ワンポイント:薬物(麻薬)犯罪の化学分析官が鑑定結果を改ざん・ねつ造
追記:2017 年1月18日記事:State’s high court orders prosecutors to drop weak Dookhan cases – The Boston Globe
●【概略】
アニー・ドゥーカン(Annie Dookhan、写真出典)は、トリニダード・トバゴ(Trinidad and Tobago)に生まれたインド系の女性で、子供のころ両親が米国に移住し米国市民権を得た。
大学卒業後、米国・マサチューセッツ州の科学捜査研究所であるヒントン州実験研究所(Hinton State Laboratory Institute)の化学分析官になった。犯罪に関係した薬物(麻薬)の化学分析を行ない、分析結果を記載した鑑定書を提出するのが仕事だった。
2011年6月(33歳)、ヒントン州実験研究所の上司がドゥーカンの分析作業の不自然さに気が付き、調査を始めた。
ドゥーカンは鑑定書の分析値を6年間以上改ざん・ねつ造していたのである。改ざん・ねつ造を認め、逮捕され、裁判で、3~5年の実刑、その後2年間の保護観察となった。
「The Scientist」誌の選んだ「2012年の大事件」の第3位である(Top Science Scandals of 2012 | The Scientist Magazine®)。
マサチューセッツ州のヒントン州実験研究所(Hinton State Laboratory Institute)。写真出典
- 国:米国
- 成長国:米国
- 研究博士号(PhD)取得:なし
- 男女:女性
- 生年月日:1977年。仮に、1978年1月1日とする
- 現在の年齢:46 (+1)歳
- 分野:科学捜査(薬物・麻薬の化学分析)
- 最初の不正分析報告:2004年(26歳)またはそれ以前
- 発覚年:2011年(33歳)
- 発覚時地位:米国・マサチューセッツ州・ヒントン州実験研究所(Hinton State Laboratory Institute)・化学分析官
- 発覚:内部公益通報
- 調査:①ヒントン州実験研究所。②警察。③裁判所。
- 不正:ねつ造・改ざん
- 不正件数:被告約34,000人の約6万件の化学分析値
- 時期:研究キャリアの初期から
- 結末:辞職。投獄。
●【経歴と経過】
- 1977年x月x日:トリニダード・トバゴ(Trinidad and Tobago)で生まれる。仮に、1978年1月1日生まれとする
- 1996年(18歳):レジス大学(Regis College in Weston)入学。2年半後、中退し、マサチューセッツ大学(University of Massachusetts Boston)に入学
- 2001年(23歳):マサチューセッツ大学(University of Massachusetts Boston)を卒業。学士号。生化学専攻
- 2001年(23歳):マサチューセッツ大学医学大学院(University of Massachusetts Medical School )のワクチン製造部門であるマスバイオロジックス実験所(MassBiologics Laboratory)に品質管理職として就職。
- 2003年(25歳):ヒントン州実験研究所(Hinton State Laboratory Institute)・化学分析官に転職
- 2004年(26歳):Surrendranath Dookhanと結婚しドゥーカン(Dookhan)姓になる
- 2006年(28歳):子供が生まれる
- 2011年6月(33歳):不正が発覚する
- 2012年3月(34歳):ヒントン州実験研究所を辞職
- 2012年8月(34歳):鑑定書の分析値を改ざん・ねつ造したことを認めた。
- 2012年9月28日(34歳):公務執行妨害罪と学術的記録の改ざんで逮捕された
- 2013年(35歳):犯罪に関係した検体の一部を分析したが、ほとんどは分析しないで数値をねつ造したと告白した。結局、6年間以上、被告約34,000人の約6万件の薬物(麻薬)化学分析値をねつ造・改ざんした。
- 2013年11月22日(35歳):サフォーク群高等裁判所(Suffolk Superior Court)が3~5年の実刑、その後2年間の保護観察と判決した。
- 2015年7月現在(37歳):ファーミントン・マサチューセッツ州女子刑務所(Massachusetts Correctional Institution at Framingham)に服役中
●【不正発覚の経緯と内容】
2003年(25歳)、ドゥーカンはヒントン州実験研究所(Hinton State Laboratory Institute)の化学分析官になり、就任早々から、仕事熱心なハードワーカーとして、犯罪に関係した検体の薬物(麻薬)をどんどん分析し鑑定書を提出していた。
2011年6月(12月?)、化学分析官に就任し8年もたち、相変わらず多量の分析をこなしているドゥーカンの作業を見ていたヒントン州実験研究所の証拠官(evidence officer)は、ドゥーカンが95検体を適切にサインしないで分析したことに気が付いた。
最初、証拠官はドゥーカンの行為はその日だけかと考えた。
しかし、そのことがあってから、ドゥーカンの作業を注意深く観察していると、証拠官のサインを真似て記録簿にドゥーカンが記入していたことを見つけた。それで、ドゥーカンを休職処分にした。
2012年3月(34歳)、ドゥーカンは研究所を辞職した。
当時のヒントン州実験研究所は化学分析がズサンに行なわれていた。例えば、化学分析のプロトコールがなかった。それで、各分析官は自分なりの方法で適当に分析していた。
ヒントン州実験研究所の業務管理も異常だったし、上司もいい加減すぎた。研究所の随所にズサン・無責任が蔓延していた。
事件が公になって、ドゥーカンの作業を検証すると以下のこともわかってきた。
上司や同僚は、ドゥーカンが顕微鏡で検体を観察しているのを見たことがないと述べたのである。
また、ドゥーカンは、2004年から2011年まで、平均分析官の作業量(図の最下線)の2~5倍(図の最上線)をこなしていた(以下の図)。
上図を見ると、2番目に作業量の多い分析官(図の真ん中の線)に比べても、ドゥーカンは、2倍近い仕事量をこなしている。ヒントン州実験研究所では「スーパーウーマン」との評判だったが、常識的に考えて、これでは、業務管理が異常である。
さらに、ドゥーカンは、2006年に出産している。その後、作業量は幾分落ちたが、それでも平均の2倍位以上をこなしている。
2009年、ドゥーカンとは別の事象だが、米国・最高裁判所は「Melendez-Diaz v. Massachusetts」ルールを定めた。
この新ルールで、鑑定書は公判廷での証言的供述に相当するので、被告は、鑑定書を作成した分析官に対面する権利があるとされた。
つまり、ドゥーカンが提出した鑑定書は、彼女が裁判で証言するよう召喚(罰則つき)されることになった。いい加減な鑑定書を提出すれば、裁判で処罰を受けるので、鑑定はより慎重になるハズ、つまり、より丁寧に化学分析することになる、と一般的には理解されている。
それでも、ドゥーカンは以前と同じようなスピードで鑑定書を作り続けた。いや、鑑定書を作るスピードは2009年より2010年の方が早くなっていたのである。
2012年8月(34歳)、仕事上の不正を指摘され、その年の3月に研究所を辞職したドゥーカンに、ドゥーカンの自宅で警察官が尋問すると、ドゥーカンは鑑定書の分析値を改ざんし、カラ実験(dry labbing)をしていたことを認めたのである。カラ実験(dry labbing)は、実際に化学分析をしないで、測定シートに適当な数値を記入する行為である。
コカインが含まれていない検体にコカインを加えて測定したことも認めた。
2012年8月(34歳)、ディヴァル・パトリック(Deval Patrick、写真)・マサチューセッツ州知事はドゥーカン事件の報告を受け、驚愕し、憤怒し、ヒントン州実験研究所を閉鎖した。事態は、それほど、深刻だった。なお、実験所は後に再開され、現在も存続している。
犯罪捜査の中核となる証拠品の検査データの鑑定書がねつ造・改ざんがされていたとなると、犯罪捜査や裁判の信頼度がメチャクチャになるのは火を見るより明らかだ。
★逮捕と裁判と服役
2012年9月28日(34歳)、ドゥーカンは公務執行妨害罪と経歴詐称の罪で逮捕された。
【動画】
「Chemist Arrested in Drug Lab Scandal 」(英語)2分37秒。 WPRIが2012/09/28 に公開。
経歴詐称の罪は、ヒントン州実験研究所に就職するときの履歴書にマサチューセッツ大学の化学専攻の修士号を取得したと詐称したことである。マサチューセッツ大学の事務局は、「ドゥーカンはそのような修士号を持っておりません。修士課程の授業を一度も受講しておりません」と答えている。
2012年12月17日(35歳)、サフォーク群高等裁判所(Suffolk Superior Court)は、ドゥーカンに27項目の罪状があるとした。
2013年11月22日(36歳)、サフォーク群高等裁判所(Suffolk Superior Court)のキャロル・ボール(Carol S. Ball)裁判長は、3~5年の実刑、その後2年間の保護観察と判決した(Annie Dookhan Pleads Guilty to Tampering with Evidence, Obstruction)。
ボール裁判長は、「ドゥーカンが作成した鑑定書で、無実の人が投獄されました。また、有罪の人が釈放され、国民は危険にさらされました。それに、数百万ドル(約数億円)に及ぶ膨大な公費が無駄に費やされたのです。さらに、犯罪司法制度の公正性が核心から揺らいだのです」と付け加えた。
サフォーク群高等裁判所(Suffolk Superior Court)のキャロル・ボール(Carol S. Ball)裁判長、写真出典
2015年7月現在、ドゥーカンはファーミントン・マサチューセッツ州女子刑務所(Massachusetts Correctional Institution at Framingham)に服役中である。
マサチューセッツ州女子刑務所(Massachusetts Correctional Institution at Framingham)。写真出典 (The Republican file photo)
マサチューセッツ州女子刑務所(Massachusetts Correctional Institution at Framingham)。写真出典
●【あと始末】
ドゥーカンは、6年間以上、被告約34,000人の約6万件の薬物(麻薬)化学分析値をねつ造・改ざんしたのだから、ドゥーカンの証拠偽造が明るみに出た結果、数百人の有罪判決がひっくり返った。一方、約20人は、新たな犯罪が問われ、問われた人々は、「公正な裁判を受ける権利の違反」で民事訴訟を起こした。
しかし、判決に影響する人数は数百人という少なさではないだろう。
2015年1月、ベンジャミン・キーン弁護士(Benjamin Keehn)は、「約40,000人もの人々がドゥーカンの証拠偽造の結果、誤って有罪と宣告されたかもしれません」と述べている。
2015年5月、マサチューセッツ高等裁判所は、ドゥーカンが鑑定した証拠に基づいて判決が下された被告は、処罰が重くなることなしに再審理を受けることができるとした(Thousands of U.S. Convicts Can Get New Trials Because of Rogue Drug Lab Chemist – Scientific American)。
●【論文数と撤回論文】
学術界の人ではないので、研究論文は出版していないと想定した。また、出版していたとしても、本記事の研究ネカトの主眼ではないので、研究論文の出版状況、撤回状況は調べていない。
●【事件の深堀】
★生い立ち
1977年、トリニダード・トバゴ(Trinidad and Tobago)でカーン(Khan)家(母Samdayeと父Rasheed)の一人っ子(Annie Sadiyya Khan)として生まれた。
なお、トリニダード・トバゴは、カリブ海のトリニダード島とトバゴ島の二島からなる島国で、石油と天然ガスの資源があり、豊かな国である。住民はアフリカ系とインド系がそれぞれ約40%を占める。
カーン家の渡米年は不明だが、1989年には米国の運転免許証の登録記録がある。カーン家は比較的裕福だったようだ。
ドゥーカンは、少女時代をボストン・ラテン・アカデミー中高等学校(Boston Latin Academy)で過ごした。ドゥーカンは、物静かで、評点がほとんど「A」の成績優秀な生徒だった。課外活動は、陸上競技部だった。
ドゥーカン(中央)は、ボストン・ラテン・アカデミー中高等学校の陸上競技部員だった。写真出典
ボストン・ラテン・アカデミー中高等学校の陸上競技部選手としてのドゥーカン。写真出典
なお、ドゥーカンはボストン・ラテン・アカデミー中高等学校を「優等(magna cum laude)」で卒業したと後の履歴書に書いている。しかし、校長は「ボストン・ラテン・アカデミー中高等学校ではそういう称号制度はございません」と述べている。ドゥーカンの経歴詐称がここでも垣間見える。
★大学生時代
1996年(19歳)、米国北東部の名門大学・レジス大学(Regis College in Weston)に入学する。しかし、2年半後に中退し、マサチューセッツ大学(University of Massachusetts Boston)に入学しなおした。
2001年(24歳)、マサチューセッツ大学(University of Massachusetts Boston)・生化学専攻を卒業した。当時の生化学教授のジョン・ワーナー(John Warner)は、ドゥーカンのことを覚えていて、「優秀な学生でした。同学年の90人の学生の中で常に上位5位以内に入っていました」と述べている。
旧友の1人には、ドゥーカンは「ハーバード大学の学生だったが、経済的な理由で、マサチューセッツ大学に移ってきた。母はマサチューセッツ総合病院の医師で、父親も医師です」と虚飾に満ちた嘘をついていた(両親は医師ではない)。
★マスバイオロジックス実験所とヒントン州実験研究所での評判
マスバイオロジックス実験所に就職し、働き始め、その後、ヒントン州実験研究所に転職するが、両方の職場の上司や同僚からの評価はすこぶる高い。
ドゥーカンは頭がよく、またハードワーカーだった。朝ようやく陽が出たころから働き始め、人々が帰る頃はまだ働いていた。新しい検体を初めて分析するときも、積極的に分析を申し出て、熱心だった。
どうしてそんなに働くのかと聞くと、ドゥーカンはそれが「自分の生き方です」と答えた。
一方、修士号を持っていないのに、持っていると履歴書に書いたり、マスバイオロジックス実験所の年収が32,800ドルなのに、40,000ドルと偽ったり、虚栄の嘘をついている。知人には、ハーバード大学の博士号コースに入っていると嘘をつき、翌年、博士号を取得したとの嘘もついている。
●【防ぐ方法】
ドゥーカンのねつ造・改ざんを防ぐには、どうするとよかったのか?
★大学学部で「研究規範」教育を必修科目にする。
大学院に入学していないのだから、大学院で研究者養成用の「研究規範」教育を受けていないと思われる。日本もそうだが米国も、学部卒で実験室テクニシャンやドゥーカンのような分析官に就職する人は多いが、大学学部で「研究規範」教育を受けることはない。
すると、この人たちは、就職先でしっかりした「研究規範」教育を受ければ、別だが、そうでなければ、「研究規範」に関してはかなり危ない知識・スキル・考え方で研究関連業務につくことになる。
テクニシャンの「メラニー・ココニス(Melanie Cokonis) (米)」事件 でも書いたが、これでは、本人にとっても雇用者にとっても危険すぎる。
★仕事場での監督・指導と監視・批判は必須
ドゥーカンは自分の作業量が多く、優秀であることを認められるのが嬉しく、研究ネカトをしていったのだろう。「優秀であることを認められる」ための努力、その努力の姿勢自体は悪いことではない。むしろ向上心は「良い」ことだ。ねつ造・改ざんという手段が間違っていたのだ。
ヒントン州実験研究所がズサン・無責任だったことが事件を発生させた大きな原因だろう。分析のプロトコールがなく各分析官は適当に分析していたことや、業務管理がユルく平均の2~5倍の作業量を何年もこなしても「おかしい」とチェックされない。上司もしっかり監督しない。とにかく仕事場である州実験研究所がいい加減すぎたことが大きな原因だろう。
社会心理学で研究ネカトをしたディーデリク・スターペル(Diederik Stapel) (オランダ)が述べている。
どんな犯罪も方法と動機だけでは成り立たない。そこには機会が必要だ。社会心理学の研究環境には研究をコントロールする構造が全くなかった。だから誘惑に負けた。
今まで誰も私の研究をチェックしたことがない。彼らは、私を信頼し 私は、すべてを自分自身で行なった。私の隣にクッキーの大きいジャーがあり、母はいない、鍵は掛かっていない、ジャーには蓋もない。すぐ隣の手を伸ばせば届く範囲に、甘いお菓子が一杯に詰まったクッキーの大きいジャーがある場所で私は毎日、研究していた。そのクッキーの大きいジャーの近くには誰もいなかった。私がする必要があったすべてのことは、手を伸ばして取るだけだった。(ページ164)
仕事場のそれなりの監督・指導と監視・批判、それらをまともに運営する環境があれば、ドゥーカン事件は防げたと思われる。少なくとも、ねつ造・改ざんが何年にも渡り、結果として多量の不正鑑定書を作成してしまった、ことにはならなかったハズだ。
●【白楽の感想】
《1》大事件なのに日本での報道なし
いつも思うけど、これほどの大事件で米国では大衆紙を含めたくさんのメディアが報道したのに、日本では大衆紙での報道はない。科学誌にも化学誌にもない(少なくともウェブの検索でヒットしない)。
【追記:2015年8月19日】、日本語記事があることに気が付いた。
2015年2月6日の英語記事「10 Heinous Cases Of Misconduct By Crime Investigators – Listverse」をkonohazukuが日本語に訳し2015年2月18日にアップした(情報改ざん・隠ぺい・ねつ造、冤罪はこうして起きる。杜撰で悪質な10の犯罪調査 : カラパイアの最下段、「1」)。アニー・ドゥーカンをアニー・ドックハンと訳している。
《2》公的分析値の信頼性
研究ネカトの研究をしていると、今回の事件のように犯罪捜査での科学分析値のねつ造・改ざんをどうチェックすることができるのか、とても気になる。
一般的には、監視・批判されない安全圏にいる研究者が研究ネカトをする頻度は高い。つまり、「人間は善悪両方を内在し、監視・批判されなければ悪がでて、監視・称賛されれば善がでる」。
科学捜査研究所の研究員の分析対象は、試料が少なく、分析は1回しかできないこともあるだろう。その場合、他人ばかりか本人でも追試はできない。分析に失敗し数値をねつ造、あるいは、分析に自信がなく、得られた数値を改ざんしたら、どうチェックするのだろう?
日本の鑑定書は大丈夫だろうか? どのようなメカニズムで信頼性が保証されているか?
●【主要情報源】
① ウィキペディア英語版:Annie Dookhan – Wikipedia, the free encyclopedia
② 2013年2月3日、サリー・ジェイコブス(Sally Jacobs)の「ボストン・グローブ」記事:Annie Dookhan chased renown on a path paved with lies – Metro – The Boston Globe
③ http://boston.cbslocal.com/tag/annie-dookhan/feed/
④ 記事中の画像は、出典を記載していない場合も白楽の作品ではありません。