ワンポイント:自己盗用(self-plagiarism)は盗用か?
●【概略】
スティーヴン・マシューズ(Stephen Matthews、写真出典)は、カナダのトロント大学(University of Toronto)医学部・生理学科長・教授。専門は神経科学で、発生過程での神経内分泌システムの形成と可塑性である。
なお、トロント大学は、「Times Higher Education」の大学ランキングでカナダ第1位の大学である(World University Rankings 2014-15: North America – Times Higher Education)。
2012年10月(47歳?)、研究ジャーナル編集長がマシューズの2005年の論文に自己盗用(self-plagiarism)を発見し、論文を撤回した。
- 国:カナダ
- 成長国:英国
- 研究博士号(PhD)取得:英国のケンブリッジ大学(University of Cambridge)
- 男女:男性
- 生年月日:不明。仮に、1965年1月1日生まれとする
- 現在の年齢:59 歳?
- 分野:神経科学
- 最初の不正論文発表:2005年(40歳?)
- 発覚年:2012年10月(47歳?)
- 発覚時地位:トロント大学(University of Toronto)医学部・生理学科長・教授
- 発覚:研究ジャーナル編集部の調査
- 調査:①研究ジャーナル編集部
- 不正:自己盗用(self-plagiarism)
- 不正論文数:1報
- 時期:研究キャリアの中期
- 結末:辞職なし
●【経歴と経過】
- 生年月日:不明。仮に、1965年1月1日生まれとする
- 19xx年(xx歳):英国のノッティンガム大学(University of Nottingham)を卒業。分野は動物生理学(Animal Physiology)
- 1992年(27歳?):英国のケンブリッジ大学(University of Cambridge)で研究博士号(PhD)取得。分野は分子神経内分泌学(Molecular Neuroendocrinology)
- 1996年(31歳?):カナダのトロント大学(University of Toronto)医学部・教員
- 20xx年(xx歳):カナダのトロント大学(University of Toronto)医学部・生理学科長・教授
- 2012年10月(47歳?):不正研究が発覚する
写真出典
●【研究内容】
マシューズ本人のサイト(Matthews S.G.)を中心に修正引用。
主要な研究テーマは、視床下部-下垂体-副腎系(HPA)の発達メカニズムとその調節メカニズムの解明である。どこまで遺伝的にプログラムされ、どこまで環境の影響を受けるのか?
視床下部-下垂体-副腎系は、ストレス応答や免疫、摂食、睡眠、情動、繁殖性行動、エネルギー代謝などを含む多くの体内活動を制御している神経内分泌系である。HPA軸(HPAじく)ともいう。サーカディアンリズムとも関係する。(出典:視床下部-下垂体-副腎系)
図は、脳・自律神経・HPA axisと身体疾病の関係(出典:心身症 – 脳科学辞典)
多くの成人の疾患〈糖尿病、高血圧症、ウツなど〉は、HPA機能の慢性的な変化と関係がある。
妊婦が未熟児を出産した時、未熟児の肺の発育を促すために糖質コルチコイドを摂取させる。しかし、糖質コルチコイドが未熟児の脳の発育にどのような影響を与えるかというデータがない。
また、一般的に妊婦には妊娠期間中、十分な栄養を与えないことが通例である。しかし、これらのことが胎児の脳および神経内分泌系の発育にどのような影響を与えるかというデータがない。
それで、糖質コルチコイドの投与、母体の栄養供給制限が胎児の神経内分泌の機能の発育にどのような影響を与えるかを研究している。
●【不正発覚・調査の経緯】
スティーヴン・マシューズ(Stephen Matthews)は、研究論文を多く出版し、巨額の研究費を得て、順調に研究を進めていた。2012年の年俸は$231,298カナダドル(約2,300万円)と、経済的にも申し分のない状況だった(年俸サイト)。
それが、2012年のある日、研究ジャーナル「Neuroscience & Biobehavioral Reviews」編集長のベリティー・ブラウン(Verity Brown、写真出典、セント・アンドルーズ大学(St. Andrews universit)・教授)が、2005年の論文に研究ネカトがあると指摘したのだ。
2012年10月、ブラウン編集長は、編集長権限で、マシューズの2005年の論文を撤回した。
理由は、マシューズの2005年の「Neuroscience & Biobehavioral Reviews」論文には、同じ著者によるそれ以前の5論文からの文章が一字一句使用されている、つまり、自己盗用(self-plagiarism)があったという理由だ。
「Neuroscience & Biobehavioral Reviews」編集部が、当時ようやく普及してきた盗用検出ソフトのアイセンティケイト (iThenticate)で研究ジャーナル「Neuroscience & Biobehavioral Reviews」の過去の論文をチェックしたのだ。
以前の5論文は以下の通りである(出典:Retraction notice to “Maternal adversity, glucocorticoids and programming of neuroendocrine function and behaviour” [Neurosci. Biobehav. Rev. 29 (2) (2005) 209?226])。
- Endocrine Research 30 (4), 2004, pp. 827?836, http://dx.doi.org/10.1081/ERC-200044091.
- Trends in Endocrinology and Metabolism 13 (9), 2002, pp. 373?380, http://dx.doi.org/10.1016/S1043-2760(02)00690-2.
- Stress 7 (1), 2004, pp. 15?27, http://dx.doi.org/10.1080/10253890310001650277.
- Fetal and Maternal Medicine Review 14 (4), 2003, pp. 329?354, http://dx.doi.org/10.1017/S0965539503001141.
- Endocrine Research 28 (4), 2002, pp. 709?718, http://dx.doi.org/10.1081/ERC-120016991
「Neuroscience & Biobehavioral Reviews」誌は、論文投稿の条件の1つに、「研究成果はオリジナルで他のどこにも印刷発表されていないこと。論文内容に再使用がある場合、適切に引用し、引用句で示すこと」と投稿規定に記載している。
それに違反したマシューズ論文は、「科学出版システムの重大な誤用である(severe abuse of the scientific publishing system)」と判定された。
「撤回済(RETRACTED)」と赤く刻印されたスティーヴン・マシューズ(Stephen Matthews)の2005年の論文。出典
★トロント大学の見解・対処
マシューズはメディアの質問に対して、公式に何もコメントしていない。
トロント大学のロイド・ラング(Lloyd Rang)広報部長(写真出典)がコメントしている。
「厳密な著作権の定義では科学出版物はすべてオリジナルであるべきだろうが、この論文は“総説(review)”である。自分の文章の再使用に、著作権をウンヌンするのはささいな言いがかりだ。編集部が盗用検出ソフトを導入したので、自己盗用が見つかり、機械的に処理したのだろう」と述べている。
ラングによると、「トロント大学は、この件を研究ネカト(research misconduct)として扱わない」方針だそうだ。
★カナダ助成機関と政府の見解・対処
マシューズは、カナダの大きな研究プロジェクト「胎児の発育にアルコールや薬物が与える影響」のメンバーだった。
その研究で、カナダ政府の研究助成機関であるカナダ健康研究所(Canadian Institutes of Health Research)(CIHR) やカナダ自然科学・工学研究機構(Natural Sciences and Engineering Research Council of Canada )(NSERC)から、1千万カナダドル(約10億円)という巨額の研究費を得ていた。
しかし、これらの研究助成機関は無言を保っている。
このような研究倫理事件を扱うカナダ政府の「責任ある研究実施事務局」(Secretariat on Responsible Conduct of Research)も無言を保っている。
「責任ある研究実施事務局」長のスーザン・ツィンマーマン(Susan Zimmerman、写真出典同)は、記者の質問に応え、「私たちは、事態を検討中であるなどとコメントは致しません。もし検討中でもコメント致しません。但し、関心を持ってはいます」と述べている。
なお、カナダ政府の規則は、「自己盗用(self-plagiarism)は盗用で、政府の研究助成違反である」ということになっている。
「自己盗用(self-plagiarism)は、適切な原典引用や何らかの正当性なしに自分の過去の研究発表を同じ言語あるいは別の言語で使用して発表する行為である。ねつ造・改ざんほど深刻な研究不正ではないが、自己盗用(self-plagiarism)は、研究費獲得のためだけに科学論文の数を増し、論文の無用なインフレ化を招くので、研究不正である」(Tri-Agency Framework: Responsible Conduct of Research : The Interagency Advisory Panel on Responsible Conduct of Research (PRCR))。
●【論文数と撤回論文】
パブメドhttp://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmedで、スティーヴン・マシューズ(Stephen Matthews)の論文を「Stephen Matthews[Author]」で検索すると、2002年~2015年の14年間の212論文がヒットした。1968年の1論文もヒットしたが、この論文は別人である(多分)。研究論文はかなり多い。
2015年4月18日現在、1論文が撤回されている。本記事の該当論文である。
- Maternal adversity, glucocorticoids and programming of neuroendocrine function and behaviour.
Owen D, Andrews MH, Matthews SG.
Neurosci Biobehav Rev. 2005 Apr;29(2):209-26. Review. Retraction in: Neurosci Biobehav Rev. 2013 Mar;37(3):548.
●【事件の深堀】
★自己盗用(self-plagiarism)は盗用か?
ここでの根本的問題は、「自己盗用(self-plagiarism)は盗用なのか?」ということだ。
日本では、この問題を検討し適切な基準を設けて十分に説明している組織(政府・大学・学会)がない。従って、文部科学省の規則にも言及がない。
白楽の意見を先に述べるが、自己盗用(self-plagiarism)を盗用と区別すべきだと考えている。いくつかの手順を踏んた自己盗用(self-plagiarism)は盗用ではないし研究クログレイでもないと考える。
特に、“総説(review)”の場合は、過去の出版物のまとめなので、データはほぼすべて既出だ。となれば、文章はどう書いても酷似する。再使用文章を引用符で囲うのは文章としては読みにくいし、自己盗用なら不要だろう。文献として引用するだけで問題ない。
原著論文でも、論文の本質的な部分でなければ、文章を再使用しても問題ない。他人の論文でも、文献を引用し、「材料・方法」「文献」をそのまま使用しても良いと考える。「序論」もかなり使用しても良いだろう。自分の文章の再使用(自己盗用)がいけない学術的な理由は思いつかない。
自己盗用が規範違反という理由は、著作権違反ということになるが、これは、出版社の収入が減るという出版社の利権問題であって、研究公正性とは次元が異なる。
自分で書いた文章を一定の範囲内で本人が再使用し、自己盗用しても、研究内容に間違いや誤解が生じることは一切ないので、学術システムが崩壊する危険性はない。
いずれにせよ、学術界は議論し、ルールを決め、研究者や大学院生に周知させるべきである。
米国・研究公正局は、著者本人の過去の学術出版、論文、書籍に使ったアイデア・文章・図表・結果を著者本人が引用しないで自己盗用しても、「盗用」扱いにしていない。著者以外の人が引用しないで発表した時だけを盗用としている(Alan R. Price (2006). “Cases of Plagiarism Handled by the United States Office of Research Integrity 1992-2005”. Ann Arbor, MI: MPublishing, University of Michigan Library 1)。
米国の研究倫理学者のデイビッド・レスニック(David Resnik)は、「自己盗用は不誠実な行為だが、盗みではないと述べている(Resnik, David B. (1998). The Ethics of Science: an introduction, London: Routledge. p.177, notes to chapter six, note 3. Online via Google Books)。
白楽は、自己盗用を「不誠実な行為」とも思わない。新たな文章やデータを無駄に作る方がバカバカしいと思う。何度も言うが、研究論文は、小説などの文芸作品とは異なり、重要なのは発表する研究結果の中身である。文章はそれを適切に伝えるための道具であって、オリジルかどうかはどうでもいい。芸術的な美しさはあっても良いが必須ではない。
米国・カリフォルニア大学のパメラ・サムエルソン(Pamela Samuelson、写真出典)教授は、知的財産を専門とし、盗用や自己盗用に関する法的、倫理的規制の権威である。
彼女は、1994年に、文書(論文など)が自己盗用されても許容される4条件を書いている(Samuelson, Pamela (August 1994). “Self-plagiarism or fair use?“. Communications of the ACM 37 (8): 21?5. doi:10.1145/179606.179731)。
- 新しい文書(論文など)の新しい成果は、先行文書(論文などを土台にしていること。
- 新しい文書(論文など)の新しい証拠や議論のために先行文書(論文など)を再記述しなければならない場合。
- 新たな読者・聴衆は、以前、先行文書(論文など)で研究成果を伝えた読者・聴衆とは大きく異なり、同じ内容の研究成果を伝えても、重複しないこと。新たな読者・聴衆に伝えるためには、同じ内容の文書を別の場(研究ジャーナルなど)で発表をしなければならない場合。
- 最初の文章がとても良く書けていて、次回の文書で、文章を大きく変える意味がない場合。
●【白楽の感想】
《1》 論文撤回で大学院生が被害者
2005年の撤回論文の第一著者のドーソン・オーウェン(Dawn Owen、写真出典)は当時、大学院生だった。第二著者のマーカス・アンドリュー(Marcus Andrews)はポスドクだった。
論文発表後7年経過して論文が撤回された。この場合、彼女の博士号取得要件と何らかの関係が生じただろう。第一著者のドーソン・オーウェン(Dawn Owen)の博士号は取り消されたのだろうか?
調べると、オーウェンは、2005年の第一著者の論文を発表後、2007年に大学院(combined MD/PhD programme)を終了し、医師免許と博士号を取得していた。
2015年4月18日現在、米国・ミシガン大学・助教授(Assistant Professor, Radiation Oncology, University of Michigan)である。博士号が取り消されたのかどうかハッキリわからないが、多分、取り消されていないだろう。実害は受けなかったようだ。
そもそも、トロント大学は、マシューズのこの件を研究ネカト(research misconduct)とみなしていなかった。
2013年「Mats Sundin Fellowship in Developmental Health」授賞式。中央の2人の女性ポスドクが受賞者。スティーヴン・マシューズ(Stephen Matthews)は右から2人目。2013年。写真出典
●【主要情報源】
① 2012年10月23日のリトラクチョン・ウオッチ(Retraction Watch)の記事:Duplication forces retraction of paper on effects of prenatal environment on behavior – Retraction Watch at Retraction Watch
② ◎2012年10月25日、アレックス・ベリンガル(Alex Ballingall)の「Toronto Star」記事:University of Toronto professor accused of ‘self-plagiarism’ in seven-year-old research paper | Toronto Star
③ 2012年10月31日のジョナサン・ベイリー(Jonathan Bailey)の「Plagiarism Blog」記事:The Question of Self-Plagiarism in Research
④ ◎2012年10月23日のマーガレット・マンロ(Margaret Munro)の「POSTMEDIA NEWS」記事:University of Toronto researcher censured for ‘self-plagiarism’ | Margaret Munro