2021年12月29日
白楽の意図:「真鍮(しんちゅう)のドレークプレート」という日本ではほとんど知る人がいない「悪ふざけが信じられてしまった」物語を知っているだろうか? ケイティ・ダウド(Katie Dowd)の「2021年3月のSFGATE」論文を読んだので、物語風に紹介しよう。
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目次(クリックすると内部リンク先に飛びます)
1.書誌情報と著者
2.日本語の予備解説
3.論文内容
4.関連情報
5.白楽の感想
6.コメント
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【注意】
学術論文ではなくウェブ記事なども、本ブログでは統一的な名称にするために、「論文」と書いている。
「論文を読んで」は、全文翻訳ではありません。ポイントのみの紹介で、理解しやすいように白楽が色々加え、さらに、白楽の色に染め直してあります。
研究者レベルの人で、元論文を引用するなら、自分で原著論文を読んだ方がいいと思う。
●1.【書誌情報と著者】
★書誌情報
- 論文名:This ‘treasure’ rewrote California history. It was an elaborate hoax.
日本語訳:この「宝物」はカリフォルニアの歴史を書き直した。それは手の込んだデマだった - 著者:Katie Dowd
- 掲載誌・巻・ページ:SFGATE
- 発行年月日:2021年3月1日
- 指定引用方法:
- DOI:
- ウェブ:https://www.sfgate.com/news/editorspicks/article/drakes-plate-marin-francis-drake-history-15976470.php#
★著者
- 単著者:ケイティ・ダウド(Katie Dowd)
- 紹介:
- 本人イラスト出典:本論文
- ORCID iD:
- 履歴:Katie Dowd | LinkedIn
- 国:米国
- 生年月日:米国。現在の年齢:35 歳?
- 学歴:2011年に米国のカリフォルニア大学バークレー校 (University of California, Berkeley)で学士号(英語学)取得
- 分野:ジャーナリズム
- 論文出版時の所属・地位:2018年7月からSFGATEの編集長
●2.【日本語の予備解説】
英国の海軍提督のフランシス・ドレーク(Sir Francis Drake、1543年頃 ~1596年1月28日、写真同)は、英国人として世界で初めて、地球一周航海に成功した人として知られている。
1579年、ドレークは現在の米国・カリフォルニアの海岸に上陸した。
上陸後、カリフォルニアに上陸した証拠を主張するための文章と日付を刻んだ*真鍮(しんちゅう)の飾り額(プレート)を残した、と言われている。
*真鍮(しんちゅう)=銅と亜鉛の合金で、特に亜鉛が20%以上のものをいう(黄銅 – Wikipedia)。
その飾り額(プレート)は「真鍮のドレークプレート(Drake’s Plate of Brass)」と呼ばれているが、1936年に発見されるまで、357年間、その行方はわからなかった。
1936年に「真鍮のドレークプレート(Drake’s Plate of Brass)」は発見されたのだ。
それ以来、ドレークがカリフォルニアに上陸したことは米国人の常識になり、小学生向けの歴史書にもそのことが記載されていた。
カリフォルニア州民は数世代にわたり、自分たちの州が重要な歴史的出来事の一部であったことを誇りに感じていた。
ドレークが上陸したと言われているカリフォルニアの海岸(fostertravel.com)。出典https://historydaily.org/drakes-plate-a-fabricated-artifact-and-the-story-of-an-out-of-control-prank
●3.【論文内容】
本論文は学術論文ではなくウェブ記事である。本ブログでは統一的な名称にするため論文と書いた。
ーーー論文の本文は以下から開始
●《1》序章
米国・オークランド出身の26歳のデパート店員(男性)であるベイル・シン(Beyrle Shinn)は、物事をポジティブにとらえる人だった。
1936年のある日、ピクニックに行こうと、友達を乗せて米国・西海岸のベイエリアをドライブしていた。すると、彼の車は揺れ始め、道路の小石が当たり、自動車の床板に穴が開いてしまった。
仕方なく車を停めた。サンラファエルの近くだった。
この日は、たまたま天気が良かったので、自宅に帰ってから後で、自分の車に溶接するつもりで、床板の穴をふさぐ手ごろな板がないか、あたりを探した。
サンクエンティン刑務所を見下ろす絶壁の近くで、床板の穴をふさぐのに適当な大きさの平らな金属板を見つけた。有刺鉄線の柵の下から身を乗り出してとった。
シンは、平らな金属板を自宅に持ち帰った。
自宅に帰ると、車に溶接するのに手ごろな別の板を見つけたので、持ち帰った平らな金属板はガレージに放置していた。
それから、平らな金属板のことをすっかり忘れていた。
●《2》起
しばらくして、数人の友人が真鍮のプレートに気がついた。
真鍮のプレートには、奇妙な書き込みがあった。土に固まっていたが、土を洗い除くと、「フランシス・ドレーク」と書いてあるようだった。
1936年にサンラファエルで発見されたドレークのプレート。出典:https://historydaily.org/drakes-plate-a-fabricated-artifact-and-the-story-of-an-out-of-control-prank
友人の一人は、それをカリフォルニア大学バークレー校の歴史家に鑑定してもらうよう、シンにすすめた。
高校中退のデパート店員であるシンは、後で新聞記者に話した時、「歴史は私にとって何の意味もありませんでした」と肩をすくめた。
1937年4月x日、それにもかかわらず、シンは、世界的に著名な米国の歴史学者のハーバート・ボルトン教授に面会できた。
ボルトン教授(Herbert Eugene Bolton、写真同By California Faces: Selections from The Bancroft Library Portrait Collection Bolton, Herbert Eugene, 1870-1953. – Online Archive California, Public Domain)。
そして、シンがボルトン教授に13センチx 20センチの真鍮のプレートを見せたとき、ボルトン教授は目が飛び出るほど驚愕したようだった。
ドレークは自分がその土地を発見したと主張する方法として、航海中のさまざまな上陸地点に真鍮のプレートを残すことを、ボルトン教授は自分の研究を通して、知っていた。
そして、ドレークがカリフォルニアに真鍮のプレートを1つ残した可能性があると予測していた。
そして、友人や学生に「真鍮のドレークプレート(Drake’s Plate of Brass)」の話しを何度もし、誰かがビーチに行くと言った時、ドレークプレートを探すようにいつも頼んでいた。
それで、シンが13センチx 20センチの真鍮のプレートを見せた瞬間、ボルトン教授は、すぐに、長年、人生をかけて捜していたものが、デパート店員の手の上にあると確信したのだ。
ボルトン教授はカリフォルニアの歴史を永遠に変えるものを見つけたと直感した。
「彼は狼狽し、大興奮だった」とシンは後で述べている。
●《3》承
ハーバート・ボルトン教授が「狼狽し、大興奮だった」のは、実は、初めてではない。
1921年、上記の16年前、ボルトン教授はアダム・フィッシャー(Adam Fisher)という人物からスペイン語の古い文書を翻訳してくれないかと頼まれた。
ボルトン教授は、ざっと見た後、100年前にメキシコにひそかに埋蔵された金の場所が詳しく書かれた文書だとフィッシャーに伝えた。
フィッシャーは埋蔵金を見つけたら半分をボルトンに提供するから一緒に探さないかと提案した。
しかし、ボルトンは「私は研究に忙しくて、宝探しをするヒマは有りません」と断った。
数か月後、フィッシャーがメキシコ政府から金の輸出許可を申請したという噂を聞いた。
彼は50トンの金を米国に輸出する許可を申請したのだ。50トンの金は当時でも3600万ドル(約36億円)の価値があった(新聞には7300万ドルとある)。
ボルトン教授は新聞記事を読み、数か月前のスペイン語の埋蔵金文書とフィッシャーのことを鮮明に思い出し、内心「狼狽し、大興奮だった」。
しかし、過去には戻れない。大きな後悔と共に、そのニュースを静かに受け止めた(以下は1921年6月4日ニューヨークタイムズ紙、出典https://www.newspapers.com/clip/11816451/ny-times-jun4-1921-page-13/)。
埋蔵金発見のニュースを「静かに受け止めた」過去があるボルトン教授だったので、「真鍮のドレークプレート(Drake’s Plate of Brass)」の発見に伴うボルトン教授の大興奮と迅速な動きは、彼の歴史学者仲間たちにとって大きな驚きだった。
1937年4月6日、シンのプレートを見た数日後、ボルトン教授は、サンフランシスコのサー・フランシス・ドレーク・ホテル(Sir Francis Drake hotel)に何百人もの人々を集め、カリフォルニアの歴史の中で「最もセンセーショナルな」発見をした、と発表したのだ。
彼はステージに上がり、プレートを高く掲げて言った。
「見よ! ドレークのプレート! 真鍮のプレート。カリフォルニアで最も待ち望まれていた考古学の宝物だ!」。
彼はプレートに刻まれた碑文を読み、ドレークが実際に1579年6月17日にサンフランシスコ湾に上陸したと発表した。
驚嘆する驚きが、ホテルに集まった群衆の中を駆け巡った。これは確かに、大発見だった。
何世紀にもわたって、歴史家はドレークのプレートを探していた。
「これは、フランシス・ドレーク卿のカリフォルニア海岸への遠征航海の唯一の物理的な証拠です。英国の私掠船(しりゃくせん)は、太平洋岸に沿ってスペインの船や町を襲撃し、1579年6月にポイントレイズ地域に安全な寄港地を見つけました。そこで休憩している間、ドレーク卿はエリザベス1世の領土だと主張しました。彼はそれをニュー・アルビオン(New Albion)と名付けました」。
「乗組員の説明によると、ドレークは彼の主張を裏づけるために、陸地発見を刻んだ真鍮のプレートをその地域に残しました。しかし、それから350年の間、誰もそれを見ていませんでした」。
そして、ボルトン教授は、「今、“それ” を見つけたのです」。と、高々とプレートを持ち上げた。
彼は集まった群衆とメディアに、「このプレートが本物であることに疑いの余地はありません」、と語った。
その真鍮プレートの文章を部分的に読むと、「神の恵みによって、そして永遠に英国のエリザベス女王陛下及びその後継者の名において、私はこのキングドームの所有権を宣誓します」(BY THE GRACE OF GOD AND IN THE NAME OF HERR MAIESTYQVEEN ELIZABETH OF ENGLAND AND HERR SVCCESSORS FOREVER, I TAKE POSSESSION OF THIS KINGDOME)とあった。
真鍮プレート製造技術と文章は、1500年代のそれと一致していた。
ボルトン教授は、すぐにドレークプレート(Drake’s Plate of Brass)の発見を研究成果として公表し、1937年のカリフォルニア歴史協会の集会で発表した。
新聞は信じられないほどの早さと規模で、発見の物語を記事に掲載した。その発見は「カリフォルニアの歴史を作り直すかもしれない」と新聞は書き立てた。
1937年4月6日の「Oakland Tribune」紙。右の顔写真の男性はベイル・シン(Beyrle Shinn)。
事実、ドレークのプレートはカリフォルニアの歴史書に急速に浸透していった。
それまで、その200年後の1760年代にスペインのガスパル・デ・ポルトラ(Gaspar de Portolá)がこの地を発見し統治したとされていた。
そして、カリフォルニアの歴史書は、デ・ポルトラではなくドレークがゴールデンゲートを航海した最初の非ネイティブの人物であった可能性を反映するように変更されていった。
しかし、何かヘンだという指摘はあった。
非常に奇妙な物語だという指摘はあった。
エリザベス朝時代の英語の専門家は、ドレークプレートの英語文体がその時代の綴りや意味と一致しないと疑念を呈した。
プリンストン大学の化学者は、プレートの金属組成が1500年代に製造された真鍮ではないと、カリフォルニア大学バークレー校のロバート・スプロール学長(Robert Sproul)に手紙を書いた。しかし、スプロール学長はその手紙を握りつぶした。
このように少し疑念はあったものの、「真鍮のドレークプレート(Drake’s Plate of Brass)」は世界中で話題になり、ボルトン教授の功績がたたえられ、カリフォルニア大学は大きな賞賛を浴びた。
そして、数十年が経過し、「真鍮のドレークプレート(Drake’s Plate of Brass)」はカリフォルニア州の歴史の一部として静かに受け入れられていた。
●《4》転
1977年に転機が訪れた。
この年、「真鍮のドレークプレート(Drake’s Plate of Brass)」の発見から40年が経っていた。
ハーバート・ボルトン教授は1953年1月30日に亡くなったので、没24年後だった。
この年は、ドレークがカリフォルニアに上陸してから400周年という、節目の年だった。
それで、カリフォルニア州は、フランシス・ドレークが用いた私掠船「ゴールデン・ハインド(Golden Hind)」(写真出典同、 No restrictions, リンク)のレプリカを造船し、湾に向けて航海しようと計画するなど、壮大な祝賀イベントを催すことにした。
当然、「真鍮のドレークプレート(Drake’s Plate of Brass)」は祝賀会の目玉になる予定だった。
しかし、その前に、念のため、カリフォルニア大学バークレー校のジェームズ・ハート教授(James D. Hart)はプレートを最新の技術で検証したいと考えていた。
ハート教授は化学分析を外部に委託した。
結果は決定的だった。
ナント、プレートは偽物だった。
カリフォルニア大学バークレー校とオックスフォード大学の化学者は、プレートの化学分析の結果、亜鉛が多く銅が少ない真鍮は16世紀には製造できなかったと結論した。
金属加工の専門家は、プレートの端の切り口は、現代の工具でしか切れない切り口だと判定した。
正確な年代はわからないが、19世紀後半または20世紀初頭に作成されたプレートだと推測された。
記者会見で、ハート教授はボルトン教授の学生がいたずらで作ったのだろうと推測した。
「偉大なボルトン教授がプレートを完全にそして熱心に受け入れたとき、学生たちは種明かしする機会を失ったのだろう」とハート教授は推測した。
1977年に「真鍮のドレークプレート(Drake’s Plate of Brass)」は贋作と分かった。
しかし、その全貌が公に知られるようになったのは2003年になってからだった。
●《5》結
「イー・クランプス・ヴィトゥス(E Clampus Vitus )」は、西海岸の米国歴史を維持する組織というか飲酒社会クラブというような組織である。
100年以上の間、それはカリフォルニアのトップレベルの西洋歴史学者の友愛クラブだった。
ボルトン教授と彼の同僚の多くはそのクラブのメンバーで、彼らは自分たちをクランパー(Clampers)と呼んでいた。
1933年のある時、5人の悪友・クランパーが真面目な友人であるハーバート・ボルトンに悪意のない「いたずら」をするのは楽しいだろうと相談した。
ボルトンを知る誰もが、ボルトンは「真鍮のドレークプレート(Drake’s Plate of Brass)」を見つけるのにとても熱心なことを知っていた。
それで、彼らはボルトンを担いでみようと、考えた。
彼らは町工場に依頼して真鍮のプレートを作ってもらった。その真鍮のプレートに碑文を手彫りした。裏面には、イニシャル「ECV」を透明な蛍光塗料で塗装した。
それから、ドレークス湾まで運転し、誰かが見つけるようにと、ねつ造したプレートをそこに置いてきた。
プレートは直ぐに見つかった。
ただ、見つけた最初の人は、3年間、そのプレートを持っていて、その後、プレートを別の場所に捨てた。
そして、1936年のある日、26歳のデパート店員であるベイル・シン(Beyrle Shinn)が、それを発見した。
5人の悪友・クランパーズの計画は、プレート発見後すぐに、「イー・クランプス・ヴィトゥス(E Clampus Vitus)」会で彼らの「悪ふざけ」を明らかにする予定だった。
しかし、物事はあまりにも早く進行してしまった。
ボルトンはプレート発見のニュースをすぐに公表した。新聞は直ぐに大々的な記事を掲載した。
そして話の進行はもはや制御不能になり、激しく回転した。
それでも、5人のクランパーズはしばらくの間、何とか、対処しようと必死に行動した。
例えば、彼らは地元の新聞で発見を疑問視する論説を掲載した。
また、「真鍮のドレークプレート(Drake’s Plate of Brass)」の模造品を作るのは簡単だと示すために、別のプレートを作った。
しかし、それらはまったく役に立たなかった。
結局、事態は彼らが制御できる状況をはるかに超えており、今や運命の手にゆだねるしかないと、5人の悪友・クランパーズたちは諦めるしかなかった。
そして、この「悪ふざけ」の全貌が明らかになるのには、2003年までかかった。
2003年、4人の歴史家がカリフォルニア歴史協会誌(California Historical Society magazine)に、事実を発表した。そして、「悪ふざけ」だったことが、ようやく世間に受け入れられた。
「私たち一人一人はこのようなものに対して脆弱です。ボルトン教授は信じたかったのでそれを信じました」、と歴史家のエドワード・フォン・デル・ポルテン(Edward Von der Porten)は述べている。 → 2003年2月15日記事:Secret of Drake hoax revealed after 70 years / Society’s prank on UC professor went awry
1937年4月7日の「Oakland Tribune」紙。記事を見るシン(右)とシン夫人(左)。https://www.newspapers.com/clip/7258956/1937-4-7-pt1oaktribdrake-plate-finder/
●4.【関連情報】
【動画1】
メリッサ・ダービー(Melissa Darby)の講演動画:「2020-02-19 Melissa Darby – Drake Brass – YouTube」(英語)43分48秒。
Archaeological Research Facility, UC Berkeleyが2020/03/05に公開
① 記事:Drake’s Plate of Brass – Wikipedia
② xxxx年x月x日、カレン・ハリス(Karen Harris)記者の「History Daily」記事:Drake’s Plate: A Fabricated Artifact and the Story of an Out-of-Control Prank | History Daily
③ 2003年4月4日、アラン・チェン(Allan Chen)記者の記事:Drake’s Plate — the end of the mystery?
④ 2013年9月28日出版の本がある。62頁(表紙出典同): Amazon | Drake’s Plate of Brass Authenticated: The Report on the Plate of Brass | Fink, Colin Garfield, Polushkin, E P, Chickering, Allen L | Literary
●5.【白楽の感想】
《1》歴史的大発見
フランシス・ドレーク(Sir Francis Drake)が北カリフォルニアに上陸したのは1579年である。「真鍮(しんちゅう)のドレークプレート(Drake’s Plate of Brass)」はその時に作ったもの、としよう。
丁度その1年前の1578年、日本では明智光秀が兵庫県の丹波に金を埋蔵した、という噂がある。 → 2021年2月14日記事:【「麒麟がくる」コラム】明智光秀の埋蔵金伝説の真偽はいかに。光秀の墓が各所にある理由も考えてみよう(渡邊大門) – 個人 – Yahoo!ニュース
現在まで、明智光秀の埋蔵金が見つかっていない。
「真鍮(しんちゅう)のドレークプレート(Drake’s Plate of Brass)」は、明智光秀の埋蔵金が見つかった、というレベルの歴史的大発見なんだろう。本当ならば・・・。
《2》信じたいからダマされる
別の記事に書いたが再掲しよう:企業:スマートドット(SmartDot)、エナジー・ドッツ社(EnergyDots)(英) | 白楽の研究者倫理
ーーー引用ここから
「ダマされる人」の特徴があるとのことだ。
ひろゆき氏:そうですね。ダマされる人には、1つ特徴があるんですよ。
じつは「自分からダマされにいっている」んですよね。無意識に。(出典:2021年6月7日記事:ひろゆきに聞いた「ダマされる人、ダマされない人の決定的な特徴」)
ーーー引用ここまで
今回のドレークプレート事件でも、「ボルトン教授は信じたかったのでそれを信じました」、と歴史家のエドワード・フォン・デル・ポルテン(Edward Von der Porten)は述べている。
「信じたかった」から信じた。「ダマされたかった」からダマされた。
一方、ネカト研究者の白楽は、すべての権威を疑うよう警告する。つまり、「信じるな」と。
で、人生には「信じなければ、救われない」という面もある。ウ~ム。
《3》「悪ふざけ」です
「真鍮(しんちゅう)のドレークプレート(Drake’s Plate of Brass)」は、ボルトン教授に一杯食わせようとした、歴史研究者仲間の面白半分の「悪ふざけ」が発端だった。
それが、「冗談だよ」と種明かしをする前に、ボルトン教授が本気にし、あれよあれよという間に新聞記事になり、国民を信じさせ、引っ込みがつかなくなった。
同じようなケースは、実のところ、結構ある気がする。
「悪ふざけ」がバレれば、(歴史的な)ねつ造事件でカタがつく。
しかし、バレないで、今だに信じられている「事実ではない “真実”」になってしまうと、厄介である。
再現実験ができる実験科学なら検証可能だが、検証不可能だと・・・。
厄介である。
困ります。
ここだけの話しにして欲しいけど、バンクシー風の日本の「ネズミ」は、実は、白楽が「悪ふざけ」で描いたんです。って言っても、もう、誰も信じてくれない。
厄介である。
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日本がスポーツ、観光、娯楽を過度に追及する現状は日本の衰退を早め、ギリシャ化を促進する。日本は、40年後に現人口の22%が減少し、今後、飛躍的な経済の発展はない。科学技術と教育を基幹にした堅実・健全で成熟した人間社会をめざすべきだ。科学技術と教育の基本は信頼である。信頼の条件は公正・誠実(integrity)である。人はズルをする。人は過ちを犯す。人は間違える。その前提で、公正・誠実(integrity)を高め維持すべきだ。
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★記事中の画像は、出典を記載していない場合も白楽の作品ではありません。
●6.【コメント】
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