スーザン・アロニカ(Susan Aronica)(米)

2019年11月2日掲載 

ワンポイント:2006年4月4日(39歳?)、研究公正局は、インディアナ大学パデュー大学インディアナポリス校(Indiana University-Purdue University Indianapolis)・ポスドクだったアロニカの2報の発表論文、1つの投稿原稿、実験ノートにねつ造・改ざんがあったと発表し、2006年2月10日から①5年間の締め出し処分を科した。推定だが、ボスのハル・ブロックメイヤー教授(Hal E. Broxmeyer)が、データねつ造・改ざんに気が付いて大学に通報したと思われる。研究公正局が正式にクロと発表した9年前の1997年(30歳?)、研究公正局はネカト調査を終了し、アロニカをクロと判定していた。しかし、アロニカは調査結果に不服で、②行政不服審査(Departmental Appeals Board)を要請した。行政不服審査に9年かかったために、研究公正局の正式発表は2006年4月4日(39歳?)になった。なお、③アロニカは研究者として生き残り、後にカニシアス大学(Canisius College)・教授・学科長になった。ただ、2016年2月9日、まだ49歳(?)だったのに、心臓が原因で突然死した。国民の損害額(推定)は2億円(大雑把)。事件の特徴は①、②、③である。

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目次(クリックすると内部リンク先に飛びます)
1.概略
2.経歴と経過
3.動画
4.日本語の解説

5.不正発覚の経緯と内容
6.論文数と撤回論文とパブピア
7.白楽の感想
8.白楽の手紙
9.主要情報源
10.コメント
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●1.【概略】

スーザン・アロニカ(Susan M. Aronica、ORCID iD:、写真は事件の約20年後、出典)は、当時、米国のインディアナ大学パデュー大学インディアナポリス校(Indiana University-Purdue University Indianapolis)・ポスドクだった。医師ではない。専門は血液学である。

1997年(30歳?)、推定だが、ボスのハル・ブロックメイヤー教授(Hal E. Broxmeyer)が、アロニカのデータねつ造・改ざんに気が付いて大学に通報した。

1997年(30歳?)、インディアナ大学パデュー大学インディアナポリス校はネカト調査し、研究公正局にアロニカがクロと伝えた。そのネカト調査報告書を基に研究公正局も調査を終了し、アロニカをクロと判定し、アロニカに通知した。

ところが、アロニカは調査結果に不服で、行政不服審査(Departmental Appeals Board)を要請した。

その行政不服審査に9年もかかった。

2006年4月4日(39歳?)、行政不服審査で研究公正局の結論が正しいとされ、研究公正局は、アロニカの2報の発表論文、1つの投稿原稿、実験ノートのデータにねつ造・改ざんがあったと発表し、2006年2月10日から、5年間の締め出し処分を科した。

なお、その後の経緯は不明だが、アロニカは研究者として生き残り、後にカニシアス大学(Canisius College)・教授・学科長になった。

2016年2月9日、まだ49歳(?)だったのに、アロニカは心臓が原因で突然死した。
 → Obituary of Susan M. Aronica | Lombardo Funeral Home

アロニカ事件の特徴は、①5年間の締め出し処分、②行政不服審査(Departmental Appeals Board)の要請、③研究者として生き残ったこと、である。

インディアナ大学パデュー大学インディアナポリス校(Indiana University-Purdue University Indianapolis)。写真出典

  • 国:米国
  • 成長国:米国
  • 医師免許(MD)取得:なし
  • 研究博士号(PhD)取得:イリノイ大学アーバナシャンペーン校
  • 男女:女性
  • 生年月日:不明。仮に1967年1月1日生まれとする。1994年に研究博士号(PhD)を取得した時を27歳とした
  • 現在の年齢:57 歳?
  • 分野:血液学
  • 最初の不正論文発表:1995年(28歳?)
  • 不正論文発表:1995-1997年(28-30歳?)
  • 発覚年:1997年(30歳?)
  • 発覚時地位:インディアナ大学パデュー大学インディアナポリス校・ポスドク
  • ステップ1(発覚):第一次追及者は推定だが、ボスのハル・ブロックメイヤー教授(Hal E. Broxmeyer)が、アロニカのデータねつ造・改ざんに気が付いて大学に通報
  • ステップ2(メディア):
  • ステップ3(調査・処分、当局:オーソリティ):①インディアナ大学パデュー大学インディアナポリス校・調査委員会。②研究公正局。③行政不服審査。
  • 大学・調査報告書のウェブ上での公表:なし
  • 大学の透明性:研究公正局でクロ判定(〇)
  • 不正:ねつ造・改ざん
  • 不正論文数:2発表論文、1投稿原稿、実験ノート
  • 時期:研究キャリアの初期から
  • 職:事件後に研究職を続けた(〇)
  • 処分: NIHから5年間の締め出し処分
  • 日本人の弟子・友人:不明

【国民の損害額】
国民の損害額:総額(推定)は2億円(大雑把)。

●2.【経歴と経過】

  • 生年月日:不明。仮に1967年1月1日生まれとする。1994年に研究博士号(PhD)を取得した時を27歳とした
  • 19xx年(xx歳): xx大学(xx)で学士号取得
  • 1994年(27歳?)頃:イリノイ大学アーバナシャンペーン校(University of Illinois at Urbana-Champaign)で研究博士号(PhD)を取得:生理学、指導教授はベニタ・カッツェネレンボーゲン(Benita Katzenellenbogen – Wikipedia
  • 1994年(27歳?)頃:インディアナ大学パデュー大学インディアナポリス校(Indiana University-Purdue University Indianapolis)(略称は「IUPUI」(アイユーピーユーアイ))・ポスドク。ボスはハル・ブロックメイヤー教授(Hal E. Broxmeyer)
  • 1995年(28歳?):後で問題視される「1995年のJ Biol Chem.」論文を発表
  • 1997年(30歳?):ネカト発覚
  • 1997年(30歳?):研究公正局のネカト通知に不服で、上訴
  • 1999年(32歳?)頃:カニシアス大学(Canisius College)・教員、後に教授・学科長
  • 2006年2月10日(39歳?):研究公正局の勝訴
  • 2016年2月9日(49歳?):心臓が原因で突然死

●5.【不正発覚の経緯と内容】

★発覚の経緯

1994年(27歳?)頃、スーザン・アロニカ(Susan M. Aronica)はイリノイ大学アーバナシャンペーン校(University of Illinois at Urbana-Champaign)で研究博士号(PhD)を取得し、インディアナ大学パデュー大学インディアナポリス校(Indiana University-Purdue University Indianapolis)(略称は「IUPUI」(アイユーピーユーアイ))のポスドクになった。ボスはハル・ブロックメイヤー教授(Hal E. Broxmeyer、写真出典)だった。

アロニカの研究は以下のNIH研究費で助成されていた。

  • RO1 HL49202, “Myeloid Regulation by Growth-Suppressing Cytokines.”
  • R01 HL54037, “Stem Cell Transduction of SLF/FLT-3-Ligand Genes by AAV.”
  • R01 HL56416, “Mechanisms of Synergistic Regulation of Stem/Progenitors.”
  • T32 DK07519, “Regulation of Hematopoietic Cell Production.”

アロニカはポスドクとして「1995年のJ Biol Chem.」論文、「1996年のCurr Opin Hematol.」論文を第一著者で出版した。また、「1997年のExp Hematol.」論文と「1997年のStem Cells.」論文を共著で、「1997年のBlood」論文を第一著者で出版した。3年間、毎年1報第一著者で論文出版し、共著論文含めると3年間で5報出版した。ポスドクとして優秀な研究成果を挙げていたように思えた。

ところが、その順調だったポスドク3年目の1997年、ネカトが発覚した。

発覚の経緯は不明である。しかし、1997年8月4日に学術誌「Blood」に投稿した論文原稿の図にねつ造・改ざんがあると結論された。従って、当時の研究室内の誰かが告発したハズである。最も可能性が高いのが、ボスのブロックメイヤー教授である。ここでは、告発者(第一追求者)をブロックメイヤー教授としておく。

★研究公正局

1997年(30歳?)、研究公正局はインディアナ大学パデュー大学インディアナポリス校(Indiana University-Purdue University Indianapolis)の調査結果に基づき、自分たちの調査を加え、アロニカが、「1995年のJ Biol Chem.」論文と「1997年のBlood」論文の17枚の図、「1997年のBlood」投稿原稿中の2枚の図、実験ノートのデータ、を故意にねつ造・改ざんしたと結論した。

★行政不服審査(Departmental Appeals Board)

研究公正局は、上記のネカト行為の調査結果をアロニカに通知した。ところが、アロニカはその結果を承服しなかった。そして、行政不服審査(Departmental Appeals Board)を要請し、調査結果に異議申し立てをした。もちろん、行政不服審査を要請する権利はある。そしてその要請も正当である。だが、要請は珍しい。

研究公正局としては、1997年に調査が終了し、アロニカ事件はほぼ決着したと思っていたのに、行政不服審査(Departmental Appeals Board)である。

研究公正局は、異議申し立てを却下する要望書(Motion to Dismiss)を提出した。

2006年4月4日(39歳?)、結局、9年の年月がかかったが、行政法裁判官(ALJ)は、研究公正局の結論が正しいとし、アロニカの訴えを却下した。

行政不服審査では再審要請に必要な事項が示されている。再審では、ネカトの各行為について、それぞれを認める又は拒否する必要があり、拒否する場合、詳細かつ実質的な理由が必要である。

ところが、アロニカは、具体的な否認理由を示さず、調査結果の一般的な否認しかしなかった。連邦政府のネカト規則(42 CFR 93.503)は、一般的な否認だけでは調査結果の異議申し立てを認めるには不十分だと述べている。ネカト規則(42 CFR 93.503)はまた、再審要請者がネカト行為に関する事実と法律資料に関する真正な紛争を提起しない場合、行政法裁判官(ALJ)は、再審要請を却下しなければならないと定めている。アロニカはネカト疑惑を特に否定しなかったため、行政法裁判官(ALJ)は、真の審理にならないと判断し、アロニカの訴えを却下した。

2006年4月4日(39歳?)、行政不服審査の結論を受け、研究公正局はアロニカのねつ造・改ざんを正式に発表した。締め出し処分としてはいくぶん重い5年間(2006年2月10日から)を科した。

そして、2006年2月10日から60日以内に、「1995年のJ Biol Chem.」論文と「1997年のBlood」論文を撤回するよう学術誌に伝えるよう要請した。

【ねつ造・改ざんの具体例】

研究公正局は、アロニカが、「1995年のJ Biol Chem.」論文と「1997年のBlood」論文の17枚の図、「1997年のBlood」投稿原稿中の2枚の図、実験ノートのデータ、を故意にねつ造・改ざんしたと結論した。

投稿原稿中の図や実験ノートのデータは、第三者がアクセスできないので、検証できない。それで、「1995年のJ Biol Chem.」論文と「1997年のBlood」論文を検証しよう。

★「1995年のJ Biol Chem.」論文

「1995年のJ Biol Chem.」論文の書誌情報を以下に示す。2006年に研究公正局の指示では「論文撤回を要請せよ」と指示しているが、2006年6月に訂正しただけで、2019年11月1日現在、撤回されていない。

研究公正局は図1、2、3、4、5A、5B、5C、6A、6B、表III、表IVがねつ造・改ざんと結論した。しかし、どの部分がどのようにねつ造・改ざんされたのか記述がない。パブピアにも記述がない。それにしても、これだけの図表をねつ造・改ざんしたということは、論文データのほぼ全部近いのではないでしょうか。

図1(出典は原著)を以下に示すが、数値のグラフである。このようなデータのねつ造・改ざんを検知できるのは、生データを知りえる共同研究者しかいない。

図2(出典は原著)。数値のグラフである。図1と同じで、生データを知りえる共同研究者しかねつ造・改ざんを知りえない。

図5A、5B、5C(出典は原著)を以下に示す。電気泳動バンドもねつ造・改ざんしていた。しかし、どの部分がネカトなのか、パット見にわからない。1995年当時、パソコンで図の加工をする技術が研究室にあったどうか? 調べると、アドビ社のフォトショップ初版は1990年に発売だから、多分、あったでしょう。

★「1997年のBlood」論文

「1997年のBlood」論文の書誌情報を以下に示す。2006年の研究公正局の指示通り、2006年6月15日、撤回された。ただ、アロニカは撤回に同意していない。
 → 撤回公告:Erratum for vol. 89, p. 3582 | Blood | American Society of Hematology

研究公正局は図1(両方のパネル)、3A、3B、3D、3E、4A、8Aがねつ造・改ざんと結論した。しかし、どの部分がどのようにねつ造・改ざんされたのか記述がない。パブピアにも記述がない。

「1997年のBlood」論文は閲覧有料なので、白楽は閲覧しなかった。

●6.【論文数と撤回論文とパブピア】

★パブメド(PubMed)

2019年11月1日現在、パブメド(PubMed)で、スーザン・アロニカ(Susan M. Aronica)の論文を「Susan M. Aronica [Author]」で検索した。この検索方法だと、2002年以降の論文がヒットするが、2003~2015年の13年間の5論文がヒットした。

「Aronica SM[Author]」で検索すると、1991~2015年の25年間の17論文がヒットした。

2019年11月1日現在、「Aronica SM[Author] AND Retracted」でパブメドの論文撤回リストを検索すると、1論文「1997年のBlood」が9年後の2006年6月に撤回されていた。

★撤回論文データベース

2019年11月1日現在、「撤回監視(Retraction Watch)」の撤回論文データベースでスーザン・アロニカ(Susan M. Aronica)を「Aronica, Susan M」で検索すると、上記と同じ「1997年のBlood」1論文がヒットし、1論文が撤回されていた。Retraction Watch Databaseの上右「Nature of Notice」の右にチェックを入れ、「Retraction」にすると、撤回論文(数)が表示される。

★パブピア(PubPeer)

2019年11月1日現在、「パブピア(PubPeer)」では、スーザン・アロニカ(Susan M. Aronica)の論文のコメントを「Susan M. Aronica」で検索すると「1995年のJBC」1論文にコメントがあり、「S M Aronica」で検索すると上記以外の2論文にコメントがあった(正確には3論文だが、内1論文は別の人)。

●7.【白楽の感想】

《1》事件の特徴 

アロニカ事件の特徴は、①5年間の締め出し処分、②行政不服審査(Departmental Appeals Board)の要請、③研究者として生き残ったこと、である。

① 5年間の締め出し処分
 → 「研究公正局の締め出し年数」ランキング | 研究者倫理

「1995年のJ Biol Chem.」論文の図1、2、3、4、5A、5B、5C、6A、6B、表III、表IVがねつ造・改ざんだと研究公正局は結論した。これだけの図表をねつ造・改ざんしたということは、論文発表する際のデータとは加工するものだとアロニカは思い込んでいた気もする。

それなのに結局、行政不服審査(Departmental Appeals Board)の要請をしたり、「1997年のBlood」論文の撤回に同意しなかったり、明白なねつ造・改ざんなのに、アロニカに反省の色がない。

それで、今後、研究者として生かすのは学術界のためにならないと判断され、5年間という重い締め出し処分が科されたのだろう。

《2》研究者として生き残った

アロニカは「1995年のJ Biol Chem.」論文でネカトを犯した。

その前年の1994年にイリノイ大学アーバナシャンペーン校(University of Illinois at Urbana-Champaign)で研究博士号(PhD)を取得している。

従って、かなり高い確度で、博士論文もネカトしていると思われる。しかし、イリノイ大学アーバナシャンペーン校は調査していない。所属大学がネカト調査する現システムの欠陥で、現状では、学術論文の公正は穴ぼこだらけになっている。

《3》研究者として生き残った

5年間という重い締め出し処分を科されたが、どっこい、アロニカは研究者として生き残った。そして、カニシアス大学(Canisius College)・教授・学科長になった。

ネカト事件後、どのような経緯で生き残れたかは不明だが、研究公正局にクロ判定されたのに研究者として生き残れたのは珍しい。
 → 研究ネカト者が研究を続けた | 研究者倫理

ただ、クロと公表された2006年後の論文発表を見ると、2009年、2012年、2015年に各1報と、研究者としての論文生産性はとても低い。教育と大学運営に励んだのだろう。

2016年2月9日(49歳?)、突然死したが、その後、カニシアス大学(Canisius College)はスーザン・アロニカ(Susan Aronica)の名前を冠した「スーザン・アロニカ旅費賞(Susan Aronica Travel Award)」を設立し、院生が研究発表する時の旅費を支援している。
 → Give to Biology | Canisius Giving Day

アロニカの遺言または遺族によって寄付されたお金が基金になっていると思うが、アロニカは、カニシアス大学とその学生たちに愛された教授だったようだ。

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https://canisiusgriffin.wordpress.com/2016/02/14/sudden-death-of-dr-susan-aronica-leads-to-campus-wide-mourning/

●9.【主要情報源】

①  2006年4月4日、研究公正局の報告:NOT-OD-06-059: Findings Of Scientific Misconduct、(保存版)
★記事中の画像は、出典を記載していない場合も白楽の作品ではありません。

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