ヴィジェイ・ソーマン(Vijay Soman)、フィリップ・フェリッグ(Philip Felig)(米)

2021年5月22日改訂 

ワンポイント:【長文注意】。ソーマンはインド出身でイェール大学・フェリッグ教授・研究室の助教授になった。1978 年、論文の査読を依頼されたフェリッグ 教授(40歳 )は、部下のソーマン(34歳)に査読を依頼した。ソーマンは原稿を不採択にしたが、その原稿の内容を盗用し、自分の論文として投稿した。その投稿論文の査読をしたのが、たまたま、被盗用者のヘレナ・ヴァクスリヒト=ロッドバード(Helena Wachslicht-Rodbard、NIH・ポスドク)だった。1979 年2月、ヴァクスリヒト=ロッドバードは盗用と告発した。ネカト調査は二転三転したが、1年後の1980年2月、ようやく、盗用と確定した。データねつ造・改ざんも発覚した。結局、ソーマンの1977年~1980年(33~36歳)の11論文が撤回された。ソーマンはインドに帰国した。盗用隠蔽に奔走したフェリッグ 教授の栄転は無残な結末になった。この事件は、白楽指定の重要ネカト事件である:査読論文の盗用という典型的なネカト行為の有名な事件である。隠蔽工作や調査の実態もよく描かれている。国民の損害額(推定)は10億円(大雑把)。

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目次(クリックすると内部リンク先に飛びます)
1.概略
2.経歴と経過
4.日本語の解説
5.不正発覚の経緯と内容
6.論文数と撤回論文とパブピア
7.白楽の感想
9.主要情報源
10.コメント
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●1.【概略】

150131 soman[1]ヴィジェイ・ソーマン(Vijay Soman、Vijay R. Soman、写真上出典)はインドで生まれ育ち、27歳の1971年に渡米した。事件が発覚した1980年の時は、米国・イェール大学・助教授(36歳)で、糖尿病の研究者だった。

ボスのイェール大学・教授・医師のフィリップ・フェリッグ(Philip Felig、42歳、写真下出典 )は、事件発覚の1980年の時は、42歳で既に200報以上の論文を発表し、著名な糖尿病研究者だった。

150131

1978 年、フェリッグ 教授は論文の査読を依頼された。その査読を部下のソーマンに依頼した。

ソーマンは原稿は不採択だとフェリッグ 教授に告げ、原稿を返却した。

ところが、その原稿の内容を盗用し、自分の論文として投稿した。

その投稿論文の査読をしたのが、たまたま、被盗用者のヘレナ・ヴァクスリヒト=ロッドバード(Helena Wachslicht-Rodbard、NIH・ポスドク)だった。

1979 年2月、ヴァクスリヒト=ロッドバードは盗用を告発した。

1980年、調査は二転三転したが、告発から1年後、結局、調査の結果、ソーマンの盗用が確定した。

本記事ではこの盗用事件、つまり、「1980年1月のAm J Med. 」論文の盗用事件を中心に記述した。

しかし、実は、このネカト行為がソーマンの最初のネカト行為ではなかった。データねつ造・改ざんも発覚したのである。

その後、ソーマンの1977年~1980年の 11論文が撤回されている。

ネカト犯としては、どの論文も、ソーマンの単独犯とされた。指導教授で、ネカト隠ぺいに奔走したフェリッグ教授は公式には関与していないとされた。

それで、本記事では、ソーマンを中心に記述する。

この事件は正統的(?)なネカト行為の顛末を示す物語として、アレクサンダー・コーンの著書『科学の罠』に記述されている。多くの米国人、そして日本語訳もあるので、多くの日本人も知っている有名なネカト事件である。

なお、ブロードとウェイドの有名な著書、『Betrayers of the Truth』では9章でソーマン事件を記述しているが、日本語訳〈1988年、牧野賢治(訳)・『背信の科学者たち』〉では全部削除されている。

イェール大学(Yale University)。写真出典

★ヴィジェイ・ソーマン(Vijay Soman)

  • 国:米国
  • 成長国:インド
  • 博士号取得:あり。インドのxx大学?
  • 男女:男性
  • 生年月日:1944年x月xx日
  • 現在の年齢:77 歳
  • 分野:糖尿病学
  • 不正論文発表:1977年~1980年(33~36歳)
  • 発覚年:1980年(36歳)
  • 発覚時地位:米国・イェール大学・医学部・内分泌学・助教授
  • ステップ1(発覚):盗用被害者のヘレナ・ヴァクスリヒト=ロッドバード(Helena Wachslicht-Rodbard、NIH・ポスドク)の公益通報
  • ステップ2(メディア):「ニューヨーク・タイムズ(The New York Times)」、ブロードとウェイドの著書、『Betrayers of the Truth』、アレクサンダー・コーンの著書『科学の罠』
  • ステップ3(調査・処分、当局:オーソリティ):①ハーバード大学・助教授・ジェフリー・フライヤー(Jeffrey Flier、31歳)の監査、1980年2月、監査時間:3時間。②コロラド大学・内分泌学のジェロルド・オレフスキー教授(Jerrold Olefsky)の監査(2回目)、1980年3月下旬、監査期間:数日。
  • 大学・調査報告書のウェブ上での公表:?
  • 大学の透明性:実名発表し調査内容(調査委員名)がわかる情報が公開されている(◎)
  • 不正:盗用、ねつ造・改ざん
  • 不正論文数:撤回論文は1977年~1980年の 11論文
  • 時期:研究キャリアの初期から
  • 結末:辞職

★フィリップ・フェリッグ(Philip Felig)

  • 国:米国
  • 成長国:米国
  • 博士号取得:
  • 男女:男性
  • 生年月日:1938年x月xx日
  • 現在の年齢:83 歳
  • 分野:糖尿病学
  • 最初の不正論文発表:1977年(39歳)。公式にはシロ
  • 発覚年:1980年(42歳)
  • 発覚時地位:米国・イェール大学・医学部・内分泌学・教授
  • ステップ1(発覚):盗用被害者のヘレナ・ヴァクスリヒト=ロッドバード(Helena Wachslicht-Rodbard、NIH・ポスドク)の公益通報
  • ステップ2(メディア):「ニューヨーク・タイムズ(The New York Times)」、ブロードとウェイドの著書、『Betrayers of the Truth』、アレクサンダー・コーンの著書『科学の罠』
  • ステップ3(調査・処分、当局:オーソリティ):①ハーバード大学・助教授・ジェフリー・フライヤー(Jeffrey Flier、31歳)の監査、1980年2月、監査時間:3時間。②コロラド大学・内分泌学のジェロルド・オレフスキー教授(Jerrold Olefsky)の監査(2回目)、1980年3月下旬、監査期間:数日。
  • 大学・調査報告書のウェブ上での公表:?
  • 大学の透明性:実名発表し調査内容(調査委員名)がわかる情報が公開されている(◎)
  • 不正:盗用、ねつ造・改ざん。公式にはシロ
  • 不正論文数:撤回論文は8報
  • 時期:研究キャリアの中期から
  • 結末:辞職。数か月後、教授に再雇用

【国民の損害額】
国民の損害額:総額(推定)は10億円(大雑把)。

●2.【経歴と経過】

★ヴィジェイ・ソーマン(Vijay Soman)

  • 1944年x月xx日:インドで生まれる
  • 19xx年(xx歳):インドのxx大学を卒業
  • 19xx年(xx歳):インド・プネー(Pune)のxx医科大学・教員
  • 1971年(27歳):米国・ニューヨーク州のオールバニ医科大学(アルバニー医科大学)(Albany Medical College)。
  • 1975年(31歳):米国・イェール大学・医学部・内分泌学フェローシップ
  • 1976年(32歳):米国・イェール大学・医学部内分泌学・助教授
  • 1979年(35歳):他人の原稿を盗用する
  • 1980年2月(36歳):盗用が発覚する
  • 1980年4月(36歳):米国・イェール大学・助教授を辞職
  • 1980年4 – 8月(36歳):故郷のインド・プネー(Pune)に帰国。以後、音信不通

★フィリップ・フェリッグ(Philip Felig)

  • 1938年x月xx日:米国で生まれる
  • 1961年(23歳):イェール大学・医学部(Yale Univ Sch of Med)を卒業。医師免許取得
  • 19xx年(xx歳):米国・イェール大学・医学部・内分泌学・教授
  • 1980年2月(42歳):共著者で部下のソーマンの論文盗用が発覚する
  • 1980年6月(42歳):コロンビア大学・教授、医学科長に栄転
  • 1980年8月頃(42歳):コロンビア大学・教授、医学科長を辞任
  • 1980年11月(42歳):イェール大学・医学部・内分泌学・教授に再雇用

●4.【日本語の解説】

★2009年7月3日:日本学術会議会長・金澤一郎:「 科学者の行動規範について」

出典 → ココ

日本学術会議会長・金澤一郎が2009年7月3日に講演で述べている。

1978 年、NIHにヘレナ・ロッドバードという女性がおられました。彼女は神経性食思不振症におけるインシュリン受容体の異常に関する非常に先駆的な研究をしまして、その結果をNew England Journal of Medicine に投稿します。この論文はイェール大学のフェリッグ教授に送られ、フェリッグ教授は部下のヴィジェイ・ソーマンに「読んでごらん」と渡したといいます。

ソーマンは、自分のやろうとしたことが既にそこに書いてあったので驚いき、まずはその論文を却下しておいて、その文章からデータも含めて盗み、The American Journal of Medicine に自分の名前で投稿するわけです。

運命のいたずらでありますが、このソーマンの欺瞞的論文のレフェリーが、偶然にもロッドバードの上司のところに送られます。そして部下であるロッドバードの手に渡ります。それでロッドバードはすべてを悟ります。

彼女の申し出はなかなか取り上げてもらえなかったけれども執拗の追求によってついにイェール大学もその監査をすることになります。その結果、2年後の1980 年に初めてソーマン本人の告白も得られて、晴れてロッドバードの論文は、改めてNew England Journal of Medicine に掲載されて、ソーマンはインドに帰ったと、こういう話があるわけです。(2009年7月3日 http://www.scj.go.jp/ja/head/img/090703-kaityou.pdf

★アレクサンダー・コーン『科学の罠』(1990年)

インターネットで無料閲覧できる資料ではないが、アレクサンダー・コーン(酒井シズ、三浦雅弘訳)の著書『科学の罠』(工作舎、1990年)は、143~150頁でソーマン事件を記述している。

以下はその冒頭の143~144頁の部分である。この後、ソーマン事件の物語は5~6ページ続くので、是非、書籍『科学の罠』をご覧ください。以下の文章をクリックすると文章は大きくなる。

●5.【不正発覚の経緯と内容】

【発覚・調査】

★登場人物

ソーマン(ヴィジェイ・ソーマン:Vijay R. Soman)
本記事の主役でネカト主犯。米国・イェール大学・医学部・助教授。経歴は上記した。

フェリッグ教授(フィリップ・フェリッグ:Philip Felig)
本記事の脇役。米国・イェール大学・医学部・教授。糖尿病の著名な研究者で、ソーマン助教授は部下。経歴は上記した。

ジェシー・ロス(Jesse Roth)
米国・NIH・NIDDK(国立糖尿病・消化器・腎疾病研究所; National Institute of Diabetes and Digestive and Kidney Diseases)の糖尿病研究部の部長。1974年から1983年まで部長で、ヘレナ・ヴァクスリヒト=ロッドバードの上司だった。

150131 Rodbard[1]ヘレナ・ヴァクスリヒト=ロッドバード(Helena Wachslicht-Rodbard)
ブラジル・サンパウロ大学医学部を1972年に卒業したブラジル人の医師で、1975年から米国・NIH・NIDDKの糖尿病研究部のポスドクだった。上記のジェシー・ロス(Jesse Roth)が上司。写真は事件の約37年後(出典)。つまり、当時はもっと若い。

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以下は、主要情報源①の1981年11月1日の「ニューヨーク・タイムズ(The New York Times)」記事(A FRAUD THAT SHOOK THE WORLD OF SCIENCE – NYTimes.com)を基本に、他の情報を白楽が加えた。

★発端:1978 年11月~1979 年2月

1978 年11月9日、NIH・ポスドクのヴァクスリヒト=ロッドバード(約30歳)は、拒食症(神経性食思不振症)患者の細胞のインシュリン受容体の異常に関する論文原稿「Insulin Receptors in Anorexia Nervosa」を著名な医学研究雑誌「ニューイングランド・ジャーナル・オブ・メディシン」(NEJM:New England Journal of Medicine)誌に投稿した。

2か月半後の1979 年1月31日、ヴァクスリヒト=ロッドバードの元に、「ニューイングランド・ジャーナル・オブ・メディシン」誌から論文を修正するようにという手紙とともに原稿が返送されてきた。3人の査読者(匿名)の内1人は、修正ではなく不採択と判定していた。

彼女は、同じ学術誌に修正原稿を送ろうと、原稿を修正し始めた。

150131 Roth-Jesse-210x225[1]数日後、ボスで原稿の共著者であるジェシー・ロス(Jesse Roth、当時44歳、1934年8月5日生まれ、写真出典)が、査読を手伝ってくれないかと、「The American Journal of Medicine」誌に投稿された原稿をヴァクスリヒト=ロッドバードに持ってきた。

著者は、イェール大学・医学部のソーマンとフェリッグだった。

ヴァクスリヒト=ロッドバードは原稿を読み始めて唖然とした。

内容は、自分が今修正している原稿と全く同じだったからだ。しかも、要約の60単語の文章は、一字一句、全く同じだった。さらに、いくつかのパラグラフと方程式もほとんど同じだった。

自分たちの原稿は今修正中でまだ出版されていない。原稿の内容を知っているのは、数か月前に投稿した「ニューイングランド・ジャーナル・オブ・メディシン」誌の3人の査読者だけである。

イェール大学・医学部のソーマンとフェリッグの原稿は、自分たちが今修正している原稿を盗用したに違いない、とロッドバードは確信した。

「ニューイングランド・ジャーナル・オブ・メディシン」誌の3人の査読者の1人はフェリッグ教授で、フェリッグ教授が不採択と判定した、と推察した。

★弱肉強食:1979年2月~1979年 3月

ヴァクスリヒト=ロッドバードは、「ニューイングランド・ジャーナル・オブ・メディシン」誌に修正原稿を送る時、同時に証拠をそろえ、抗議の手紙を書いた。

ソーマンとフェリッグの原稿コピーとヴァクスリヒト=ロッドバードの元原稿のコピーを比較し、同じ文章部分に蛍光マーカーで色を付けた証拠をそろえ、ソーマンとフェリッグが論文を盗用したと訴えたのだ。

150131 Relman_Arnold_photo-e1403118068163[1]1979年2月下旬、「ニューイングランド・ジャーナル・オブ・メディシン」誌・編集長のアーノルド・S・レルマン(Arnold Relman、写真出典)は事の真相を確かめるべく、フェリッグ教授に電話した。

フェリッグ教授の返事は、「ヴァクスリヒト=ロッドバードの原稿は、科学的な見地だけから審査しました。自分たちの原稿は、ヴァクスリヒト=ロッドバードの原稿を査読する前に既に完成していました」だった。

数日後、フェリッグ教授はNIHのロスから電話をもらった。実は、フェリッグとロスの2人は子供の頃からの知り合いで、ブルックリン時代は同級生だった。そして、2人とも研究者になった現在、偶然、同じ糖尿病分野の研究者になっていたのである。

NIHのロスは、レルマン編集長が電話した理由をフェリッグ教授に教えた。

フェリッグ教授は「ニューイングランド・ジャーナル・オブ・メディシン」誌のレルマン編集長に答えたように、「自分たちの原稿は、ヴァクスリヒト=ロッドバードの原稿を査読する前に既に完成していたので、盗用はあり得ない」と説明した。

そして、間のなく開催されるベセスダでの会合で、フェリッグ教授とロスは会う約束をした。

フェリッグ教授の説明だと、ベセスダでの会合で、フェリッグ教授はNIHのロスと会って、初めて、2つの原稿を見比べたそうだ。

2つの原稿は、どうみても、たまたま偶然に似通ったレベルではないことは一目瞭然だった。

NIHのロスは、「ヴァクスリヒト=ロッドバードは単なる文章の盗用だけでなく、データも数式も盗用されているので、論文は完全に盗用だと言っている」と伝えた。

2人は、騒ぎにならないように、事態を迅速に終わらせるにはどうしたらよいかを相談した。

2人は、ソーマンが一部盗用したという前提で計略を謀った。

まず、ヴァクスリヒト=ロッドバードの論文を先に出版させる。その後、ソーマンとフェリッグの論文にヴァクスリヒト=ロッドバードの論文を引用する文章を入れる。この手順で事態を決着させようと話をつけた。

翌日、フェリッグ教授はヴァクスリヒト=ロッドバードに電話した。フェリッグは事態が起こってしまったことを大変残念に思うが、計画を説明し、同意を求めた。

ヴァクスリヒト=ロッドバードは、穏やかな話し方をするブラジル人の若い女性研究者だが、フェリッグ教授の提案に納得できなかった。気持ちは収まらなかった。

ところが、ヴァクスリヒト=ロッドバードの心中を計れないボスのロスは、2日後、友人のフェリッグ教授あてに「ヴァクスリヒト=ロッドバードの論文を先に出版することと、ソーマンとフェリッグの論文にロッドバードの論文を引用する文章を入れる」という協定書を準備した。

その協定書への同意のサインをもらおうと、部下のヴァクスリヒト=ロッドバードに協定書を見せた。

ところが、ヴァクスリヒト=ロッドバードはサインを拒否したのである。

ロスは、激しく怒った。

ヴァクスリヒト=ロッドバードは、盗用を隠蔽し、事なかれ主義で始末をつけようとするロスの態度に納得できなかった。

ソーマンとフェリッグ教授の2人は、今現在、盗用という「重大な」不正を行なっている。それを私が見過ごす。イヤ。見過ごすだけでなく、それに自分が加担する。いわば共犯になる。とても我慢が出来なかった。

ところが、上司のロスは、ヴァクスリヒト=ロッドバードに激昂し、「研究室を出ていけ!」と怒鳴った。

さらには、NIHの文具の使用を禁じ、不正追及を止めるよう命じた。

NIHのロスは、また、イェール大学に行き、フェリッグ教授とともにソーマンを問い詰めた。

すると、ソーマンは、ヴァクスリヒト=ロッドバードの原稿をコピーし、その原稿からいくつかの文章と数式を自分の論文原稿に利用したと告白した。

フェリッグ教授は、ここ数年、ソーマンと一緒に研究していて、彼を信じ切っていた。不正の疑いを一片たりとも抱いたことがなかったので、驚愕した。

★反撃 その1

150131 berliner[1]1979年3月下旬、盗用発覚の2か月後、ヴァクスリヒト=ロッドバードは、イェール大学医学部長のロバート・バーリナー(Robert W. Berliner、当時64歳 写真出典)に、「ソーマンとフェリッグの論文の信ぴょう性は疑わしいので、独立した第3者の監査をお願いする」、と手紙を書いた。

バーリナー医学部長は、フェリッグ教授に「実際に自分たちで実験をしたのか?」と問い合わせた。

フェリッグ教授はソーマンに医学部長の問わせ内容を伝えた。すると、ソーマンは、すぐに、患者名と日付のリスト、6人の患者から得たデータ表を持ってきた。

フェリッグ教授はそれ以上チェックすることなく、「原稿に書いてある通りに自分たちで実験しました。全く問題ありません」とバーリナー医学部長に返事をした。

バーリナー医学部長はヴァクスリヒト=ロッドバードへ、「フェリッグ教授とソーマンは、原稿に書いてある通りに彼ら自身で実験をしました。この件はこれで終わりにしてくださるようお願いします」と手紙の返事を書いた。

★反撃 その2

ヴァクスリヒト=ロッドバードは、バーリナー医学部長の対応に憤慨した。

そこで、別の機会を狙った。

学会の講演発表の一覧表を見ると、ソーマンとフェリッグ教授は、盗用発覚の4か月後の1979年5月、米国臨床研究学会(American Federation of Clinical Research)で研究発表する予定になっている。

ヴァクスリヒト=ロッドバードは監査の要求を飲まなければ、その学会でソーマンとフェリッグ教授を糾弾すると、上司のロスにほのめかした。

それで、ロスとフェリッグ教授は、渋々ではあるが、独立した第3者の監査を設けることを、ヴァクスリヒト=ロッドバードに同意した。

★停滞

その頃、ヴァクスリヒト=ロッドバードはNIHを退職し、ワシントンの病院で臨床医として勤めはじめた。もう研究には戻ってこない覚悟だった。

NIHのロスとイェール大学のフェリッグ教授は、監査役の人選に難航した。この人と思う人を人選し、依頼すると、イェール大学にきて監査する時間が取れませんと断ってきた。

そうこうしているうちに、1週間が経ち、1か月が過ぎた。監査人が決まらなくても、何も起こらないので、NIHのロスとイェール大学のフェリッグ教授は、徐々に、問題が霧散したように感じてきた。

イェール大学のフェリッグ教授は、むしろ、問題が霧散してくれることを望んだ。というのは、コロンビア大学の人事委員会が、米国の著名大学であるコロンビア大学・医学科長(Samuel Bard Professor and chairman of the Department of Medicine)に、フェリッグ教授を採用したいと、フェリッグ教授に打診してきたのだ。

この時点では、ヴァクスリヒト=ロッドバードとの騒動は表沙汰になっておらず、コロンビア大学の人事委員会の委員は事件を何も知らない状態だった。

1980年1月、盗用発覚の11か月後、フェリッグ教授は、ソーマンを連れて、コロンビア大学の人事委員会に挨拶に行き、ソーマンを助教授に推薦した。この頃、フェリッグ教授は、嵐が無事に治まったと確信していた。

★反撃 その3

盗用発覚の11か月後、コロンビア大学・医学科長への招聘打診があった同じ1980年1月、絶妙のタイミングというか、運命のイタズラというか、問題のソーマンとフェリッグの論文が、ヴァクスリヒト=ロッドバードの論文より先に、「American Journal of Medicine」誌に出版されてしまった。

フェリッグ教授は、どんな問題にせよ問題があるうちは、論文の出版を保留するとヴァクスリヒト=ロッドバードに約束していた。そして、もう、問題は片付いていると思っていた。

しかし、論文出版の保留も監査の約束は守られていなかった。

ヴァクスリヒト=ロッドバードは激怒し、かつての上司であるNIHのロスに電話して、約束を守るようにと強硬に伝えた。

150131 flier[1]NIHのロスは、イェール大学のフェリッグ教授に電話した。別の監査役を見つけることが必要だと言った。

2人は、ベス・イスラエル病院(Beth Israel Hospital)糖尿病代謝ユニット長でハーバード大学・助教授のジェフリー・フライヤー(Jeffrey Flier、当時31歳、写真出典)に監査役になってもらおうと考えた。

ロスがフライヤーに電話し、「監査役になって頂けないでしょうか? なって頂けるなら、すぐにイェール大学にきてください。監査は簡単です。ソーマンとフェリッグの論文内容は、ソーマンが実際に研究した結果を発表した、ということを確認するだけなんです。つまり、データを適切に収集し、分析したことを確認するだけなんです。監査していただけませんでしょうか?」と依頼した。

フライヤーは引き受けた。

★監査(audit)

盗用発覚の12か月後になる1980年2月初旬の寒い朝、ハーバード大学・助教授のジェフリー・フライヤー(Jeffrey Flier)は、ボストンから列車に乗り、イェール大学のあるニューヘブンに向かった。

インシュリン代謝に関するイェール大学の助教授の論文が別の研究者から不正とみなされたので、イェール大学で、該当助教授の研究資料を精査するという監査の仕事だった。作業に数時間はかかるだろうと予想していた。

ニューヘブン駅につくと、そこには、ソーマン助教授が迎えに来てくれていた。ソーマンの車で、イェール大学までドライブし、研究室に案内された。

研究室には、たくさんの診察記録、データシート、実験ノートが用意されていた。

フェリッグ教授も監査役のフライヤーに挨拶する予定だったが、たまたま、数日前に、フェリッグ教授の母親が亡くなったので不在だった。

ソーマン助教授は、愛想はよいけれども、多少神経質になっているとフライヤーは感じた。そこで、緊張をほぐすために、フライヤーは30分ほど、最近の研究などについて軽い話をし、気分を変えた。

そして、「用意は良いようだから、監査の仕事をしよう」、と切り出した。

フライヤーは、最初に、個々の患者のデータについて尋ね、それぞれの診察記録に目を通し始めた。

患者は6人いたことになっているが、記録は5人分しかなかった。ソーマンは、1人分の診察記録がないことについては何も言わなかった。

ただ、5人の患者の診察記録は論文とおなじ内容で整っていた。拒食症患者は、治療期間中に体重が増えていた。

フライヤーは、次のように述べている。

次に、私は、ソーマンに、これらの患者の治療の前後で、インシュリン結合実験をしたという証拠をだしてくれるよう求めました。彼は最初の患者のデータシートを私に手渡した。

私は驚きました。私はデータシートではなく、経時的に測定したグラフを予期していたからです。けれども、彼が私に渡したのは生の数値が羅列した紙だったのです。

『グラフにしたと思うのですが、グラフを持っていないのですか?』と、私は彼に尋ねた。彼は混乱したようだったが、『保管場所がないので、私達は個々のグラフは捨ててしまうのです』と返事した。私は急に不安を感じ始めた。

どんな研究者も、先月出版されたばかりの論文の元グラフを廃棄することはない。彼の言う説明は、到底納得できるものではなかった。

しかし、仕方がない。

データシートを見て、グラフを頭の中で視覚化した。

データシートだったので、拒食症患者のインシュリン結合量は、体重が増えてからよりも、増える前の方が多いのは、数値として明瞭だった。

また、データシートの測定点は、インシュリンとインシュリン受容体の実験で得られる曲線と違う様相を呈していたし、ソーマンとフェリッグの論文のグラフとも一致しなかった。

私は、『論文のグラフではここで曲線が鋭く曲がっているけど、データシートの数値は平坦なのはおかしいですね』と言った。

さらに、『あなたが論文で報告したものと違うし、または普通、私たちが予期する数値とも違うけど』と付け加えた。

すると、彼はシートを見て、『おやおや、そうですね。あなたの指摘は正しいですね。そのデータシートは何かの間違いです。別のデータシートを見ましょう』。

それで、私達は別のデータシートを見たけれど、それは前のより悪かった。それで私達は、1つずつ、結局、全部のデータシートを見た。しかし、どれも欠陥データだった。

どこか、何かが、ひどく異様に感じた。論文中の美しい曲線は、私が見てきたどのデータにも由来していなかった。

フライヤーは、少し困惑しながら尋ねた。「出版された論文のデータは、あなたが私に示してくれたどのデータにも対応していないように見えるけど」と、ソーマンに言った。

ソーマンは、ますます悲しそうな顔になって、テクニシャンがイイカゲンなことをしたと、テクニシャンを非難し始めた。

フライヤーは、「たとえ、テクニシャンがイイカゲンなデータをだしたとしても、もしデータがよくないならば、そのデータを論文として出版しなければいいだけでしょう」、と問い詰めた。

フライヤーは、その時、初めてデータ “ねつ造“という言葉を使った。『出版論文のグラフはデータねつ造なのかい?』、と尋ねた。

ソーマンは、ソワソワとまわりを手探りし、モジモジし、それから、意を決したように、『はい。そうです』、と答えた。さらに、『出版論文のデータはねつ造したものです。フェリッグ教授も含めて、まだ誰もそのことを知りません』、と言った。

私は、いくつかの不釣り合いなデータについて、さらに尋ねると、彼は、それもねつ造したことを認めた。

論文は、ねつ造データでできていたということになる。行方不明の6番目の患者は、さらに、拒食症患者ではなく、論文のために拒食症患者というラベルを付けた別の患者のデータだった。これも、データねつ造の1部だった。

ソーマンがデータねつ造を認めたので、フライヤーは大きな衝撃を受けた。しかし、監査の仕事を終わらせるためには、さらに、質問を続けなければならなかった。

『ねつ造がどれほど重大なのか、あなたは承知していますか?』、と私は尋ねた。ソーマンは、『はい』と答えた。そして、自己弁護を始めた。

ソーマンは、『発見のためのプライオリティを得るために、できるだけ早く出版するという大きなプレッシャーがあったのです。論文をたくさん出版し、研究に成功する、というとてもキツイ目標が課された研究環境だったからです』と、自分を弁護する言葉を並べはじめた。

フライヤーは、「私は、こんなことになるとは予想していなかったので、事態の進展が非現実的に思えた。ソーマンは、ますます異常な顔つきになり、つじつまの合わないことを言いだし、特殊な哲学について語り始めた。私は方向感覚を失うのを感じた」。

★大学上層部の処置

150131 samuel-o-thier-1-sized[1]1980年2月12日、盗用発覚の12か月後、イェール大学・内科学・学科長のサミュエル・ゼア(Samuel Their 、当時40代半ば、写真出典)は、緊急の電話を受けた。

相手は、所属学科のフェリッグ教授からで、電話の内容は、とても悪い知らせだった。

フェリッグ教授がソーマンに「監査はどうだった?」と聞くと、ソーマンは、「監査役のフライヤーは最初からソーマンとフェリッグに偏見を抱いていて、研究ネカトを見つけた、といって帰った」と答えた。

それで、フェリッグ教授は、すぐにフライヤーに電話した。すると、フライヤーは「(フェリッグが共著の)最近の論文で、ソーマンがデータをねつ造したのは間違いありません」と答えた。

それで、ゼア学科長にフェリッグ教授の評判とイェール大学の評判はガタ落ちになる、と電話で伝えたのだ。

ゼア学科長とフェリッグ教授はバーリナー医学部長と会って相談した。バーリナー医学部長は、結論として、ソーマンを解雇すべきだと主張した。

ゼア学科長とフェリッグ教授は、ソーマンを呼び、「ソーマン、一体、どうなっているのだ?」と尋ねた。ソーマンは身体が震えていた。最初は、あれもこれも否定した。

「フライヤーは最初からソーマンとフェリッグに偏見を抱いていた」とソーマンは主張した。

「それは、今、問題ではない。フライヤーがワザワザ監査にきて、デタラメの監査をする意味は全くない。本当のところ、何があったのだ?」。

ソーマンは、持ちこたえられなかった。「曲線を見映えよくしようと、データの数値をいじり・・・」と言いながら、泣き出した。フェリッグ教授は、恐ろしさで頭がいっぱいになった。

ゼア学科長とフェリッグ教授の2人は、ソーマンが実際に何をどこまでデータ操作したのかを理解しようとしたが、ソーマンはぼそぼそと答えるだけだった。

しばらくして、ソーマンは、「私は、いま、どうしたらよいでしょうか?」と尋ねた。ゼア学科長は、「最もよい選択は、辞任し、学術界から失せることです」と突き放した。

ソーマンは、数週以内にイェール大学を辞任することを了承した。

しかし、ココまでは、むしろ容易な部分だった。より苦しく困難な状況がその後に待っていた。

ソーマン/フェリッグの論文を撤回するにしても、もし、ソーマンの他の論文にもねつ造があるなら、大スキャンダルになる。

しかし、もしこの時点で調査せずに、後になって、他の論文にもねつ造があったと判明したら、スキャンダルはもっと大きくなる。

150131 Olefsky[1]バーリナー医学部長、ゼア学科長、フェリッグ教授は、ソーマンのすべての論文を調査することにした。

今度の監査は、コロラド大学・内分泌学のジェロルド・オレフスキー教授(Jerrold Olefsky 写真出典)に依頼した。

オレフスキーは、2週間後にイェール大学にきてくれることになった。

フェリッグ教授は、その間、いくつか自己修復をした。まず、ロスとヴァクスリヒト=ロッドバードに謝罪する手紙を書いた(ヴァクスリヒト=ロッドバードは、送られてきた手紙の内容に納得しなかったが・・・)。

そして、とても大きな影響を受けることになるが、スキャンダルは世間に公表せざるを得なかった。

★フェリッグ教授の栄転話

フェリッグ教授は、自分を医学科長に招聘しようとしているコロンビア大学の人事委員にもすぐに話す必要があると思っていた。

150131 cps_tapley[1]1980年2月下旬、盗用発覚の13か月後、彼は、コロンビア大学でセミナーを行なった。セミナー後に、彼を招聘しようとしている医学部長のドナルド・タプリー(Donald F. Tapley 写真出典)に会った。

ここで2人の話は食い違うのだが、後に、フェリッグ教授は、「現在進行中の事件を、タプリー医学部長にオープンに明白に伝えた」と述べている。しかし、タプリー医学部長は、「他の話をしている時、ついでに、そのことに軽く触れただけだった」、と述べている。

★監査:2回目

1980年3月下旬、盗用発覚の14か月後、監査役のオレフスキー教授が、イェール大学に監査にきた。

ソーマンがイェール大学着任後に発表した14報の論文全部を調査する予定だった。

しかし、フェリッグ教授は、「調査のための診察記録、データシート、実験ノートを揃えようとしたが、そのほとんどは、行方不明だと気付いて愕然とした」と述べている。つまり、十分に資料を揃えられなかった。(影の声・・・フェリッグ教授が証拠隠滅したのかな?)

オレフスキー教授は、5報の論文に対応する研究記録を調べるのに2日間費やした。

バーリナー医学部長へのオレフスキー報告書は以下のようだ。

  • インシュリン結合実験をしたという証拠は、どの患者のデータにも見つからなかった。どの論文も、元データ の4分の1から2分の1は見つからなかった。
  • 解釈は、定性的には間違っていないと思えるが、数値は論文の数値とは合致しなかった。すべてのデータで、データを見映えよくするための改ざんが行なわれていた。
  • 多くの研究記録が行方不明なので、研究ネカトはズッと広範でまたズッと深いと思われた。
  • 14論文のうち、研究記録で裏付けできたのはわずか2報で、他の12報は、ねつ造されたデータを含んでいるか、またはオリジナルの元データが破壊されたので、研究ネカトだと思われた。そして、この12報の大半は、フェリッグ教授が共著者だった。

★フェリッグの進退

すでに多くの人々がこの事件にかかわってきたが、それでも、今まで、なんとか秘密が保てていた。

しかし、1980年3月下旬頃、盗用発覚の14か月後、生物医学界に噂が広がり始めた。フェリッグ教授を医学科長に招聘しようとしているコロンビア大学にも噂が流れた。

1980年5月、コロンビア大学・人事委員会は、コロンビア大学にきて、医学部教授陣に悪い噂を吹き飛ばすよう、フェリッグ教授に依頼した。

フェリッグ教授はコロンビア大学に行ったが、医学部教授陣にはソーマンがデータねつ造したことだけを話した。

後に、コロンビア大学・医学部教授陣は、論文盗用については何も聞いいていないし、フライヤーが3時間の監査で見つけたのに、フェリッグ教授は1年以上もソーマンと一緒に研究していてソーマンの不正を見抜けなかったと批判した。

委員会の1人は、盗用と指摘された論文だけではなく、データが行方不明になった論文の全部を撤回するほうが賢明だと主張した。フェリッグ教授は同意した。

まもなく、イェール大学から論文撤回の手紙が出版編集部に届き、結局、12論文が撤回された。その内、8論文はフェリッグ教授との共著だった。

それでも、1980年6月、盗用発覚の16か月後、フェリッグ教授はイェール大学を辞任し、コロンビア大学の新ポストを得て、家族とともにニューヨークに引っ越した。

150131 53984[1]コロンビア大学のポール・マークス(Paul Marks)副学長 写真出典

1980年7月、盗用発覚の17か月後、コロンビア大学のポール・マークス(Paul Marks)副学長は、休暇から帰ると、フェリッグ教授のよからぬ噂を耳にした。

翌日、彼は、医学部で起こっていることを関係者に質問し、イェール大学・医学部長のロバート・バーリナーに電話をした。

マークス副学長は、すぐに、コロンビア大学・医学部が危機に直面していることに気がついた。休暇中のタプリー医学部長に休暇を中断し、大学に戻って来て、問題に対処するように伝えた。

1980年7月23日(水曜日)、タプリー医学部長からの至急の呼び出しに呼応して、フェリッグ教授は、2回の監査書類を含む18の関係書類、26通の手紙とメモを抱えて、コロンビア大学のタプリー医学部長のオフィスに来た。

フェリッグ教授は、まな板の鯉だった。彼の立場はとてもあやうい状態だった。タプリー医学部長と学術担当副学部長のトーマス・モリス(Thomas Morris)に今までの経過全体を話した。

後に、タプリー医学部長は次のように述べている。「フェリッグ教授がかなり恐ろしい話しをしたので、私は、既に、彼がかなりうまく事態を処理できたのだと思っていた」。

しかし、フェリッグ教授は、彼が潔白であることをマークス副学長に納得させられなかった。

マークス副学長は、フェリッグ教授が今まで彼に多くを話してくれなかった事実にこだわっていた。

数か月前、マークス副学長は、フェリッグ教授の自宅にディナーを招待されたが、食事の後にでも、この件について何か話してくれるべきだったと非難した。

タプリー医学部長は、マークス副学長の態度から、フェリッグ教授の評判は取り返しのつかないほど地に落ちたと思った。

フェリッグ教授が去った後、タプリー医学部長はオフィスに6人の有力教授を呼んだ。

タプリーは、彼らに、フェリッグ問題を検討する特別委員会を作り、人事をどうするか検討するよう依頼した。

150131 henrikBendixen[1]その日の午後、フェリッグ教授は、特別委員会の委員3人と会った。彼らは、「フェリッグ教授が率直さに欠けていたことを深く心配している」、と言った。

委員長のヘンリク・ベンディクセン(Henrik H. Bendixen 写真出典)は、辞任すべきだと、フェリッグ教授に痛烈な一撃を見舞った。

フェリッグ教授は、結果はすでに決まっているのではないかと恐れはじめた。

2日後の1980年7月25日(金曜日)、特別委員会は結論を出した。「とても残念ではあるが、フェリッグ教授をコロンビア大学から解雇する」という結論だった。

その同じ日、コロンビア大学のタプリー医学部長は、フェリッグ教授に、彼のオフィスに来るように頼んだ。オフィスに来たフェリッグ教授に、タプリー医学部長は、コロンビア大学の結果を伝え、特別委員会の報告書のコピーを彼に渡した。

フェリッグ教授は、自分の世界が崩壊したことを認識した。

それでも、なんとか気力を振り絞って、コロンビア大学のマイケル・ソヴェルン学長(Michael Sovern)に特別委員会報告書の1つ1つに反論する長い手紙を書いて週末を費やした。

イェール大学のバーリナー医学部長も、同時に、コロンビア大学のタプリー医学部長と特別委員会を非難する手厳しい手紙を書いた。

コロンビア大学のタプリー医学部長はイェール大学のバーリナー医学部長に返事を書かなかった。

そして、コロンビア大学のマイケル・ソヴェルン学長は、この件で両者の仲裁をしなかった。

その週の火曜日、コロンビア大学とイェール大学は、「フェリッグ教授とコロンビア大学医学部の間で撤回した研究論文に関する深い溝がある」という理由で、フェリッグ教授辞任の記者会見を共同で行なった。

【事件関係者のその後】

それから1年以上たった時、イェール大学のバーリナー医学部長、ゼア学科長、フェリッグ教授の同僚たちは、フェリッグ教授のとった行動のうちのいくつか「浅はかで、おろかだった」と答えている。ゼア学科長は、「フェリッグ教授は不注意過ぎた」と付け加えた。

それほど同情的ではない人々は、フェリッグ教授が本当に何をしたかを知らないのだが、「少なくとも彼は、科学の信頼と人々の信頼を損なう罪を犯した、盗用問題を隠蔽しようとした、無節操に論文発表しようとした」と答えている。

「最悪なケースでは、彼は、ヴァクスリヒト=ロッドバードを打ちのめす非道な行為の罪、ねつ造データ論文を出版する罪を犯している」と答えている。

★ヴィジェイ・ソーマンのその後

ソーマンは、盗用発覚の14か月後の1980年4月、イェール大学を辞職した。その年の夏前に、家族とともに、故郷のインド・プーナに戻った。それ以降、米国科学界からは消えた。その後、米国の新聞記者がソーマンにコンタクトを試みたが、すべて失敗に終わっている。

ただ、本記事を詳細に記述したソーマンの「1980年1月のAm J Med. 」論文が最初で最後のネカト行為ではなかった。その3年前の1977年にはネカト論文を発表していた。結局1977年~1980年の 11論文が撤回された。

2021年5月、生きていれば77歳だが、ウェブで検索しても、ヴィジェイ・ソーマン(Vijay Soman)に該当する人物はヒットしなかった。

★ヘレナ・ヴァクスリヒト=ロッドバードのその後

ヘレナ・ヴァクスリヒト=ロッドバード(Helena Wachslicht-Rodbard)は、ソーマン事件を契機に、研究を辞めて臨床に進んだ。

臨床医として大成功し、米国臨床内分泌学会・会長(American Association of Clinical Endocrinologists)など数々の要職を果たした。

2013年12月10日の日本の新聞、日経メディカル記事にも登場している:インスリン投与量が多い1型糖尿病の夜間低血糖リスクが減少:日経メディカル

Helena Rodbard, MD

2021年5月、約70歳。内分泌および代謝コンサルタント(Endocrine and Metabolic Consultants)の所長である。

2021年6月25-29日の米国糖尿病学会(American Diabetes Association)で、講演するほど研究者からの尊敬は厚い(写真出典右)。 → 2021年記事: Fixed-ratio combinations could become a primary indication for type 2 diabetes patients – ADA Meeting News

★フェリッグ教授のその後

1980年11月、イェール大学医学部は 3か月の苦渋の審査の後、フェリッグを終身在職権を持つ教授として再雇用した。ただし、学内の力、研究界での勢力は、かつてとは比べものにならないほど小さいものになってしまった。

2021年5月、83歳だが、インターネットで検索すると、ニュヨークのレノックスヒル病院(Lenox Hill Hospital)の内分泌科医として勤務している、と出た(写真出典右)。 → Dr. Philip Felig, MD | Endocrinologist in New York, NY | US News Doctors

●6.【論文数と撤回論文とパブピア】

★パブメド(PubMed)

2021年5月21日現在、パブメド(PubMed)で、ヴィジェイ・ソーマン(Vijay Soman、Vijay R. Soman)の論文を「Soman V[Author]」で検索すると、1973年~1980年の8年間の22論文と2013年~2021年の10論文がヒットした。2013年~2021年の10論文は本件とは異なる研究者の論文と思える。

2021年5月21日現在、「Retracted Publication」のフィルターでパブメドの論文撤回リストを検索すると、1977年~1980年の 11論文が撤回されていた。

11論文中の8論文はフィリップ・フェリッグ(Philip Felig)と共著である。

1977年 2報発表 1報撤回
1978年 5報発表 5報撤回
1979年 5報発表 1報撤回
1980年 8報発表 4報撤回

以下は最新と最古の撤回論文各1報である。

最新(1980年)

最古(1977年)

★撤回監視データベース

2021年5月21日現在、「撤回監視(Retraction Watch)」の撤回監視データベースでヴィジェイ・ソーマン(Vijay Soman、Vijay R. Soman)を「Vijay R. Soman」で検索すると、0論文が訂正、0論文が懸念表明、11論文が撤回されていた。

★パブピア(PubPeer)

時代が古いので省略。

●7.【白楽の感想】

《1》常習

日本学術会議会長・金澤一郎が2009年7月3日に講演で述べているように、ソーマン事件は、一般的には論文盗用事件だと思われている。

だから、白楽は、ネカトは盗用だけだと思っていた。そして、どうしてこんな単純な盗用をしたのだろうと不思議に思っていた。

つまり、他の研究者の論文原稿を盗用したわけだが、原稿には本来の著者がいる。査読段階で発覚したのはタマタマだが、出版されたら、糖尿病研究界という狭い領域なので、本来の著者からクレームがつくのは明白だ。それなのにどうしてこんな単純な盗用をしたのだろう?

冷静に考えれば身の破滅を招くのは必至だ。

そう考えると、ソーマンは1980年の盗用が初めての不正ではないと推察できる。それまでに何度も、他人の成果を自分のものにする研究不正をしてきたと推察できる。

研究不正を見つからないようにいろいろ工夫し、常習的に不正を行なっていたに違いない、と感じた。

そして、事件をさらに調べていき、撤回論文が11報もある事実に直面し、ねつ造も発覚し、論文盗用が1件だけの事件ではないことがわかってきた。

1976年(32歳)でイェール大学の助教授になって、最初の盗用が発覚する1980年(36歳)までに20論文も発表しているが、その内11論文が撤回された。

最古の撤回論文は1977年に発表しているねつ造論文である。ちゃんと調べれば、もっと古い論文にも研究ネカトは見つかるに違いない。

ソーマンは最初から不正にまみれた研究人生を歩んできたのだ。

《2》インド出身研究者に注意

このようなネカト事件を防ぐにはどうしたらよいのだろうか?

人種差別的発言はしてはならないとは思うが、事実を記載する。

インドで生まれ育って、大学院・研究初期で米国にきた研究者に「研究上の不正行為」者が多い。このキャリア・コースの研究者は要注意である。しかも、堂々と不正行為をする。悪びれない。大胆である。

このキャリア・コースの研究者は米国人に気に入られる要素が多いのだろう。英語は流暢で、礼節をわきまえ、頭脳明晰、服装が小ぎれいである。米国人の著名研究者はすっかり信用してしまう。

しかし、多くのネカト者は、最初から、だます。ネカト精神が根っから身についている。

インドでは裕福な家庭に育っているのだろうが、インドの文化は、不正をしてでも成功することを優先しているように思える(白楽はインド文化を十分理解していないが・・・)。

《3》不正の初期

「研究上の不正行為」は、初めて不審に思った時、徹底的に調査することだ。

ソーマンの場合、監査役のジェフリー・フライヤーが3時間監査しただけでデータねつ造が発覚している。

上司のフェリッグ教授が、時々、ソーマンに診察記録、データシート、実験ノートをもってこさせ、データの整合性をソーマンと突き合わすべきだった。これは、1回に1~2時間かかるが、重要な作業だ。学会発表や論文原稿をまとめ始める前、あるいは、数か月に一度はすべきだろう。

白楽は、研究室の学生・院生と最低でも毎週一度、一対一でデータ検討会を行なってきた。

そういうデータ検討会で実験ノート、元データ、分析過程。結論を確認していれば、研究ネカトを初期に発見できる。というか、そのような状況なら、部下は研究ネカトをしない・できない。

データ検討会をしないのはとても不思議である。

《4》当時、白楽は近くにいた

1980年3月から2年間、白楽はベセスダのNIH・国立がん研究所のポスドクだった。同時期、東大・第三内科から糖尿病研究者の春日雅人(かすが まさと、元・国立国際医療研究センター総長)がジェシー・ロス(Jesse Roth)の研究室のポスドクだった。

インネンは知らないが、春日さんは、白楽がいたケン・ヤマダ研究室でインスリン受容体のウエスタンブロットの実験をしていた。素晴らしいスピードで習得していったが、当時、彼は基礎的実験法に疎く、白楽が手ほどきした覚えがある。白楽は春日さんとの共著論文もある。

しかし、春日さんの本来の所属研究室・ジェシー・ロス(Jesse Roth)研究室でこんな事件が起こっていたとは、いままで、全く知らなかった。当時、春日さんも何も言わなかった。なんとも不思議な縁である。

当時、白楽はNIH構内で被盗用者のヘレナ・ヴァクスリヒト=ロッドバード(Helena Wachslicht-Rodbard)にすれ違っていたかもしれない。だから何だって言われると、なんでもないんですけど・・・。

《5》管理者の問題

今回の事件の流れでわかるように、若い女性ポスドクのヘレナ・ヴァクスリヒト=ロッドバードの糾弾に、上司のロス部長、相手のフェリッグ教授、バーリナー医学部長は、事実を究明し問題を解決することよりも、不正を隠蔽し、通報者を脅し、退職させ、何事もなかったかのように事態を進めることに汲々としている。つまり、事件を握りつぶそうとしている。

地位と権力を握る多くの人は同様の行為をする。

この志向が諸悪の根源である。

このような人が地位と権力を握る人事制度が腐敗をもたらす。この人事文化もなんとか変えないとマズイ。

ヴァクスリヒト=ロッドバードのような公益通報が陽の目を見る割合は、データを持っていないが、推察では、10件の内1件か100件の内1件ではないだろうか? つまり、ほとんどの場合、握りつぶされると思う(データを持っていませんけど・・・)。

このように、研究公正を推進する際の最大の阻害因子の1つは、偉い人が事件を握りつぶす行為である。

2021年の現在、日本でも白楽の身近で起こっている。 → 5C 名古屋大学・博士論文の盗用疑惑事件:② 隠蔽工作? | 白楽の研究者倫理

《6》マスメディアの問題

今回、1981年のニューヨーク・タイムズの記事(主要情報源①)を元にブログ記事を書いたが、新聞記事なのに、事件の詳細が冷静で克明に記述されている。

ネカト者・被ネカト者だけでなく、関係した教授・学科長・学部長にも取材して、事実を記載している。

記事が素晴らしいネカト事件の資料になっていて、事件の問題点や再発を防ぐヒントもたくさん抽出できる。学術論文並みの重要さだ。

ひるがえって、日本では、主要メディアでこのような記述はほとんど見当たらない。今後も期待できない。

主要メディアが書かないから、社会一般は研究不正の実態を知らない・無関心になる。

それに、日本には研究倫理学者はあまりいないから、研究者のネカト事件がほとんど分析されない。大学はネカト調査しても、情報を削って発表し、詳細な調査報告書を公表しないことが多い。

これらを変えないとマズイ。

10枚目スライド:https://www.slideshare.net/cjrw2/infamous-cases-of-research-misconduct

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日本がスポーツ、観光、娯楽を過度に追及する現状は日本の衰退を早め、ギリシャ化を促進する。日本は、40年後に現人口の22%が減少し、今後、飛躍的な経済の発展はない。科学技術と教育を基幹にした堅実・健全で成熟した人間社会をめざすべきだ。科学技術と教育の基本は信頼である。信頼の条件は公正・誠実(integrity)である。人はズルをする。人は過ちを犯す。人は間違える。その前提で、公正・誠実(integrity)を高め維持すべきだ。
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●9.【主要情報源】

① ◎1981年11月1日の「ニューヨーク・タイムズ(The New York Times)」記事:A FRAUD THAT SHOOK THE WORLD OF SCIENCE – NYTimes.com
② オーブリー・ブラムゾーン(Aubrey Blumsohn)のフィリップ・フェリッグ(Philip Felig)事件のサイト:Scientific Misconduct Blog: Memory Hole (1 November): The case of Philip Felig保存版
③  141211 71nAkax-AqL[1]1982年書籍(写真出典):ウィリアム・ブロード(William J. Broad)、ニコラス・ウェイド(Nicholas Wade)、「Betrayers of the Truth」、Simon & Schuster。ISBN-13: 978-0671447694、の9章(p161-180)は丸々、ソーマン事件を記述している。

しかし、1988年、牧野賢治(訳)・『背信の科学者たち』、講談社、 2014年, ISBN 978-4062190954 の日本語訳では、ソーマン事件が記述してある9章を削除した。つまり、日本語訳は原書と大きく異なる。

英語の著書だと日本の図書館などでは閲覧が難しい。閲覧が困難な情報源ですが、本記事に利用しています。スミマセン。
④ 旧記事(2015年2月5日掲載)保存()、(
★記事中の画像は、出典を記載していない場合も白楽の作品ではありません。

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