2015年1月15日掲載、2023年8月20日更新
ワンポイント:【長文注意】。42年前の1981年の事件。スペクターは、細胞の発がんメカニズムを「リン酸化カスケー ド仮説」で解いた24歳の天才的なコーネル大学・院生だった。ボスのエフレイム・ラッカー教授(Efraim Racker)と一緒にノーベル賞を受賞することが確実視された。しかし、栄華はわずか1年半で、1981年、データねつ造が発覚し、仮説は総崩れになった。スペクターは、退学し、根っからの「悪徳処世術者」と判定された。国民の損害額(推定)は20億円(大雑把)。この事件は、白楽指定の重要ネカト事件である:ネカト事件史の代表的なねつ造事件。政府・学術誌・学術界が主体となって、研究不正に対処する全米的運動をもたらす切っ掛けとなった事件。約10年後、研究公正局が設置された。
ーーーーーーー 目次(クリックすると内部リンク先に飛びます)
1.概略
2.経歴と経過
3.動画
4.日本語の解説
5.不正発覚の経緯と内容
6.論文数と撤回論文とパブピア
7.白楽の感想
9.主要情報源
10.コメント
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●1.【概略】
マーク・スペクター(Mark Spector、写真出典)は米国・コーネル大学(Cornell University)の院生。専門は、がんの生化学・細胞生物学。ボスは、ノーベル賞候補のエフレイム・ラッカー教授(Efraim Racker)だった。
1981年(25歳)、データねつ造が発覚。
その前年の1980年秋、NIH・国立がん研究所・分子生物学部のポスドクだった白楽はシンシナティ市で開催された米国細胞生物学会で、シンシナティ市出身のスペクターの講演を会場で聞いた。
白楽と同じ研究室に、コーネル大学出身のスティーブがポスドクで研究していた。
1981年、事件が発覚した日、スティーブのコーネル大学仲間が実験中のスティーブに電話をかけてきた。スペクターのスキャンダルを電話で伝えてきたのだ。スティーブが大興奮していた。
また、その日の午後開催のNIH・国立がん研究所・分子生物学部の講演会は、全く偶然だが、スペクターが講演する予定だった。講演は、急遽、キャンセルになった。
白楽は、日本の雑誌の1981年10月号にスペクター事件の記事を書いた。スペクターのスキャンダルを日本に伝えた最初の記事だと思う。
この事件に出あったことで、白楽は、その20年後、研究者倫理の世界に片足をツッコミ、現在、「白楽の研究者倫理」ブログを書いている気がする。
白楽にとっては偶然の出来事だが、スペクター事件は、白楽の人生を大きく変えた事件である。
なお、当時、研究公正局は存在していなかったので、研究公正局の事件にはなっていない。
コーネル大学・生化学/分子/細胞生物学大学院(Graduate Field of Biochemistry, Molecular, and Cell Biology at Cornell University)。写真出典
- 国:米国
- 成長国:米国
- 医師免許(MD)取得:なし
- 博士号取得:未取得
- 男女:男性
- 生年月日:1955年x月x日。仮に1955年12月31日生まれとした
- 現在の年齢:68歳
- 分野:生化学
- 不正論文発表:1980~1981年(24~25歳)の2年間
- ネカト行為時の地位:コーネル大学・院生
- 発覚年:1981年(25歳)
- 発覚時地位:コーネル大学・院生
- ステップ1(発覚):第一次追及者は同じ大学の近接研究室のヴォルカー・ヴォークト助教授(Volker Vogt)でボスのエフレイム・ラッカー教授に伝えた
- ステップ2(メディア):「NYTimes」、『Betrayers of the Truth』など多数
- ステップ3(調査・処分、当局:オーソリティ):①エフレイム・ラッカー教授。②コーネル大学は調査していない。③研究公正局はまだ設置されていない
- 大学・調査報告書のウェブ上での公表:なし
- 大学の透明性:該当せず(ー)
- 不正:ねつ造・改ざん、経歴詐称
- 不正論文数:1報撤回。残りの6報(?)全部不審
- 時期:研究キャリアの初期
- 職:事件後に研究職(または発覚時の地位)をやめた・続けられなかった(Ⅹ)
- 処分:退学
- 日本人の弟子・友人:不明
【国民の損害額】 国民の損害額:総額(推定)は20億円(大雑把)。
●2.【経歴と経過】
- 1955年x月x日:米国で生まれる。仮に1955年12月31日生まれとした
- 19xx年(xx歳):xx大学を卒業(虚偽らしい)
- 1980年(24歳):米国・シンシナティ大学(University of Cincinnati)・修士号取得(虚偽らしい)
- 1980年1月(24歳):米国・コーネル大学・大学院入学。生化学のエフレイム・ラッカー教授(Efraim Racker)の研究室に入る。最初から不正研究をする
- 1981年夏(25歳):不正研究が発覚
- 1981年夏(25歳):退学
- 1991年春(35歳):勤務先の病院で経歴詐称が発覚
●4.【日本語の解説】
日本語文章はそれなりにある。また、米国の研究不正を解説した2冊の古典的名著 が、スペクター事件を扱っている。日本語訳された2冊の該当部分の一部を紹介する。
★1981年10月x日:白楽:「リン酸化カスケー ド仮説の真偽 」
1981年、在米中だったは、日本の雑誌「生体の科学」にスペクター事件の記事を書いた。
出典 → 「リン酸化カスケー ド仮説の真偽 」
★2014年11月6日:世界変動展望 著者(世界変動展望):非常に悪質な論文捏造事件
1981年にコーネル大学ラッカー研で起きた発がんメカニズムに関するブレイクスルーとなったカスケード理論の捏造事件で、当時24歳の大学院生だったマーク・スペクターが不正実行者。エフレイム・ラッカーはノーベル賞を受賞してもおかしない著名な研究者でスペクターはラッカーの仮説に合致するデータを捏造しサイエンス誌に論文を発表した。計画的な不正で非常に悪質だった。
続きは、原典をお読みください。
★2015年4月1日:伊東 乾の記事(2ページ目から有料)JBpress (ジェイビープレス):偉業か詐欺かを見分ける重要な視点 日本では学歴ロンダリングやエア学位がなぜなくならない?(1/5)
1981年、米コーネル大学の大学院生だったマーク・スペクター(Mark Specter、1955-)は指導教官のエフライム・ラッカー(Efraim Racker、1913-1991)の指導のもと、ガン細胞発生のメカニズムを明らかにしたとして次々に論文を発表、瞬間沸騰的な反響を呼びます。
しかし、データは不自然で追試はことごとく失敗・・・。どこかにあったような話ですが、結局すべてが捏造であったことが発覚して犯人は姿を消し、大学院からは追放処分という、既に大家の域に達していたラッカーの名に汚点を残す情けない顛末に終わりました。
続きは、原典をお読みください。
★古典的名著の1冊目:1982年の『Betrayers of the Truth』
ウィリアム・ブロード(William J. Broad)、ニコラス・ウェイド(Nicholas Wade)が執筆した、1982年の書籍『真実を裏切る者たち(Betrayers of the Truth)』(写真出典)(ISBN-13: 978-0671447694)。
牧野 賢治が日本語に訳し、『背信の科学者たち』として、1988年1月20日、化学同人から初版を出版した。現在は、ブルーバックス版の方が入手しやすいだろう。『背信の科学者たち―論文捏造』、牧野 賢治 訳| Amazon(2006/11/21)
当時、在米中だった白楽は、NIHの本屋で、原書を、即、購入し、むさぼり読んだ記憶がある。現在、自室の本棚にある。
この本は、1981年のネカト事件までリストしている。つまり、スペクター事件は出来立てほやほやの事件だった。
牧野 賢治 訳のブルーバックス版では、スペクター事件は97~114ページと18ページに渡って記述されている。本文の文章部分が294ページなので、全体の6.1%が割かれている。98ページ目の大部分を以下に示す。
続きは、訳書をお読みください。
★古典的名著の2冊目:1986年の アレクサンダー・コーン(Alexander Kohn)著の『False Prophets: Fraud and Error in Science and Medicine』
1986年出版の アレクサンダー・コーン(Alexander Kohn)著の『False Prophets: Fraud and Error in Science and Medicine』である。 → Amazon | False Prophets: Fraud and Error in Science and Medicine | Kohn, A. | Science。
→ 日本語訳版:『科学の罠―過失と不正の科学史 』酒井シヅ、三浦雅弘訳 | Amazon.co.jp(1990/6/1)
酒井シヅ、三浦雅弘 訳の本では、スペクター事件は158~166ページと9ページに渡って記述されている。本文の文章部分が315ページなので、全体の2.9%が割かれている。158 ページ目を以下に示す。
続きは、訳書をお読みください。
●5.【不正発覚の経緯と内容】
★1980年1月(24歳)
マーク・スペクター(Mark Spector)はシンシナティ大学(University of Cincinnati)・修士課程の院生の時、重要な論文を第一著者として完成していた(出版は1980年2月)。
- Purification of a manganese-containing protein involved in photosynthetic oxygen evolution and its use in reconstituting an active membrane.
Spector M, Winget GD.
Proc Natl Acad Sci U S A. 1980 Feb;77(2):957-9. doi: 10.1073/pnas.77.2.957.
コーネル大学の大学院入学時期は通常、秋なのだが、この業績で、入学事務室は、特例として、1月(1980年、24歳)にスペクターの入学を許可した。
また、大学院生には入学後半年間、3つの研究室を回り、実習を受けながら研究室の選択をする実験実習ローテションがある。
スペクターはこの実験実習ローテションも免除され、直接、エフレイム・ラッカー教授(Efraim Racker、1991年9月9日没、写真出典)・研究室で実験を開始することが許可された。
つまり、スペクターは、最初から特別扱いだった。
しかも、ラッカー研究室に入ったスペクターは、新しい実験手法をすぐに覚え、研究結果の説明も抜群に上手かった。
スペクターは、 1日18時間も研究するハードワーカーで、研究室に来て2か月もたたないうちに1つの研究を完成してしまった。
ラッカーは「今までに見たこともない天才」と惚れ込んでしまった。
大学院生にもかかわらず、すぐに、独立した研究者のように処遇した。
ーーーー ラッカーのことを少し説明しておく。
エフレイム・ラッカー(Efraim Racker)は1913年6月28日にオーストリアで生まれたユダヤ人である。ウイーン大学で医学を学んでいた1938年、ヒトラーがオーストリアに侵攻した。
1941年(?)、ヒトラーの迫害を逃れるため、渡米し、ミネソタ大学、ニューヨーク大学、イェール大学医科大学院を経て、1966年(53歳)、コーネル大学・生化学の教授になった。
1980年1月、24歳のスペクターを院生に迎えた時、ラッカー教授は66歳で、既に、世界的に著名な研究者になっていた。
ーーーー
スペクター事件は、既に、「寺岡伸章のブログ」で日本語で解説されている。2010年10月25日の寺岡伸章(元・科学技術庁・基礎研究推進企画官)の記事:美しすぎた仮説 寺岡伸章のブログ/ウェブリブログを改訂引用する(原典の文章は、福岡伸一『世界は分けてもわからない』(講談社現代新書)と思えるがチェックしていない。
1980年1月のある日、研究室に大学院1年生の初々しい新人がやってきた。マーク・スペクター、24歳。彼は天才だった。スペクターはオハイオ州の田舎の大学を修了したばかりで、ほとんど実験室の経験がなかったのにもかかわらず、細胞とタンパク質の取り扱いと、その分析技術を瞬く間に自分のものとした。器用で、段取りもよかった。神業に近かった。深夜まで働くハードワーカーでもあった。ほどなくして、彼は世紀の大発見を行うことになる。
その論文の原稿は、1980年2月19日、生化学の一流雑誌ジャーナル・オブ・バイオロジカルケミストリーの編集部に届けられた。スペクターがラッカー研究室にやって来て、ひと月足らずしか経過していなかった。がん細胞からATP分解酵素を見事に精製したのである。
スペクターの業績はそれだけで終わらなかった。精製したATP分解酵素を試験管のなかで人工的に作り出した擬似的な細胞膜に埋め戻した。つまり、再構成実験にも成功したのだった。
二人はさらにがんの神秘へと迫っていく。では、なぜがん細胞のATP分解酵素は正常細胞と働きが異なるのか。ラッカー教授はリン酸化が原因だと踏んでいた。
がん細胞のATP分解酵素のリン酸化をつかさどるリン酸化酵素Mが存在する。そして、リン酸化酵素Mをリン酸化する酵素Sが存在する。その上流には酵素Lが、さらに上流には酵素Fが存在するはずだ。
つまり、F→L→S→M→ATPリン酸化酵素の順でリン酸化の滝が流れているのだ。滝の意義は情報制御と情報の増幅にある、とラッカー教授は考えた。下流に行くほどネズミ算式に情報の伝達量は増加する。これを、「リン酸化カスケード仮説」と呼ぶ。
研究成果はさらに上昇気流に乗って行く。ラッカー教授はがんウイルスの研究者と共同研究を始める。相手は同じコーネル大学の助教授・ヴォルカー・ヴォークト(Volker Vogt)だった。
がんウイルスは細胞をリン酸化すると考えられていた。ルイス・サルコーマ・ウイルスは細胞に感染すると、宿主のゲノムからリン酸化酵素の遺伝子をちぎり取って持っていってしまうのだった。このウイルスが持ち込むリン酸化酵素はsrc(サーク)と呼ばれることになった。
srcは細胞のなかでリン酸化の滝の上流の引き金を引き、次々とリン酸化のドミノを倒していくのだ。リン酸化酵素Fとsrcが同じであれば、どんなに素晴らしいことだろうか。驚くべきことに、スペクターの実験結果は両者の分子量ともほぼ60,000だと示したのだった。
ラッカーとスペクターは晴れ晴れとした顔で、科学雑誌「サイエンス」に特別論文を寄稿した。その論文は次のように締めくくられていた。
「この研究の過程において、我々はごくごく限られた量の細胞試料から不安定な膜酵素を大変な労力を払って精製しなければならなかった。細胞内環境とはまったく違う条件で、膜酵素を再構成する方法を考案しなければならなかった。ウイルス発がんの原因タンパク質を突き止めたウイルス学者や遺伝学者たちから様々なサポートを受けた。そして今、そのすべてを乗り越え、長い間、待ち望まれていたこと、つまり生化学と分子生物学がここに融合したことを目撃したのである」
高らかな勝利宣言だった。特大のノーベル賞級の成果だった。
共同研究者のヴォークトはこの数ヶ月の間の出来事が夢のようで、現実感がなかった。データは予想される結果と完璧に一致していた。まるで絵にかいたように。
★1980年春(24歳)
スペクターがラッカー研究室にきてまだ半年もたたない。
ラッカーの共同研究者であるヴォルカー・ヴォークト助教授(Volker Vogt、28年後の2008年の写真では教授:右、出典)は、ラッカー研究室の上の階に実験室を構えていた。
スペクターの研究結果は華々しかったが、ラッカー研究室以外の世界中の研究室は、スペクターの研究結果を追試できなかった。
ヴォークト研究室に1980年に入学した大学院生・ブレーク・ペピンスキー(Blake Pepinsky 数十年後の写真:左、出典 リンク切れ)は、大学院ローテ―ションでラッカー研究室の実習を受けたので、ラッカー研究室のことを知っていた。
ペピンスキーは、スペクターとは仲良しだった。
ペピンスキーは、スペクターの研究結果を追試できなかった。追試できたのは、スペクターが実験に協力してくれた時だけだった。
ヴォークト助教授は、スペクターの研究結果がどうして、追試できないのか、慎重に考えた。その1つのポイントは、免疫沈澱が再現できないことだと思い至った。
それで、スペクターに抗血清と抗原をもらい、実験を再現することにした。
「Na-K-ATPaseの抗血清」をもらって、2か月間、試行錯誤した。
そして、ようやく突き止めた答えは、驚いたことに、スペクターがくれた「Na-K-ATPase」と書いた試料容器の中身が、全く別のタンパク質である牛血清アルブミン(BSA: bovine serum albumin)だったということだった。
牛血清アルブミンはポピュラーなタンパク質で市販されている。さらに、スペクターがくれた「Na-K-ATPaseの抗血清」は、「牛血清アルブミンの抗血清」だったのだ。
こんなミスはあり得ない。意図的でしかない。
ヴォークトは激怒した。
スペクターは陳謝し、「単にラベルを間違えただけです」、と弁解した。
都合よく、2つも偶然にラベルを間違えることはあり得ない。意図的でしかない。
ヴォークトはスペクターと手を切ろうと考えたが、以下に示すようにスペクターは次々と魅力的な研究論文を発表した。
- Reconstitution of the Na+K+ pump of Ehrlich ascites tumor and enhancement of efficiency by quercetin.
Spector M, O’Neal S, Racker E.
J Biol Chem. 1980 Jun 25;255(12):5504-7.
- Phosphorylation of the beta subunit of Na+K+-ATPase in Ehrlich ascites tumor by a membrane-bound protein kinase.
Spector M, O’Neal S, Racker E.
J Biol Chem. 1980 Sep 25;255(18):8370-3.
それで、しばらくの間、様子を見ることにした。
★1981年春(25歳)
生命科学の重要な研究発表会・「コールド・スプリング・ハーバー・シンポジウム(Cold Spring Harbor Symposia on Quantitative Biology)」が、米国東部のコールド・スプリング・ハーバー研究所で、毎年、開催されている。
白楽は何回も参加したことがある。
コールド・スプリング・ハーバー・シンポジウムは、当時、世界の生命科学の動向を決定する重要な研究発表会だった。晩さん会の御馳走として、1人1匹、茹でた大きなロブスターが振舞われることも有名だった。美味しかった。
1981年5月、スペクターは、その研究発表会で、華々しい「リン酸化カスケード仮説(Protein Kinase Cascade)」を発表した。論文は「コールド・スプリング・ハーバー・シンポジウム」終了数日後(?)に「1981年5月のJ Biol Chem」論文として公表された。
- Regulation of phosphorylation of the beta-subunit of th Ehrlich ascites tumor Na+K+-ATPase by a protein kinase cascade.J Biol Chem. 1981 May 10;256(9):4219-27.
コールド・スプリング・ハーバー・シンポジウムで、院生が発表するのは特例だったが、その仮説の美しさと研究進展の驚異的なスピードに、会場の研究者たちは驚嘆し、興奮した。
一方、スペクターの実験を追試できないという不満もくすぶり始めていた。
スペクターの試料の混乱は、コロラド大学のレイモンド・エリクソン(Raymond L. Erikson – Wikipedia、その後、ハーバード大学教授、2020年3月30日没、享年84歳、写真出典)研究室との実験試料の交換時にも発生した。
研究者の世界では、論文発表した抗血清やタンパク質試料は、世界中の研究者から依頼があれば、無償で提供するのがルールになっている。
エリクソンは自分たちが新たに発見したタンパク質がスペクターのと同じかどうかを確かめるために、抗血清の交換を申し出た。
エリクソンは、自分の抗血清をラッカー研究室に送った。ところが、スペクターは、エリクソンの抗血清を小分けし、自分の抗血清としてエリクソンに送ったのである。
当然、バレた。
エリクソンは抗議した。
すると、スペクターは陳謝し、再び、「単にラベルを間違えただけです」、と弁解した。
ヴォークトは、この話を聞いて、再び、そしてより強く、スペクターの実験データを疑うようになった。
★1981年夏(25歳)
ヴォークトは、スペクターの実験データを疑う一方、リン酸化アミノ酸の分析技術を習得したいと思った。
32P-標識のタンパク質を加水分解し、2次元の電気泳動とクロマトで展開し、リン酸化アミノ酸を同定する手法である。
この手法の習熟を通して、スペクターの実験データが正しいかどうかをチェックしたいと考えた。
ヴォークトは、スペクターの不要になったSDSゲルをもらって試すのが良いと思い、使用済みで不要になったSDSゲルをくれるようにスペクターに依頼した。スペクターは「いいよ」と言いつつ、なにかと言い訳をして、実際にはくれなかった。
しびれを切らしたヴォークトは、自分の研究室の大学院生・ペピンスキー(前出)に、スペクターの使用済みで不要になったSDSゲルのある場所を尋ねた。
すると、ペピンスキーはSDSゲルが置いてある引き出しを知っていて、ヴォークトに教えてくれた。
1981年7月24日(金)、ヴォークトはそのSDSゲルを1枚持ってきて、自分の実験室で、32P-標識のリン酸化アミノ酸の分析実験をしようとした。
32P-標識は弱い放射線であるベータ線をだす。ガラス板を遮蔽板に使えば、放射線が遮断され、人体に悪い影響を及ぼさない。
実験台にはガイガーカウンターが常備してあり、実験する時は、いつもオンにするが、32P-標識の弱い放射線はガイガーカウンターで検知できない。
必要ないのだが、何気なく、ガイガーカウンターのスイッチをオンにした。すると、ガイガーカウンターは、ピッ、ピッという音を発して、放射線を検知したのである。
ヴォークトはなにかの間違いだろうと、不審に思った。
しかし、放射線の発信源は、SDSゲルだった。SDSゲルのタンパク質バンドは、ベータ線ではなく、より強い放射線であるガンマ線を発していたのだ。
となると、タンパク質の標識は、32P-標識や35S-標識ではなく、125ヨウ素-標識だということになる。
スペクターの実験では、125ヨウ素-標識タンパク質はどこにも登場しない。
本来検出されない放射線がSDSゲルに見つかった。
この瞬間、スペクターのデータねつ造が発覚した。
ヴォークトは、タンパク質が32P-標識ではなく、125ヨウ素-標識だということの意味を考えた。
そして、スペクターのすべてのタンパク質が125ヨウ素-標識だったと仮定すると、スペクターの研究結果のすべての謎が解ける。すべての実験データは、巧妙にねつ造されたものだと思い至った。
2日間考えた。
翌々日の1981年7月26日、日曜日の夕方、ヴォークトはラッカーに直接会ってこのことを伝えた。
ラッカーは、自分が惚れ込んだ天才児の研究結果を信じ込んでいた。リン酸化カスケード仮説で、スペクターとともにノーベル賞を受賞できると期待していた。
それで、突然、顔面を殴られたような衝撃を受け、ヴォークトの言うことを信じられなかった。
ラッカーは、125ヨウ素-標識のことを一応、受け入れたが、それでも、なにかの間違いだろうと軽く考えようとした。スペクターを信じ込んでいたので、研究成果全体は間違っていないと主張した。
翌日・1981年7月27日、月曜日、ラッカーはスペクターをオフィスに呼び、ヴォークトと一緒にSDSゲルの125ヨウ素-標識タンパク質の説明を求めた。
しかし、スペクターは、「ねつ造はしていません。なにかの間違いです」と冷静に答えるだけだった。
それなら、2週間の猶予を与えるから、ATPaseとキナーゼの実験を再現するようにと、ラッカーは要請した。
しかし、2週間たっても、スペクターは実験を再現できなかった。
事件が公表され、スペクター事件は世界の生命科学界の大スキャンダルになった。
マスメディアが殺到した。
1981年9月9日、発覚から1か月13日後、スペクターは、ニューヨークタイムズ記者に、電話インタビューで次のように答えている。
自分の発見が証明されるには、もっと研究が必要ですが、すべて再現できると確信しています。125ヨウ素-標識のタンパク質がどうしてあったのか説明できませんが、自分も追加実験の結果を待っています。(1981年9月10日の「NYTimes」の記事:PROFESSORS TO CHECK QUESTIONED FINDINGS OF A CORNELL STUDENT – NYTimes.com)
ラッカーは、スペクターに大学院を辞めることと、2か月前に総説としてまとめた「1981 年7月のScience」論文の撤回を認めるよう要求した。
- Warburg effect revisited: merger of biochemistry and molecular biology.
Racker E, Spector M.
Science. 1981 Jul 17;213(4505):303-7. doi: 10.1126/science.6264596.
スペクターは当初、拒否した。そして、ラッカーを裁判で訴えると脅した。
ラッカーは、穏便に済ませたかったので、スペクターの母親を交えてスペクターと話し合った。
スペクターは、結局、「1981 年7月のScience」論文の撤回を認め、大学院を辞めた。
1981年9月18日、「1981 年7月のScience」論文は撤回された → 撤回公告 | Science
1981年9月10日、「Nature」誌はスペクター事件を記事にまとめた(以下)。
810910 Nature
★1982年冬(25歳)
スペクターが大学院を辞めて半年後、マスメディアのスキャンダル報道は下火になった。
そのころ、スペクターの実験ノートに次の記述が見つかった。
スペクターがコーネル大学で研究を始めた1980年1月の実験ノートには既に、いくつもの市販タンパク質の購入記録があった。それらは、本来の研究テーマとは無縁のタンパク質で、後に自分で発見したタンパク質の代役を務めさせたタンパク質だった。
つまり、コーネル大学で研究を始めた当初から、「リン酸化カスケード仮説」をねつ造し、すべてのタンパク質を発見したように見せかけようと、緻密に計画していたのだ。
左が、スペクターが“発見”し、“精製した” ハズの5つのタンパク質。右がそれらの代替タンパク質(偽物)で安価な市販品である。分子量が同じなら、偽物になりうるのだ。
- ATPase:carbonic anhydrase
- PKM:soybean trypsin inhibitor
- PKS:glyceraldehyde 3-phosphate dehydrogenase
- PKL:ovalbumin
- PKF:pyruvate kinase.
そして、コーネル大学・大学院入学前にシンシナティ大学・修士課程で完成した以下の「1980年」論文も、同じ手法のデータねつ造だったのである。
- Purification of a manganese-containing protein involved in photosynthetic oxygen evolution and its use in reconstituting an active membrane.
Spector M, Winget GD.
Proc Natl Acad Sci U S A. 1980 Feb;77(2):957-9. doi: 10.1073/pnas.77.2.957.
★ラッカーのその後
ラッカーは、スペクターの説を信じ込んでいた。
事件発覚後も、ラッカー(写真出典)は、スペクターの実験を再現しようと、1人で実験室にこもり、実験を重ねた。
しかし、スペクターの実験を再現できなかった。
10年後の1991年9月9日、失意のうちに、78歳の生涯を閉じた。死因は、脳梗塞だった。
ノーベル賞は授与されなかった。
●【経歴詐称の発覚】
★1981年:経歴詐称その1
キナーゼ・カスケード理論が崩れ始めると、マーク・スペクターの経歴の主要な部分もまた同様に崩れ始めたのである。1981年9月9日、スペクターは提出済みだった学位論文を撤回した。…そして、彼の経歴調査(スペクターがコーネル大学大学院に入学した時点で行われるべきだった)がようやく実施され、彼がもっていると言ったシンシナティ大学での文学修士号も文学士号ももっていないことがわかったのである。(W.ブロード・ N.ウェイド著、牧野賢治訳『背信の科学者たち』p.107)
下線を引いた「文学修士号も文学士号」は誤訳じゃないかと白楽は思う。「Bachelor of Arts」を「文学士号」と訳したと思うが、米国の「Bachelor of Arts」は多様で、大学によって、「化学」も「生物学」もある。 → 20448 B.A. in United States – Bachelorsportal
★1991年:経歴詐称その2
1981年(25歳)の事件後、スペクターは、オハイオ州に戻った。
1991年5月19日(35歳)の「Sunday Des Moines Register」紙の記事によると、スペクターは整骨医免許と医師免許を取得し、アイオワ州デモイン(Des Moines)のマーシ―ワン病院(MercyOne Medical Center)・心臓外科の有名な医師チームのアシスタントとして働いていた。
医療チームは彼を優秀だと認めていたが、スペクターは医療よりも、コンピュータに熱心だった。
ところが、スペクターの作ったソフトが上手く動かない。不良品のソフトを売った企業から詐欺で訴えられた。
詐欺の調査で、スペクターがアイオワ州の医師免許を持っていないことが発覚した。
また、1978年に4,800ドルの偽小切手を使ったこともバレた。
さらに、スペクターはコロンビア大学で医師免許(MD)を取得したと述べたが、コロンビア大学に確かめると、コロンビア大学は授与していないと返事した。
つまり、医師免許(MD)の取得は虚偽だった。スペクターは4年間務めたマーシ―ワン病院(MercyOne Medical Center)を解雇された(辞職した)。
「Sunday Des Moines Register」紙(Des Moines, Iowa • Page 7
●6.【論文数と撤回論文とパブピア】
★パブメド(PubMed)
2023年8月19日現在、パブメド(PubMed)で、マーク・スペクター(Mark Spector)の論文を「Mark Spector[Author]」で検索した。この検索方法だと、2002年以降の論文がヒットするが、2002~2005年の4年間の4論文がヒットした。全部、本記事で問題にしている研究者以外の論文だと思われる。
「Spector M」で検索すると、1959~2023年の65年間の621論文がヒットした。大多数は本記事で問題にしている研究者以外の論文だと思われる。
Rackerを足し、「Spector M AND Racker」で検索すると、1980~1981年の6論文がヒットした。この6論文は、本記事で問題にしているマーク・スペクター(Mark Spector)の論文である。
2023年8月19日現在、「Retracted Publication」のフィルターでパブメドの論文撤回リストを検索すると、「1981 年7月のScience」論文・1論文が撤回されていた。
つまり、6論文の内の1論文だけしか撤回されていない。6論文全部がネカト論文だと思うが、撤回されていない。どうなっているのだ。
★撤回監視データベース
2023年8月19日現在、「撤回監視(Retraction Watch)」の撤回監視データベースでマーク・スペクター(Mark Spector)を「Mark Spector」で検索すると、本記事で問題にした「1981 年7月のScience」論文・ 1論文が撤回されていた。
★パブピア(PubPeer)
2023年8月19日現在、「パブピア(PubPeer)」では、マーク・スペクター(Mark Spector)の論文のコメントを「”Mark Spector”」で検索すると、0論文にコメントがあった。
●7.【白楽の感想】
《1》悪徳処世術者
研究不正の大事件のデータねつ造は24歳の時の行為だが、それ以前から不正をしているし、経歴詐称もしている。事件が静まって7~8年後の35歳の時にも別の詐欺がバレている。マーク・スペクター(Mark Spector)は、「悪いと知っていてウソをつく」故意犯である。
シンシナティ大学・修士院生の時、不正研究をし、論文を発表した。そして、コーネル大学・院生になるが、最初からコーネル大学のラッカー教授をだまし、ダマし、騙したのである。最初から研究界を欺いてきたのである。
それがスペクターの処世術としか言いようがない。
スペクターは、人生で成功するには不正して出世することだと考えている「不正病」患者だと思う。不正が染みついている。
人生を、こうようなやり方で生きていく処世術・思想を、人生のどの段階で、どのように、そういう生き方を選択したのだろうか?
こういう人を、どう矯正するか?
矯正はできない。研究界から、排除するしかない。ところが、研究界は、「悪徳処世術者」を排除する意識・システムが弱い。
それにしても、人生いろいろである。人の思想・信条は人によって異なるし、それはそれで良い。
一般に、研究人生の処世術はどのように構築されるのだろうか?
特に、研究不正して研究界で出世する処世術をどこでどのように取り入れてしまったのか? そのプロセスの解明は重要だろう。そのプロセスがわかれば、そこを変えることでネカト防止に役立つと思う。
《2》今昔物語
スペクター事件は1981年に発覚した事件だから、2023年現在から見ると、42年前の事件である。
当時、ネカトに対処する手順は確立していなかった。もちろん、研究公正局は発足していない。研究公正局はスペクター事件などがキッカケで全米が対策を練り、事件の約10年後に発足した組織である。
だから、コーネル大学はネカト調査をしていない。当時、所属大学がネカト調査をすることは当然ではなかった。
それで、スペクターとラッカーの共著論文が6論文あって、6論文全部がネカト論文だと思うが、1論文だけしか撤回されていない。
データねつ造疑惑が生じると、関係した個々の研究者・学会が対処した。マスメディアも大きく報道した。
この時代、データねつ造に対して、研究者の問題意識はとても強かった。
研究公正は科学研究の心髄で、多くの研究者はとても誠実な対応をした時代だった。
例えば、ヴォルカー・ヴォークトはスペクターの不正実験を自主的に検証している。
米国には今でもこの誠実さがあるのかどうかわからないが、日本は、いつのころからか、学術研究者の腐敗が進んできた。
2023年現在では、日本にネカトが蔓延していて、ネカトを見聞きしても、学術研究者は「他人事とみなし」ほぼ無視をする。激怒しない。
大学は、頻繁に「ネカト対処怠慢・隠蔽」「ネカト調査不正」をする。
学術団体も何ら手を打たない。
政府機関は表面的には対応するが、本気度はまるでない。
《3》研究界のボスと天才的若手
ネカト事件を調べていると、ビジネスモデルというか、イヤ、いわないけど、「研究界のボスとそのボスが可愛がった天才的若手」のコンビという典型的なパターンがある。
今回のマーク・スペクターにはノーベル賞候補のエフレイム・ラッカー教授が特別に支援した。
物理学のヤン・ヘンドリック・シェーン(Jan Hendrik Schön)事件でもそうだ。 → ベル研シェーン事件 – 学術英語アカデミー
昔の事件では以下が有名である。
- ウィリアム・サマリン(William T. Summerlin)(米)
- ヴィジェイ・ソーマン (Vijay Soman)(米)
そして、昔ではないけど、日本の小保方事件もそうでね。
ココで問題です。上記、それぞれ特別援助した研究界のボスは誰でしょう?
なお、網羅的ではないけど、このサイトに少しまとめてある。 → 超優秀で人柄が良い若い研究者がネカトする | 白楽の研究者倫理
《4》白楽の人生が曲がるキッカケ
1980年秋、米国細胞生物学会がシンシナティ市で開催された。
その年の3月、白楽は、人生初の飛行機に乗り、成田から初めての海外で、NIH・国立がん研究所・分子生物学部のポスドクになった。
その7~8か月後、白楽は初めて、米国の学会に参加した。米国細胞生物学会である。
ワシントンDC郊外から自分で車を運転し、妻と2人、途中、モーテルに飛び込み宿泊をしながら(当時、予約なし宿泊が多かった)、はじめての長距離ドライブ(約900km)で、シンシナティ市についた。
当時、白楽は米国・NIH・国立がん研究所でがん細胞とフィブロネクチンの研究をしていた。
スペクターは翌年の「1981年6月のJ Biol Chem」論文で、フィブロネクチンががん細胞にカルシウム流入とタンパク質リン酸化を引き起こすと発表した。
- Stimulation of Ca2+ uptake and protein phosphorylation in tumor cells by fibronectin.
Rephaeli A, Spector M, Racker E.
J Biol Chem. 1981 Jun 25;256(12):6069-74.
「1981年6月のJ Biol Chem」論文の発表前から、白楽は研究でスペクターと競合すると踏んでいた。それで、スペクターに強い関心があった。
米国の学会は、学会員の研究発表だけでなく、地元民へのサービス・イベントがある。その1つに、地元の高校生に細胞生物学の魅力を熱く語る会があった。多数の高校生が、バスを連ねて、先生に引率されやってきていた。
シンシナティ出身のマーク・スペクターは大きな会場を埋め尽くす約2,000人ほどの高校生を相手に、細胞生物学の魅力を語った。白楽は、その会場で、講演を拝聴した。当時、天才の誉れ高いマーク・スペクターを目の当たりにしたのである。
1年も経たない翌1981年夏、マーク・スペクターは全米の生化学・細胞生物学・がん研究界の大事件の主役になった。
当時、米国・NIH・国立がん研究所で、がんの細胞生物学を研究していた白楽が、マーク・スペクター事件を日本に最初に伝えたと思う。
1981年夏、日本の細胞生物学者・石川春律先生(いしかわ はるのり、2008年9月23日没、記事1:保存版、記事2:保存版、写真出典:保存版)から、がんの細胞生物学に関するNIH ・国立がん研究所での研究を、雑誌「生体の科学」の記事にするよう依頼された。
その時、スペクター事件が勃発した。
それで、「がんの細胞生物学に関するNIH での研究」の代わりに、大スキャンダルとなっていたスペクター事件のことを、勝手に書いて、原稿を送った。
当時、国際郵便だったので日米間のやり取りは、早くて往復2週間、普通は3週間かかった。
それで、事前に了承を得るより、原稿を送ってしまえとばかりに、原稿依頼を受けた日の週末に執筆し、妻に清書してもらい、説明の手紙をつけて、石川春律先生に送付した。
石川春律先生は以前から白楽に好意的だったが、真面目な先生である。
がんの細胞生物学に関する記事ではなく、スキャンダル話だったので、苦笑しつつも(後日談)、原稿の過激な部分を削除し、すぐに掲載してくれた。
それが、「生体の科学」1981年10月号の「リン酸化カスケード仮説の真偽」(p463~466)である。(生体の科学 スペクター事件 32(5)、463-466)
後年、1995年にバイオ政治学を提唱した白楽だが、この事件がキッカケで、研究者の事件(研究規範・倫理)に大きく関与するようになったのである。
エフレイム・ラッカー教授(Efraim Racker)(左)とマーク・スペクター(Mark Spector)(右)。https://faseb.onlinelibrary.wiley.com/doi/full/10.1096/fj.16-0401ufm、保存版
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日本の人口は、移民を受け入れなければ、試算では、2100年に現在の7~8割減の3000万人になるとの話だ。国・社会を動かす人間も7~8割減る。現状の日本は、科学技術が衰退し、かつ人間の質が劣化している。スポーツ、観光、娯楽を過度に追及する日本の現状は衰退を早め、ギリシャ化を促進する。今、科学技術と教育を基幹にし、人口減少に見合う堅実・健全で成熟した良質の人間社会を再構築するよう転換すべきだ。公正・誠実(integrity)・透明・説明責任も徹底する。そういう人物を昇進させ、社会のリーダーに据える。また、人類福祉の観点から、人口過多の発展途上国から、適度な人数の移民を受け入れる。
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●9.【主要情報源】
① ◎2013年7月2日、ヴォルカー・ヴォークト(Volker M. Vogt)の 「A giant scientific breakthrough that turned out to be a fraud」。ココ、または ecommons.library.cornell.edu。
② 1981年9月10日の「NYTimes」の記事:PROFESSORS TO CHECK QUESTIONED FINDINGS OF A CORNELL STUDENT – NYTimes.com
③ 1982年の Broad, William, Wade, Nicholas著の本『Betrayers of the Truth』Amazon.com:
④「New Scientist」の記事:New Scientist – Google ブックス
★記事中の画像は、出典を記載していない場合も白楽の作品ではありません。
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