●【概略】
ジャック・ベンヴィニスト(Jacques Benveniste、写真出典)はフランスの免疫学者・医師。フランスのセレブ学者でノーベル賞候補にもなったカリスマ研究者。
ベンヴィニストをバンヴェニストやベンベニストと表記する例もあるが、ここでは英語発音のベンヴィニストを使う。
1979年に血小板活性化因子(PAF)の構造とヒスタミンとの関係についての著名な論文を発表した。フランス国立保健医学研究所(INSERM)の免疫学やアレルギー、炎症を扱う部門UNIT 200の責任者であった。(ジャック・ベンヴェニスト -ウィキペディア)
1988年(53歳)、抗体が存在しないほど薄めた水溶液に「抗体と一緒にいたという水分子の記憶」が残っていて、水溶液に抗体活性があるとした論文を、ネイチャー誌に発表した。大反論があり、「水の記憶」(memory of water)事件になった。明白な錯誤(本人は真実と信じていたが研究界では誤りとされた学説)である。
- 国:フランス
- 成長国:フランス
- 博士号取得:
- 男女:男性(
写真出典)
- 生年月日:1935年3月12日
- 没年:2004年10月3日。享年69歳
- 分野:免疫学
- 最初の不正論文発表:1988年(53歳)
- 発覚年:1988年(53歳)
- 発覚時地位:フランス国立保健医学研究所(INSERM)・UNIT200部長(免疫学・アレルギー・炎症)
- 発覚:ネイチャー誌編集者・論文査読者
- 調査:ネイチャー誌の調査班
- 不正の種類:錯誤
- 錯誤論文数:1988年の1報と後続の数報
- 時期:研究キャリアの後期から
- 結末:名声の失墜
★主要情報源:
① ◎ウィキペディア英語版:Jacques Benveniste – Wikipedia, the free encyclopedia
② ◎著書 『グリンネルの研究成功マニュアル』(1998年10月)
③ 2004年10月8日のフィリップ・ボール(Philip Ball)の「Nature」記事:The memory of water : Nature News
④★動画。◎「The memory of water」、(英語)9分59秒、Dyule’s channelが2008/09/30 に公開
⑤動画。「Jacques Benveniste at the Cavendish, 1999 (University of Cambridge)」、(英語)1時間14分26秒、Conference on the Physics Chemistry and Biology of Waterが2018/10/08 に公開
⑥動画。「Dr. Jacques Benveniste digibio」、(英語)12分42秒、Stillpoint Xが2018/10/30 に公開
●【経歴と経過】
- 1935年3月12日:フランスのパリで生まれる
- 1960年(25歳):パリ大学医学部を首席で卒業。医師免許取得
- 1965‐1969年(30‐34歳):フランス・CNRS(国立科学研究センター)研究員
- 1969‐1972年(34‐37歳):米国・カリフォルニア大学サンディエゴ校(University of California, San Diego)のスクリプス臨床・研究研究所(Scripps Clinic and Research Foundation)に研究留学
- 1972‐1997年(37‐62歳):フランス国立保健医学研究所(INSERM)研究員、部長
(写真出典)
- 1984年(49歳):フランス首相より「Sir.(卿)」の称号を授与される
- 1985年(50歳):フランス・CNRS(国立科学研究センター)から癌研究で銀賞を受賞される
- 1988年(53歳):ネイチャー誌に錯誤論文を発表。以後、名声を失い、没落していく
- 1997年(62歳)?:フランス国立保健医学研究所(INSERM)を退職
- 1997年(62歳):研究関連企業のDigiBio会社を設立
- 2004年10月3日(69歳):パリで死亡。2回結婚、5人の子供をのこして。
●【錯誤の内容・経過】
本コラムの方針(主に無料ウェブ資料で解説する)に軽く抵触するが、今回は、白楽が翻訳した 『グリンネルの研究成功マニュアル』(1998年10月 本表紙の写真も同サイト)を修正し引用する。図書館で「無料」閲覧してください。
以下、長い修正引用である。
★無限に希釈しても生物活性はあるか:ベンヴィニスト事件
1988年にネイチャー誌にのったJ.ベンヴィニストたちの研究論文がなかなか示唆に富んでいる。その論文は、<抗IgE抗体はすごく薄めてもヒト好塩基球の顆粒を放出させる>というタイトルの論文である。
- Human basophil degranulation triggered by very dilute antiserum against IgE.
Davenas E, Beauvais F, Amara J, Oberbaum M, Robinzon B, Miadonna A, Tedeschi A, Pomeranz B, Fortner P, Belon P, J. Sainte-Laudy, B. Poitevin & J. Benveniste.
Nature. 1988 Jun 30;333(6176):816-8.
ジャック・ベンヴィニスト(Jacques Benveniste) 写真出典
当時、この論文は疑問点が多いとされ、多くの研究者はその内容を信じなかった。現在でも否定的である。
ベンヴィニストたちは好塩基球という血液中にある細胞を使って実験を行なった。この細胞は細胞表面に免疫グロブリンE(IgE)をもっている。そのため、IgEに対する抗体(これを抗IgE抗体という)を加えると抗体はこの細胞に結合する。抗体が結合すると、細胞はヒスタミンを含む顆粒を細胞のそとに放出する。ベンヴィニストの論文の結論は、加える抗IgE抗体を1/1030まで薄めても、まだ生物活性をもっていた、という驚異的なものだった。
1/1030まで薄めるというのはどういうことか?
アボガドロ数が6x1023だから、1ミリモル溶液(抗体としては極端に濃い溶液)でも6x1020まで薄めれば、1リットル中に抗体分子が約1分子しか存在しないという希釈率だ。1/1030というのは、それをさらに十億倍も薄めた値である。抗IgEの抗体分子がその溶液中にまったく存在しないのに限りなく近い液となる。微量、極微量、極々微量はあるかというと、答はほんとうにゼロ、まったくないのに限りなく近い液である。
水溶液には、過去に抗IgE抗体と一緒にいたという「水の記憶」(memory of water)が残っていて、抗体活性があるというのだ。
とても信じられない。
ベンヴィニストは、薄めたときに生物活性があるのは、薄めるときに、はげしく撹拌(ボルテックスという小型撹拌器で撹拌)した場合だけであると書いている。だから、<この生物活性は、水の分子構造に関係してる可能性がある>とした。そして最後に次のように述べていた。
この現象の細部はよく説明できませんでした。私たちが思うには、分子が実在しないときにも生物活性があるという事実をまずはっきりさせなくてはなりません。今後、この<無分子下の>生物学を理解するには、抗体分子と水の相互作用に撹拌がどう影響するのかという新しい物理学が必要です。そうすれば、抗体分子の活性が何に担われるのかがわかってくると思います。もっとも、残念ながらいまのところ、こういう説は現在どれも立証されていません。
ベンヴィニスト(写真出典)の論文に対してすごい量の反論があった。
この研究は医学部の仲間内だけに見せるようなレポートで、<実験方法はちゃんと書かれていないし……あいまいだし……記述が乱雑>。
希釈操作の途中に不純物が混入しているかもしれないので、それをちゃんと防ぐように。
得られたデータの統計処理法がおかしい。
ジョークもあった。「紳士淑女の皆様方へ。生物活性を保つためには、抗IgE抗体を希釈するとき、かき回してはなりませんゾ。撹拌しなくてはなりませんのじゃ。これで、ワシが永年疑問に思っていたナゾが一つ解けましたわい。ジェームス・ボンド氏が、かき回して作ったカクテルと撹拌して作ったカクテルをどうやって区別しておるのかが」。
後でわかったことだが、ベンヴィニストの論文には出版条件があった。その条件は、ネイチャー誌の調査班がフランスのベンヴィニストの研究室を訪問し、データと実験を実地検証するというのだった。調査チームにはネイチャー誌編集長のJ.マドックス、プロの魔術師のJ.ランディ、本来はNIHの研究者だけどパートでねつ造研究の専門家となったW.ステュアートが入っていた。
調査チームが実地検証してみるといろいろな問題が出てきた。
たとえば、ベンヴィニスト論文の共著者のうち二人は、研究結果に深くかかわるフランスの医薬品会社から給料をもらっていた。
また、高度に希釈したときの生物活性はいつもあったわけじゃなかった。あるときは数カ月も再現できなかった。それでも、彼らは学説に問題があるとは考えなかった。この時期の水に何か問題があったと考えていた。また、ある実験では、コントロールが抗体希釈溶液よりも高い読みを示していた。そのときは最初の読みが<間違ってた>と考え、コントロールだけをもう一度測定し直していた。あるデータでは、コントロールの値と抗体希釈溶液の値を別々に行なった実験から得ていた。
これらの調査結果は、ネイチャー誌の<ニュースと見解(News and Views)>に<真実を薄めた高希釈実験>としてのった。
ベンヴィニスト(写真出典)は、反論した。
<実験にはたしかに間違いもあったけど、データのレベルはネイチャー誌の他の論文と同じで質は高い>と。
ネイチャー誌の編集長は論文を引き下げるよう要請した。もし引き下げないのであれば、調査チームが指摘した点に納得のいく対応をし、データの質をもっと高めるようにと要請した。
これに対し、ベンヴィニストは、調査チームは素人集団でその行動も不適切だったと批判した。たしかに調査チームの陣容は、データと同じぐらいおかしかったかもしれない。
ベンヴィニストは、彼の批判を次のように締めくくった。
真理を求める世界中の科学者の皆さん。皆さんのなかには、明らかに偏見に満ちたことを言ってくる人もいましたが、私たちの論文に刺激された人もいたと思います。さて、私たちの発見は間違いだったのか、それとも新しい分野を切り開く先駆的な研究だったのでしょうか? 真理を求める科学者の皆さんこそが、それを確かめる知的手段も技術的手段ももっているはずです。
●【論文数と撤回論文】
パブメドhttp://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmedで、ジャック・ベンヴィニスト(Jacques Benveniste)の論文を「Benveniste J[Author]」で検索すると、1968年~2004年の37年間の262論文がヒットした。
2015年1月14日現在、撤回論文はゼロである。
●【事件の深堀】
『グリンネルの研究成功マニュアル』(1998年10月)の引用を続ける。
ベンヴィニスト事件の終わりごろには、論文の内容に対してたくさんの批判が集まっていた。ただ、残念なことに、ベンヴィニストの研究結果を科学的に納得できるように説明したものは一つもなかった。
ベンヴィニストの見たものは間違っていたのだろうか? そうだとしたら、どこがどのように間違っていたのか?
もしベンヴィニストの研究がフランスではなくアメリカでされていたらどうなっていただろう。研究公正局の不正調査委員会が調査したはずである。
それにしても、どんな小さなことでも不正だと疑って調査すれば、それだけで、科学も科学者も大きなダメージを受ける。不正だと騒いで科学をおもしろおかしく週刊誌ネタにしてしまう危険性は、実のところかなり大きい。このことを肝に銘じておきたいものである。( 『グリンネルの研究成功マニュアル』(1998年10月)
●【白楽の感想】
《1》 錯誤
今回、錯誤を取り上げた。
「錯誤」は、広辞苑第六版によれば、以下の通りだ。
①あやまり。まちがい。「―を犯す」。
②事実と観念とが一致しないこと。現実に起こっている事柄と考えとが一致しないこと。「時代―」
本人は真実と信じていたが研究界では誤りとされた学説を、白楽は「錯誤」と命名した。英語の「pathological science」のことで、これを「病的科学」と訳す日本語もあるが、誤解を与える悪訳である。
研究者にとって「錯誤」はつきものである。極端に言えば、新しい仮説はほぼ全部「錯誤」と同様なメカニズムで提唱される。
ただ、事実・理論に合わない、あるいは、再現実験ができないと、研究者は自分の新しい仮説を事実・理論に合うように、再現実験ができるように修正する。それをしないで元の仮説に固執すると、研究界で無視され、忘れ去られる。
超有名・カリスマ研究者が、事実・理論に合わない新しい仮説を修正しないで、主張し続けると、研究界はxx事件とし、仮説を排斥する。その仮説を「錯誤」とみなすのである。中級以下の研究者が同じことをしてもxx事件にはならない。単に無視されるだけである。
錯誤は、研究ネカトではない。本人は真実と信じるが、研究界では誤りとされる。つまり、公式には「間違い」である。だから、本来、仮説を展開した論文を撤回すべきである。錯誤を研究クログレイに分類する。
研究界が誤りとするので研究費などの支援は得られなくなるが、研究者当人へのペナルティはどうあるべきなのだろう? 研究ネカトと違い、本人に悪意はないと思われる。
「錯誤」は、新しい仮説の誕生に付き物である。
そして、科学上の事実は、多数決で決まらない。政治や宗教で決めることもできない。そういう例はたくさんある(例:ガリレオ・ガリレイ)。
イヤ、科学上の事実は、科学者の多数決で決めるべきなのだろうか? 実際、多数決で決まっていると理解すべきだろうか?
錯誤事件には、コマッタことに信奉者がそれなりにいる。例 ①水は情報を記憶する、②ホメオパシー出版スタッフブログ: ベンベニスト博士――タブーの実験をしたために転落した科学者、③2004年の「Inflammation Research 」論文: Histamine dilutions modulate basophil activation – Springer
《2》 共著者の責任
ベンヴィニストがどうして、こんな妄想を抱き、論文として発表したのか、動機がわからない。イヤ、動機は、世間が驚くような大発見をしたい気持ちだろう。動機はわかる。
しかし、「分子が実在しないときにも生物活性がある」わけがない。これは、理系の大学生以上なら充分理解している。化学・物理・生物学の基本中の基本だ。だから、仮説とする前に「そんな馬鹿な」アイデアを採用しないのが通常だ。科学的な冷静さを欠いている。
さらなる問題は、論文にはベンヴィニスト以外に12人の科学者が共著者になっている。12人の内、1人も異議を唱えなかったのだろうか?
1人も異議を唱えなかったのだろう。だから共著者に名前を連ねているのだ。ココも、常軌を逸している。ベンヴィニストがカリスマ研究者だとしても、理解できない。
12人の共著者が無罪放免だったかどうか良く知らないが、非難された記述がない。これも納得できない。
論文でメリットがある人は全員、不正論文でデメリットを課されるべきだ。そうじゃなければ、不公平だ。
ジャック・ベンヴィニスト(Jacques Benveniste) 写真出典