●【概略】
ウィリアム・サマリン(William T. Summerlin 写真出典)は米国・スローン・ケタリング記念癌研究所の研究員・医師である。専門は免疫学で皮膚移植の研究を行なっていた。なお、日本ではサマーリンと表記することが多いが、英語ではサマリンと発音するので、ここでは、サマリンとした。
1974年にデータねつ造が発覚した。事件当時、既婚で3人の男子の父だった。
以下はウィキペディアの引用
サマリン事件とは、1974年、ニューヨークのスローン・ケタリング記念癌研究所で勤務するウィリアム・サマリン(William Summerlin、博士)が、自分が行なっている皮膚移植の実験がうまくいっていないにもかかわらず、白いネズミの体の一部を黒色のマーカーペンで塗り、あたかも黒い皮膚の移植がされ、それが成功したかのように見せかけたこと、およびそれが発覚し事件となったこと。(サマリン事件 – Wikipedia)
白色マウスに黒色の毛の例(サマリンのマウスそのものではない、The Patchwork Mouse 2 by MouseSneezes on deviantART)
スローン・ケタリング記念癌研究センター(Memorial Sloan Kettering Cancer Center)、 写真出典
- 国:米国
- 成長国:米国
- 博士号取得:
- 男女:男性
- 生年月日:1938年x月x日
- 現在の年齢:85 (+1)歳
- 分野:免疫学
- 最初の不正論文発表:
- 発覚年:1974年(35歳)
- 発覚時地位:スローン・ケタリング記念癌研究センター(Memorial Sloan Kettering Cancer Center)の研究員
- 発覚:内部
- 調査:内部
- 不正:ねつ造
- 不正論文数:?報。撤回論文なし
- 時期:研究キャリアの初期から
- 結末:辞職
★動画。科学ライター・ラルフ・W・モス(Ralph W. Moss, PhD)の語る「Summerlin Mouse Affair” – Clip from “Second Opinion: Laetrile At Sloan-Kettering」、(英語)3分20秒、Second Opinion Documentaryが2014/02/19 に公開:https://www.youtube.com/watch?v=6MCx0P-KPX8#t=13(2020年11月17日現在、削除されている)
★動画。科学ライター・エリック・メローラ(Eric Merola)の語る「Summerlin Mouse Affair | Second Opinion by Eric Merola | Movie Clip」、(英語)3分20秒、 Eric Merola Documentary Filmsが2020/10/13 に公開
●【経歴と経過】
経歴出典
- 1938年x月x日:米国で生まれる
- 1961年?(22歳?):米国・ジョージア州アトランタのエモリー大学(Emory University)・学士号(哲学と生物学)
- 1965年?(26歳?):米国・エモリー大学(Emory University)・医師免許
- 1965‐1966年(26‐27歳):テキサス州のブルック陸軍医学センター(Brooke Army Medical Center in San Antonio)・火傷研究室で医療をする
- 1966?‐1968年(27‐29歳):テキサス医科大学(University of Texas Medical Branch at Galveston)、Army Medical Corpsで医療をする
- 1968年(29歳):スタンフォード大学医学センター(Stanford University Medical Center)・マーヴィン・カラセク(Marvin Karasek)研究室のフェローシップになり、皮膚科学、病理学、がん外科学を学ぶ。
- 1971年(32歳):スタンフォード大学医学センター(Stanford University Medical Center)・皮膚科長(Director of the Dermatology Clinic)。
- 1972年(33歳):スタンフォード大学関連病院のパロ・アルト・ヴェテラン管理病院(Palo Alto Veterans Administration Hospital)・皮膚科部長(Head of Dermatology)。
- 1973年(34歳):ミネソタ大学(University of Minnesota)のロバート・グッド(Robert A. Good)教授のもとで研究フェローシップになる。
- 1973年(34歳):ボスのロバート・グッドがミネソタ大学からスローン・ケタリング記念癌研究センター(Memorial Sloan Kettering Cancer Center)に移籍するのに伴い、移籍し研究員になる。
- 1974年(35歳):不正研究が発覚する
- 19xx年(xx歳):スローン・ケタリング記念癌研究センターを退職する
- 1987年(49歳)以降:アーカンソー州北西部で私設医院であるサマリン皮膚科医院・院長
●【研究内容】
写真出典
皮膚や臓器の移植は、供与者と受容者が同じ個体なら可能だが、同じ動物種でも個体が違えば拒絶反応が起こる。免疫系が作動するからである。だから、ヒトの臓器移植では、免疫的に近いヒトを選ぶ。さらに、免疫系の作動を抑える免疫抑制剤を使用する。
免疫抑制剤は、全部の免疫作用を弱める。それで、移植の大きなリスクは感染症にかかりやすいことだった。
世界大百科事典【臓器移植】より
…移植には,臓器の供与者(提供者またはドナーdonor)と受容者(もらい手またはレシピエントrecipient)がいる。両者が同じ生体,たとえば自分の皮膚を自分の他の部に移植することを〈自家移植〉,両者の遺伝子が同じ場合,たとえば一卵性双生児や純系マウス間の移植を〈同系移植〉,同じ種間の移植,たとえばヒトとヒト,イヌとイヌ間の移植を〈同種移植〉,異種間,たとえばヒトとチンパンジー間の移植を〈異種移植〉という。 自家移植と同系移植は外科手技が成功すれば,移植も成功するが,同種移植や異種移植では,移植臓器に拒絶反応が生ずる。…(出典:異種移植(イシュイショク)とは – コトバンク)
サマリンは、皮膚科医で、皮膚を用いて同種移植や異種移植の研究をしていた。難問は、上記のように、免疫系の拒絶反応により、移植した皮膚が生着せずに剥がれってしまう点である。それを抑えようと免疫抑制剤を使用すれば、実験動物(ヒトなら患者)が感染症で死亡する。
1968年(29歳)、サマリンは、スタンフォード大学でこの点を克服する方法を発見した。移植する皮膚を数週間、特殊な液で培養することで、拒絶反応する性質をなくすという方法である(実際は不可。現在もできていない)。
特殊な液で培養することからサマリンの「器官培養理論」、あるいは、「サマリン理論」と呼ぶ。
サマリンが、スタンフォード大学の皮膚生化学者マーヴィン・カラセク(Marvin Karasek、写真同)研究室で研究した時に実験が成功し、提唱した理論だが、カラセクは実験の成功に対して、別の解釈(以下)をしている。
移植する皮膚を数週間培養すると、生きた細胞が死滅し、抜け殻が残る。この抜け殻を皮膚として移植すると、受容者の皮膚細胞が抜け殻の中で繁殖し皮膚が再生される。抜け殻は受容者の免疫系を刺激しない。これなら、確かに、現代の免疫学と矛盾しないと思われる。
●【不正発覚の経緯】
★カリスマ学者・グッドの庇護下のサマリン
1974年(35歳)、ウィリアム・サマリン(William Summerlin、ビリー・サマリン)は、ニューヨークの著名な病院であるスローン・ケタリング記念癌研究センター(Memorial Sloan Kettering Cancer Center)の研究員だった。
ボスのロバート・グッド(52歳、Robert A. Good, MD, PhD、ボブ・グッド 写真出典)は、センターの一部であるスローン・ケタリング研究所(Sloan Kettering Institute)の所長に就任したばかりである(在位期間:1973–1980年)。
グッドは、既に、タイム誌(1973年3月19日号)の表紙を飾るなど、免疫学の分野で著名だった。ノーベル賞受賞候補者の1人でもあった(出典)。
サマリンは、人柄や容姿が人に好かれ、ハキハキと話す研究員である。グッドのお気に入りで、皮膚移植での優れた業績があったので、研究員とは言え、教授レベルの待遇だった。
★実験助手がねつ造を発見
サマリンは、スタンフォード大学で研究した1968年(29歳)以来、移植する皮膚を数週間、特殊な液で培養することで、免疫拒絶反応をなくす「器官培養理論」を提唱していた。
1973年(34歳)、しかし、多くの研究室で再現できないとクレームが寄せられ、政府の研究費審査委員も「器官培養理論」に懐疑的な状況だった。それなりに対応しないと申請研究費が採択されない。
写真:サマリン(右)、出典:The New York Times、Kodėl mokslininkai sukčiauja? – DELFI Gyvenimas。
グッドは、この危機を乗り切る方策を1974年3月26日、午前7:00にサマリンと相談する設定をした。
サマリンは、その前夜、研究所に宿泊した。
サマリンは、朝5時、会議の2時間前に目を覚ました。朝食を済ませ、身だしなみを整えた。
午前7時の少し前、18匹のマウスを入れたケージを台車に載せて、グッドのオフィスに向かった。移植実験で、白いマウスに黒いマウスの皮膚を移植したが、皮膚の器官培養に伴い色素が落ちて、移植部分が黒色ではなく灰色になっていた。
エレベーターに乗り、その灰色の移植部分を眺めているうちに、衝動的に、白衣のポケットから黒のフェルトペンを取り出し、2匹のマウスの灰色の移植部分を黒く塗った。後で聞いても、どうしてそんなことをしたのか、サマリンは説明できないと述べている。
グッドとの会談が始まった。皮膚移植では、グッドはマウスをチラッと見ただけだった。相談の中心は、グッド研究室の共同研究者だった微生物学者・ジョン・ニネマン(John L. Ninnemann)のレポートだった。
ニネマンのレポートには、サマリンの研究結果を再現できないと書いてある。ニネマンは、サマリンの研究結果を再現できず、1974年1月にサマリンとの共同研究を辞めていた。
サマリンは、ニネマンが再現実験ができそうだったのに完成しないで、途中で止めてしまったと不満を述べた。途中で止めたので、1973年7月に出版した「Transplantation」誌の論文ではニネマンの名前を著者から外した。論文著者から外しても、ニネマンのレポートはサマリンの「器官培養理論」を正面から否定していた。
グッドとの会談が終わり、サマリンは18匹のマウスを入れたケージを台車に載せて、研究室に戻った。
実験室で実験作業をしていたサマリンの実験助手・ジェームス・マーチン(James Martin)は、サマリンが戻したマウスの皮膚に、ヘンな黒い色(キズ?)があること気がついた。なんだろうと思って、アルコール綿で拭うと消えた。アルコール綿に黒いフェルトペンの色がついた。マウス写真出典
マーチンは、事の重大さに身が震えた。
上司・サマリンがマウス皮膚のデータをねつ造したかもしれない。
マーチンは、スローン・ケタリング研究所の別の研究者・ジョン・ラーフ(John H. Raaf)に相談した。33歳のラーフは、ハーバード大学出身で、研究博士号(Ph.D.)と医師免許(M.D.)をもち、サマリンより基礎医学の研究経験が豊富だった。ラーフも、サマリンの「器官培養理論」に基づいてラットの副甲状腺移植実験を試みていたが、失敗に終わっていた。
ラーフはマーチンの話を聞き、マウスを確かめ、それが事実だとわかると、事態をすぐにグッドに伝えた。グッドは、すぐにサマリンを呼び戻し、問いただした。すると、サマリンはすぐに「やりました」と告白した。
というのは、サマリンは、自分がとてもヘンなことをしたと、急に思い至り、グッドに伝えようと戻るところだったと、後に、彼自身が述べている。
★事件後の処理
1974年3月末~4月初旬(35歳)、グッドは、スローン・ケタリング研究所に27年勤める64歳のチェスター・ストック(C. Chester Stock)を委員長とする調査委員会を設け、サマリンの調査を始めた。
研究所は、事件を公式発表しなかったが、噂となり、話しが漏れた。
1974年4月15日(35歳)、事件の詳細が、ニューヨーク・ポスト紙の記事となり、世間に周知された。世間とマスメディアは大騒ぎとなった。
スローン・ケタリング研究所は、当初、事態をさほど深刻にとらえていなかった。調査委員会の委員名も公表していた。そのことで、委員は全員、スローン・ケタリング研究所員だとわかり、後に、グッドを守りサマリンを解雇する委員会だと非難を浴びた。
調査委員会は、調査結果を発表し、グッドを完全にシロと結論した。但し、彼のサマリンへの不適切な監督行為などをたしなめた。
サマリンのマウスを塗った行為が単発なら、調査委員会は、サマリンに辞職勧告をしなかったかもしれない。
しかし、調査を進めると、サマリンに別のデータねつ造が見つかってきた。
この1月(1974年)以降、サマリンの共同研究者が、「器官培養理論」に基づいてヒトの角膜をウサギの眼に移植することに成功していた。スローン・ケタリング研究所の向かいにあるコーネル大学医学部・ニューヨーク病院の眼科で、「器官培養理論」に基づいた実験をしていたのである。
サマリンは、ウサギの透明な眼と濁った眼を見せて、「器官培養理論」が正しいと主張していた。透明な眼は器官培養の後に移植した例で、移植の成功例として示し、濁った眼は、器官培養しないで移植した例で、移植の失敗例としていた。しかし、どうやら、データねつ造があったらしい。
1974年6月(35歳)、サマリンは、自分の正当性を主張し、自分に責任がないとするレポートを詳細に書く作業に追われた。しかし、いくつもの矛盾と説明できない事項が多数あった。
1974年7月(35歳)、サマリンは、ウサギの眼の移植実験に間違いがあったと認めた。最初計画したように両眼に移植していたと思っていた。しかし、ニネマンとラーフがウソをついていたと非難した。自分は実験の正確な状況を伝えてもらていなかった、と。
1974年10月(35歳)、サマリンは、実際は、移植したのは濁った眼だけで、透明な眼にはなにも移植していなかった、と述べたのである。
サマリンは、有給(年俸40,000ドル=約400万円)の病気休職扱いになった。コネチカット州デリエン(Darien)に妻と3人の息子とともに移住した。サマリンは、この出来事で深く傷つき、メディアにはもう答えたくないとメディアに対応している。
スローン・ケタリング研究所を傘下におくスローン・ケタリング記念癌研究センターのセンター長・ルイス・トーマス(Lewis Thomas)は、「サマリンは、深刻な情緒障害だ」と述べている。
★昔の悪評が露呈する
テキサス州のブルック陸軍医学センター(Brooke Army Medical Center in San Antonio)、写真出典
サマリンは、エモリー大学(Emory University)で医師免許を取得したあと、1965‐1966年(26‐27歳)にテキサス州のブルック陸軍医学センター(Brooke Army Medical Center)・火傷研究室で研究している。
公式な不正研究記録はないが、サマリンについて、ここで、いくつかの問題行動が申し立てられていた。
著名な研究雑誌「JAMA(The Journal of the American Medical Association、ジャーナル・オブ・ジ・アメリカン・メディカル・アソシエーション)」の1974年9月9日号(229(11):1391-1410. doi:10.1001/jama.1974.03230490001001)に、次のような記述があるそうだ(有料記事:白楽は原典を読んでいない)。
サマリンの同僚は「サマリンは、人物として未熟で、自分に問題を抱えていた」と述べている。他の同僚は、「サマリンは、問題児で他のスタッフの邪魔だから、火傷・トラウマ班から出ていってもらった」と述べている。
サマリンは、成績が悪く、プロトコールを変え、しばしば自己矛盾に陥っていた。1人で仕事していればすべて上手くいくが、集団で仕事すると何も進まなかった。だから、信用されなかった。
皮肉なことに、同じJAMA誌は、1年8か月前の1973年1月(doi:10.1001/jama.1973.03220030003002)、「サマリンは移植研究で革命的なスバラシイ発見をした」と記述している。
●【論文数と撤回論文】
パブメドで、ウィリアム・サマリン(William T. Summerlin)の論文を「Summerlin WT[Author]」で検索すると、1966年~1979年の14年間の11論文がヒットした。
2015年1月10日現在、撤回論文はないが、以下の2論文は、論文タイトルから推察してねつ造データ論文のように思える。
- Allogeneic transplantation of organ cultures of adult human skin.
Summerlin WT.
Clin Immunol Immunopathol. 1973 Apr;1(3):372-84. No abstract available. - Acceptance of phenotypically differing cultured skin in man and mice.
Summerlin WT, Broutbar C, Foanes RB, Payne R, Stutman O, Hayflick L, Good RA.
Transplant Proc. 1973 Mar;5(1):707-10. No abstract available.
●【事件の深堀】
★ジョン・ニネマン(John L. Ninnemann)
1974年頃、サマリンのねつ造を公益通報したジョン・ニネマン(John L. Ninnemann)は、その後、ユタ大学(~1983年)、カリフォルニア大学サンディエゴ校(1984~1988年)の教授(推定)になった。
20年後の1994年、驚いたことに、ニネマン自身が、米国・研究公正局の調査で不正研究(改ざん)で「クロ」と結論された(NIH Guide: FINDINGS OF SCIENTIFIC MISCONDUCT)。偶然なのか、必然なのか? かわっためぐりあわせだ。
1978~1987年の5論文を撤回し、4論文を訂正している。
20年前、若い時に過ごした研究室の不正研究の環境に染まってしまったのか? もともと、そういう人だったのか?
●【白楽の感想】
《1》 悪いのは、弟子かボスか
マーク・スペクターにラッカー、シェーン(物理学)にバトログ、そして今回のサマリンにグッド、どれも後者は前者の上司(指導教員)であり、その分野のカリスマ研究者だ。ノーベル賞に手が届く人たちである。学術界の重鎮なので、周囲は異論をはさみにくい。
そういう環境で、ねつ造が起こる。日本の小保方晴子も同様だ。
この場合、悪いのは必ず弟子とされてきた。行政機関、研究機関の上層部、調査員はボス側人間である。ボスを守ろうとする。
ボスの方が処世術がうまい。
ボスは弟子の研究をコントロールできるが、弟子はボスをコントロールできない。
実行犯が弟子としても、上記のような状況・環境要因を勘案すれば、本当に処分されるべきなのはボスではないだろうか?
●【主要情報源】
① ◎1974年11月30日のバーバラ・ユンカー(Barbara Yuncker)の記事「The Strange Case of the Painted Mice」:“The Strange Case of the Painted Mice”, by Barbara Yuncker, The Saturday Review, November 30, 1974, pp. 50-53
② (未読)1976年の著書(日本語訳版なし)(右の表紙)。Joseph R Hixson著:「The patchwork mouse」、228 pages、 Anchor Press、ISBN-10:0385028520、ISBN-13:978-0385028523