2025年11月11日(火)掲載
この論文は研究不正問題ではない。米国の資金配分の不適切さを指摘した論文である。1980年、米国NIHの助成金受給者の21%は35歳以下だったが、2014年にはたったの2%、と激減した。2022年、新規起業者へのベンチャー資金は約2兆円だったが、2年後の2024年には約4千億円(5分の1)に急落した。現代の資金配分は、「進歩よりも保存」「混乱よりも安全」「変革よりも安定」を優先する自己強化システムが支配している。それで、画期的な研究技術は出現しない。このことを指摘したアイシュワリヤー・カンドゥージャ(Aishwarya Khanduja)の「2025年1月のGood Science Project」論文を読んだので、紹介しよう。
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目次(クリックすると内部リンク先に飛びます)
1.日本語の予備解説
2.カンドゥージャの「2025年1月のGood Science Project」論文
7.白楽の感想
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【注意】
学術論文ではなくウェブ記事なども、本ブログでは統一的な名称にするために、「論文」と書いている。
「論文を読んで」は、全文翻訳ではありません。
記事では、「論文」のポイントのみを紹介し、白楽の色に染め直し、さらに、理解しやすいように白楽が写真・解説を加えるなど、色々と加工している。
研究者レベルの人が本記事に興味を持ち、研究論文で引用するなら、元論文を読んで元論文を引用した方が良いと思います。ただ、白楽が加えた部分を引用するなら、本記事を引用するしかないですね。
●2.【カンドゥージャの「2025年1月のGood Science Project」論文】
★読んだ論文
- 論文名:The Slow Cancellation of Innovation: A critical look at modern funding
日本語訳:イノベーションの緩やかなキャンセル:現代の資金調達の批判的考察 - 著者:Aishwarya Khanduja
- 掲載誌・巻・ページ:Good Science Project
- 発行年月日:2025年1月24日
- ウェブサイト:https://goodscience.substack.com/p/the-slow-cancellation-of-innovation
著者の紹介:アイシュワリヤー・カンドゥージャ(Aishwarya Khanduja、写真と経歴の出典)。- 経歴:2010年、インドからカナダに移住。2019年にカナダのカルガリー大学(Durham University)で学士号(生物医学)、2021年(?)に英国のケンブリッジ大学(University of Cambridge)で修士号(生物工学)
- 分野:起業家
- 論文出版時の所属・地位:2024年7月、非営利団体Analogue(米国のニューヨーク)創設者:Aishwarya Khanduja | LinkedIn
●【論文内容】
難解な箇所が多く、長い論文なので、3割程度削除した。
白楽注:「institutional incentives」「institutional stability」などの「institutional」を「制度的」と訳したが、ちょっと違うかもしれません。「大学の」と訳した方がいい?
★未来をあきらめている現代
2014年、英国の文化理論家マーク・フィッシャー(Mark Fisher、1968年7月11日~2017年1月13日)は、エッセイ『未来はゆっくり消滅している(The Slow Cancellation of the Future)』を発表した。このエッセイは「現代文化は未来をあきらめている」と主張し、その影響力はとても大きかった → 池田光穂:マーク・フィッシャー:Mark Fisher, 1968-2017
現代の文化は過去の文化を再利用するというループに陥っている。
それで、文化は停滞し、真に新しい可能性を生み出せていない、とフィッシャーは現代を批判した。
かつて、音楽も文化も革新的だったが、現代の音楽と文化は、新しいスタイルを生み出せず、過去のスタイルをリミックスしているだけである。
フィッシャーは、「憑在論(ひょうざいろん、hauntology)」と名付けた「未来はゆっくり消滅している」で、未来をあきらめている現代を読み解いている。 → 憑在論 – Wikipedia
憑在論(ひょうざいろん、英: hauntology)とは、亡霊のような方法で、過去の社会的或いは文化的な要素が回帰したり、持続したりすることに関する広範な思想を指す造語であり、フランスの哲学者ジャック・デリダが1993年の著書『マルクスの亡霊(英語版)』の中で初めて導入した。(憑在論 – Wikipedia)
フィッシャーがエッセイを発表してから約10年たった2025年の現在、フィッシャーの洞察は、意外なことに、科学技術界にも当てはまる。
科学技術は20世紀に急速に発展したにもかかわらず、21世紀の科学技術は未来をあきらめている。
大衆文化が創造ではなく再生産のサイクルに囚われているように、科学技術へ資金を提供する諸機関は、似たような麻痺状態に陥っている。
ベンチャーキャピタル業界、政府の資金提供機関、研究中心大学は、画期的なイノベーションをもたらすために設立されたのに、既存の権力構造とパラダイムを維持する方向に傾き、新しいものを生み出すことよりも、既存の権力構造とパラダイムを維持する方向に傾倒するようになった。
かつては急進的なイノベーションの原動力として機能していたこれらの諸機関は、今では過去の守護者として機能している。
本稿で、「未来の緩やかなキャンセル」が、私たちのイノベーション資金システムにどのように現れているかを検証しよう。
★自己強化パターン
ベンチャーキャピタルの動向、研究助成金の配分、そして制度的インセンティブ(institutional incentives)を分析することで、フィッシャーが「未来はゆっくり消滅している」と批判した現状を把握できる。
21世紀の科学技術では、馴染みのある過去への執着が強く、革新と資金配分は分離し、そして、これが最も重要だと思うが、革新を生み出すスペースが消失している。
文化が過去のノスタルジーの再生産サイクルに陥っている、とフィッシャーが指摘したのと同じように、科学技術資金の現代の配分は、「進歩よりも保存」「混乱よりも安全」「変革よりも安定」を優先する自己強化パターン(self-reinforcing patterns)に陥っている。
このことの意味は、単なる制度の批判をはるかに超えている。
フィッシャーの主張が正しいとすれば、科学技術資金の現代の配分は、科学技術の発展を阻害するほど大きな欠陥になっている。
この欠陥を理解し、対処方法を見つけることは、イノベーション資金の未来にとってだけでなく、地球規模の課題を解決すべき現代の世界に極めて重要である。
誤解のないように言っておくが、mRNAワクチン、大規模言語モデル、CRISPR、再生可能エネルギーなど、21世紀の科学技術にもそれなりに大きな進歩があったことは認める。
個々の科学者、エンジニア、起業家は限界を乗り越え、それなりに目覚ましいブレークスルーを達成し続けている、ことも認める。
しかし、この指摘は、問題をさらに明確にする。
つまり、これら科学技術の目覚ましいブレークスルーは、資金が適正に配分されたおかげだったろうか?
事実はそうではなかった。
資金配分が成功したからではなく、むしろ、資金配分がまともに機能していなかったにもかかわらず達成されてきたのである。
現在の資金配分システムは科学技術の創造的プロジェクトのほんの一部しか助成していない。
誰が、いつイノベーションを起こしたか? そしてどのようなイノベーションが資金助成を受けたのか?
これらを分析すると、憂慮すべきパターンが浮かび上がる。
発見と変革のために、まさにイノベーションを高める必要がある時に、資金助成されていない。
現代の資金配分メカニズムは、研究を助成・促進するというより、画期的な発展を阻害している。研究発展のボトルネックになっている。
そのことを認識することが、資金配分メカニズムを再考する第一歩である。
★研究助成対象者
未来がゆっくりと消滅していく様相を最も如実に表しているのは、研究資金を受給した研究者の年齢の変化である。
1980年、米国NIHの助成金受給者(主任研究者、principal investigators)の21%は35歳以下だったが、2014年にはたったの2%、と激減した。
一方、66歳以上の研究者の割合は着実に増加し、研究資金を受給した研究者の年齢に顕著な逆転が生じている(以下の図。緑線35歳以下、赤線66歳以上)。

これは、研究者の年齢構成が変化したという単純な結果ではなく、研究資金配分システムが根本的に変化してきたことを示している。
この変化は、研究者が初めてR01助成金(NIHの個人研究費。研究者の中心的助成金)を受給する年齢を調べると、さらに顕著になる。
R01助成金は伝統的に、研究者として独立する際に受給する助成金で、受給できるかどうかは、研究キャリアにおける最初の大きな関門になる。
そして、データが示す変化は、過去25年間で、R01助成金を最初に受給した平均年齢は1995年の30代半ばから2020年の40代半ばへ10年も老齢化した(図は白楽が省略)。
これは、人口動態傾向をすこし反映しているが、もっと大きな根本的な変化を示している。
それは、研究助成年齢と革新的な新発見年齢の間が離れ過ぎつつあるということだ。
つまり、多くの画期的な科学的発見は、20代から30代前半の研究者によってもたらされていのに、革新的新発見ができる年齢の研究者に研究助成(R01助成金)がされていないケースが増えているということになる。
20代から30代前半は、まさに、現在の研究助成システムが排除している年代である。
このことは、フィッシャーの著書名を借りれば、「未来はゆっくり消滅している」状況を生み出している。
つまり、現代の研究資金配分システムは熟練した研究者に執着し、多くの画期的な科学的発見をもたらしてきた若い研究者にイノベーションの機会を与えることに失敗している。
★ベンチャーキャピタルのパラドックス:資本は増加しているのにイノベーションは減少
ベンチャーキャピタル業界は、NIHの「未来はゆっくり消滅している」研究資金配分と驚くほど類似しているが、独自の矛盾も抱えている。
一見すると、ベンチャーキャピタル資金量は豊富である。
英国のオックスフォード大学で博士号(免疫学)を取得しアトラス・ベンチャー社(Atlas Venture)を立ち上げたブルース・ブース(Bruce Booth、写真出典)が指摘するように、「現在、利用可能なベンチャーキャピタル資金は10年前の10倍もある」。 → Bruce Booth/ X
しかし、この表面的な豊富さの裏に根深い問題が隠れている。
それは、いわゆる「ベンチャーキャピタル・パラドックス(venture capital paradox)」に現れている。
つまり、「資金は増えているのにイノベーションは減少している」というパラドックスである。
このパラドックスは、業界の構造的な変化で顕著に見られる。
最近のデータによると、ベンチャーキャピタリストの資金調達額は2018年の水準まで急落した。その急落で最も大きな打撃を受けたのは、新規参入のベンチャーキャピタリストだった。
新規参入社の資金調達額は、2022年に約200億ドル(約2兆円)だったのが、たった2年後の2024年には5分の1の40億ドル(約4千億円)にまで減少した。
これは単なる景気後退のためではなく、むしろ制度的憑在論(institutional hauntology)のためである。つまり、業界は過去の成功に囚われ、将来の可能性よりも過去のパターンに基づいて資本を配分する傾向が強い。
資本の集中度合はそれを示している。
上位30社は490億ドル(約4兆9千億円)を調達したのに対し、新興企業188社は、企業数は6倍なのに、資金額は5分の1の91億ドル(約9千億円)しか調達できなかった。
フィッシャーの言葉を借りれば、過去の成功が将来の投資の主な予測因子となり、企業は真に新しい開発に投資しない。自己強化サイクルの渦中にいる。
★イノベーション資金の二重拘束
こうしたベンチャーキャピタルの動向を、前述のNIHの資金配分パターンと照らし合わせると、さらに憂慮すべき状況が浮かび上がる。
若手研究者は、最初の助成金獲得までの道のりがますます長くなり、R01助成金を最初に受給できる研究者の平均年齢は着実に上昇している。
一方、新興企業の資金調達額はわずか2年で200億ドル(約2兆円)から5分の1の40億ドル(約4千億円)に急落した。
新興企業は最初の資金調達がなかなかできない。つまり、若手研究者が革新的な発見をしても、その技術を基に起業する資金が得にくい。
イノベーションに対する時間的な挟み撃ち状態、つまり、「ダブルバインド(二重拘束、double bind)」になっている。 → ダブルバインドとは、矛盾したメッセージを同時に受け取ることで相手が混乱する現象を指します(ダブルバインドとは? 具体例、かわし方・対策を解説 – カオナビ人事用語集)。
この挟み込み効果(pincer effect)は、遅咲きの研究者にとって壊滅的な障壁になる。
学術界では、「制度的憑在論(institutional hauntology)」を反映して、高齢の研究者に資金が移行している。
これは、定評のある研究者の過去の実績に取りつかれた「進歩よりも保存」「混乱よりも安全」「変革よりも安定」を優先するシステムで、画期的な発見をする若い研究者のキャリアを閉ざしている。
ベンチャーキャピタルは、このプロセスの鏡像になっている。既存の大企業に資本が集中し、新興企業に資本が回らないことで、新しい視点やアプローチを持つ新しい起業家の登場が閉ざされている。
その結果、イノベーションへの資金提供は一種の硬化症に陥っている。
フィッシャーが過去の文化の再利用という文化停滞のループを観察したように、科学技術への資金提供の仕組みも、新しいものよりも馴染みのあるもの、新興のものよりも既存のものを優先する自己強化パターンに陥っている。
未来への発展を実現するために設計した制度(ベンチャーキャピタル業界、政府の資金提供機関、研究中心大学)が、未来をキャンセルしているのである。
★新しいモデルとその限界:未来を「キャンセルしない」ための試み
現在の資金提供モデルは、依然として伝統的な資格認定や組織ネットワークの枠組みの中で運営されている。
このシステムへの対応は、より深刻なパラドックスを浮き彫りにする。
新たな資金提供機関や研究開発機関が登場する一方で、そのほとんどは、解消しようとしていた問題そのものを再び生み出してしまう。
新たな資金調達メカニズムは、イノベーションに貢献するのは誰かという根本的な前提を忘れている。
この問題は、基礎研究から商業化に至るまで、イノベーションのパイプライン全体に見られる。
- 基礎科学においては、深い探究に必要な長期的な視野と知的自由を確保しつつ、予期せぬ情報源からの洞察にも開かれた資金提供体制が必要である。
- 橋渡し研究においては、理論的理解と実践的知識を橋渡しする新たなモデルが必要である。
- そしてベンチャーキャピタルにおいては、画期的なアイデアが既存の成功パターンに収束する前に、それを認識・支援できる仕組みが必要である。
体系的に排除され続けているものを考えてみよう。
例えば、高校卒業資格を持たないコロラド州の農民・フランク・ザイバック(Frank Zybach)は、1940年代にセンターピボット灌漑システムを発明し、農業のあり方を根本から変えた。
彼は日々の水のパターンを観察することで、熟練した技術者たちが見逃していた洞察を得た。
同様に、テキサス大学オースティン校物理学部の機械工・ジュリアン・キンドレッド(Julian Kindred)は、正式な物理学教育を受けていなかったにもかかわらず、1960年代に重要な真空チャンバー技術を開発し、素粒子物理学を前進させた。
極限環境下での金属に関する彼の実践的な理解は、当時の材料科学の知識を凌駕していた。
社会的現実との直接的な関わりに根ざしたこれらの視点は、イノベーションシステムが求めている思考そのものである。
しかし、現在の資金提供構造は、資格要件や制度的なゲートキーピングによって、彼らを体系的に排除し続けている。
この排除は「二重の呪縛(double hauntology)」を象徴している。
現在の大学は、自分たちで開発できなかった未来だけでなく、他人が開発できる潜在的なイノベーターを排除している。
有望なアイデアを生み出すとした指標、つまり学歴、所属機関、従来の成功実績といったものが、真のブレークスルーを生み出す斬新な人々を体系的に排除しているのである。
●7.【白楽の感想】
《1》日本のデータは?
この論文は研究不正問題を論じてはいないが、現代の科学技術の停滞の根本的な問題を指摘している。
つまり、現代の米国の資金文化は、「進歩よりも保存」「混乱よりも安全」「変革よりも安定」を優先する自己強化システムが支配している。
この文化の下では米国に画期的な研究技術は出現しない。
では日本はどうなのだろう?
日本は、米国よりはるかに悪い。論文の量も質もドンドン落ちている。 → 科学技術指標2024・html版 | 科学技術・学術政策研究所 (NISTEP)
国の基礎研究力を測る上で国際的に重視される指標に「Top10%論文数」(学術論文の被引用数に基づいて上位10%に評価される論文の数)があります。かつて世界第4位だった日本の「Top10%論文数」は、この30年間で第13位にまで低下してしまいました。(出典(下の表も):2025年8月28日:失われた研究力を取り戻す。科学技術創造立国『再興の10年』への決意|衆議院議員 塩崎彰久(あきひさ))

で、日本の科研費受給者の年齢は、1980年、・・・2020年、どう変化しているのだろう? 経年的に調べたデータはあるのだろうか? それらが、日本の科学技術の力量にどのように影響してきたか?
誰か、ちゃんと分析しているのだろうか? 分析結果を政策に反映させているのだろうか?
そもそも、アイシュワリヤー・カンドゥージャ(Aishwarya Khanduja)のような視点で、科学技術システムを見ている日本人はいるのだろうか?
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★記事中の画像は、出典を記載していない場合も白楽の作品ではありません。
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