の1999~2011 年の91論文を調査しました。論文の多くは研究記録が消失または不完全でした。記録保持の規則に違反していると思われます。また、生命倫理委員会からの倫理的指導を受けていません。患者のインフォームド・コンセントの正式書類がありません。

ヨハヒム・ボルト氏の多くの研究は研究遂行基準を満たしておりません。患者数、診断、検査日などのデータねつ造が、少なくとも10論文に見つかりました。

治療された患者は455人で、患者の医療記録を調べましたが、ヨハヒム・ボルト氏の不正行為のために医療被害を受けた患者はおりませんでした。

上記の報告書は「かなりいい加減」と批判されたためか、現在、削除されていて閲覧できない。記述は、リトラクチョン・ウオッチ(Retraction Watch)の記事を参考にした(Boldt inquiry concludes: False findings in at least 10 studies, but no harm to patients | Retraction Watch)。

2014年2月4日 ドイツ医学評議会(German medical board)は、ボルトの90論文は治験審査委員会(IRB)の承認を受けていない研究なので、撤回するようにと要求した(Quack Doc Watch: German Medical Board Issues Sweeping Findings in Boldt Case)。

【撤回論文】

141024 aamisconductcover[1]2013年1月 88論文が撤回されるところ、79論文が撤回され、9論文が撤回されていない。

2014年10月24日現在で約90論文が撤回されることになっている。撤回論文数が多いので、ここに全部はリストしない。2報だけあげた。写真出典

  1. Cardiopulmonary bypass priming using a high dose of a balanced hydroxyethyl starch versus an albumin-based priming strategy.
    Boldt J, Suttner S, Brosch C, Lehmann A, Röhm K, Mengistu A.
    Anesth Analg. 2009 Dec;109(6):1752-62. doi: 10.1213/ANE.0b013e3181b5a24b.
    Retraction in: Shafer SL. Anesth Analg. 2010 Dec;111(6):1567.
  2. Volume replacement with a balanced hydroxyethyl starch (HES) preparation in cardiac surgery patients.
    Boldt J, Mayer J, Brosch C, Lehmann A, Mengistu A.
    J Cardiothorac Vasc Anesth. 2010 Jun;24(3):399-407. doi: 10.1053/j.jvca.2010.03.001.
    Retraction in: J Cardiothorac Vasc Anesth. 2011 Aug;25(4):755-7.

【研究内容の背景・状況】

ヨハヒム・ボルトの専門である人工血漿・静脈内輸液はどういう問題があったのか。ボルトが使用を推奨していた輸液コロイドのヒドロキシエチルでんぷん(HES::hydroxyethyl starch)の効能と害はどうだったのか?

ヒドロキシエチルでんぷん(HES)は、臨床的治療として、世界で普通に使用されている。

歴史的には、1960年代、フェーズ3の臨床試験(大規模な効能と安全性の試験)なしに病院で使用されるようになった。その後の研究は、利点と害の両方を示していたが、ヨハヒム・ボルトは高分子・高置換度のHES製剤に利点があるという研究結果を発表したので、さらに論争が過熱した。

141024 51526228_m550238-surgery-spl-1[1]写真:手術でヒドロキシエチルでんぷん(HES)製剤を使用

札幌医科大学医学部麻酔科の山蔭道明の論文を引用しよう。

代用血漿剤は,第一次世界大戦時にその必要性から開発され使用された.ゼラチンや合成ポリペプチドなどいくつかの種類が開発されたが,アナフィラキシィや血液凝固障害などの副作用により,臨床使用されなくなった.ヒドロキシエチルでんぷん(hydroxyethyl starch:HES)製剤は,1963年にThompsonとWaltonによってはじめて開発され,その後,数種類のHES製剤が発売され,臨床応用されている.

代用血漿剤のhydroxyethyl starch(HES)製剤は,感染の危険性がなく,血液製剤よりも安価であるなどの利点があり,血液製剤の使用前にその使用が望まれる.しかし,出血傾向や腎機能障害が懸念され,その利用が控えられているのが現状である.これら合併症は,高分子・高置換度の製剤で懸念された事象であり,本邦で使用されている低分子・低置換度のHES製剤では特に問題とならない.また,HES分子は加温にも安定であり,保温庫での保存や加温後の使用が可能である.(山蔭道明:「Hydroxyethyl starch(HES)製剤の現状と今後の展望」、Anesthesia 21 Century Vol.11 No.1-33 2009)

ヨハヒム・ボルトは、高分子・高置換度のHES製剤の使用を推奨していたが、HES製剤企業であるドイツのビー・ブラウン社(B. Braun、従業員3万人超), 米国のバクスター社 (Baxter、従業員5万人超) 、ドイツのフレゼニウス社(Fresenius Kabi.、従業員20万人超)から研究費をもらっていた。また、国際的学術会議のアゴアシ付き講演(paid to speak)で、しばしば高分子・高置換度のHES製剤を「聖杯の品(”the holy grail”)」と呼んでいた(出典:③ 2011年3月3日のHeidi Blakeの「Telegraph」紙の記事)。

と、ボルトを非難する記事があるが、白楽の理解では、妥当かどうかの議論は別にして、関連企業から研究費をもらうのはごく普通に行なわれている。また、「アゴアシ付き講演(paid to speak)」とあるが、招待講演は旅費・宿泊費などの実費+少々も、ごく普通に行なわれている。これらは、一般社会から見ると、業者との癒着や贈収賄に見えるが、研究者の間では、一般的には非難されないどころか、うらやましがられる。

なお、高分子・高置換度のHES製剤は、他の代用血漿剤である低分子・低置換度のHES製剤よりも10倍も高価である。それに、上記の山蔭道明論文にあるように、低分子・低置換度のHES製剤の方がより安全だった。

2-19-13-zarychanski[1]2013年2月20日、カナダ・マニトバ大学・内科学のライアン・ザリチャンスキー(Ryan Zarychanski、写真出典)らは、JAMA誌にボルト論文を含めたHES製剤投与のメタ分析を発表した(JAMA)。

論文は、危篤な患者に高分子・高置換度のHES製剤を投与したときの生存率をメタ分析したものだ。その結果、ボルト論文を含めると生存率は増加していないが、除くと、生存率が著しく増加した。ボルトだけがHES製剤を推奨し、他のすべての研究者は反対していた。ということで、彼のねつ造研究は患者の生命を危険にさらし、害を引き起こしたと思われる。

【事件の深堀】

白楽は、深堀れない。しかし、どうも、語られていない事実や人間関係がありそうに思える。

病院内部調査委員長のハワード・マーチン教授(Howard Martin)は、「どうしてなんだ。 ボルトの地位は悪くないし仕事も悪くなかった。そんな彼がどうしてこんなことをしたんだ?」と述べている(② ヘイディ・ブレイク(Heidi Blake)の「Telegraph」紙の記事)。

権力闘争があったのだろうか? 色恋沙汰があったのだろうか? わかりません。

【白楽の感想】

《1》 研究結果は追試できる?

ヨハヒム・ボルトの88論文が撤回され、撤回論文数では世界1位(現在2位)だと、大事件扱いされている。しかし、撤回論文は主に、治験審査委員会(IRB)の承認を受けていない研究を行なったからである。研究データのねつ造は10報だとある。

なんか、騒ぎ過ぎの印象が強い。

臨床試験のルールを守らない研究者の研究結果は信用できないと言われれば、まあ、そうゆう傾向は同意するが、本当に研究結果も信頼できないのだろうか? 治験審査委員会(IRB)の承認を受けていない研究で、かつ、データねつ造がなかった論文は、研究結果は信頼できるのか? 追試できるのか、できないのか? その点も、調査結果に記載してほしい。

というのは、マニトバ大学のライアン・ザリチャンスキー(Ryan Zarychanski)らが発表したHES製剤投与のメタ分析のJAMA誌論文(2013年2月20日)は、ボルトのデータを見る限り、ボルトの推奨しているHES製剤では生存率の成績が悪い(news@JAMA)。

これは、ヘンだ。もし、ボルトがデータをねつ造・改ざんしたなら、自分の主張に都合の良い数値を発表するはずだ。それなのに、ボルトが発表したデータはボルトが推奨しているHES製剤に不利だった。ということは、ボルトは、データのねつ造・改ざんをしていないと解釈できる。

ボルトはHES製剤に不利なデータを論文に載せていながら、どうしてHES製剤を推奨したのだろう。解釈を捻じ曲げたか、あるいは、間違えたのだ。そうだとすると、HES製剤に不利なデータを論文に載せていながら、HES製剤を推奨する論文が、どうして査読でパスしたのだろう? なんかヘンだ。

《2》 弟子たち

研究者の事件を調べると、被害者は患者や国民である。しかし、一般に言われないが、さらに深刻なのは、弟子たちだろう。

研究ネカト教授の弟子に、不正をする弟子が多いか、少ないか? 師・弟子ともに研究ネカトで職を追われた加藤茂明・教授と弟子の柳澤純のような取り合わせだ。それを研究した論文がない。印象だが、白楽は「多い」と感じている。弟子は、師から研究スタイルを習得するからだ。

しかし、弟子が師を選ぶとき、師の不正(傾向)を知らない。

研究室員になって、弟子が不正に重度に加担していた場合なら共犯である。現実は、軽度にしか不正にからまない弟子、あるいは、同じ研究室にいても、不正に全くからまない弟子が多いハズだ。

ヨハヒム・ボルトは大学教授だから研究室からたくさんの弟子が育ったに違いない。不正に軽度にからんだ弟子、全くからまない弟子たちの、その後の研究者キャリアはメチャクチャになってしまわないのだろうか? 師が不正とされた時、研究者をやめようと思う人が多いだろう。また、履歴書にボルトの研究室の大学院生・ポスドクだったと書けば、研究界での就職・転職・昇進に不利になるだろう。

これは、研究システムとして妥当に思えない。考えないといけない。