ヴィジェイ・ソーマン(Vijay Soman)、フィリップ・フェリッグ(Philip Felig)(米)

【概略】
150131 soman[1]ヴィジェイ・ソーマン(Vijay R. Soman 写真上出典)はインドで生まれ育ち、27歳の1971年に渡米し、事件発覚の1980年には、米国・イェール大学・助教授(36歳)で、糖尿病の研究者だった。

ボスのイェール大学・教授・医師のフィリップ・フェリッグ(Philip Felig、42歳、写真下出典 )は、事件発覚の1980年には、42歳で既に200報以上の論文を発表し、著名な糖尿病研究者だった。150131

1980年、投稿論文原稿の内容を盗用したことが発覚した。調査の結果、データねつ造(+改ざん?)も発覚した。

日本学術会議会長・金澤一郎が2009年7月3日に講演で述べている。

1978 年、NIHにヘレナ・ロッドバードという女性がおられました。彼女は神経性食思不振症におけるインシュリン受容体の異常に関する非常に先駆的な研究をしまして、その結果をNew England Journal of Medicine に投稿します。この論文はイェール大学のフェリッグ教授に送られ、フェリッグ教授は部下のヴィジェイ・ソーマンに「読んでごらん」と渡したといいます。

ソーマンは、自分のやろうとしたことが既にそこに書いてあったので驚いき、まずはその論文を却下しておいて、その文章からデータも含めて盗み、The American Journal of Medicine に自分の名前で投稿するわけです。

運命のいたずらでありますが、このソーマンの欺瞞的論文のレフェリーが、偶然にもロッドバードの上司のところに送られます。そして部下であるロッドバードの手に渡ります。それでロッドバードはすべてを悟ります。

彼女の申し出はなかなか取り上げてもらえなかったけれども執拗の追求によってついにイェール大学もその監査をすることになります。その結果、2年後の1980 年に初めてソーマン本人の告白も得られて、晴れてロッドバードの論文は、改めてNew England Journal of Medicine に掲載されて、ソーマンはインドに帰ったと、こういう話があるわけです。(2009年7月3日 www.scj.go.jp/ja/head/img/090703-kaityou.pdf

★ヴィジェイ・ソーマン(Vijay Soman)

  • 国:米国
  • 成長国:インド
  • 博士号取得:
  • 男女:男性
  • 生年月日:1945年月日
  • 現在の年齢:72 (+1)歳
  • 分野:糖尿病学
  • 最初の不正論文発表:1977年(33歳)
  • 発覚年:1980年(36歳)
  • 発覚時地位:米国・イェール大学・医学部内分泌学・助教授
  • 発覚:盗用被害者の公益通報
  • 調査:①ハーバード大学・助教授・ジェフリー・フライヤー(Jeffrey Flier、31歳)の監査、1980年2月、監査時間:3時間。②コロラド大学・内分泌学のジェロルド・オレフスキー教授(Jerrold Olefsky)の監査(2回目)、1980年3月下旬、監査期間:数日。
  • 不正:盗用、ねつ造(+改ざん?)
  • 不正論文数:撤回論文は11報
  • 時期:研究キャリアの初期
  • 結末:辞職

★フィリップ・フェリッグ(Philip Felig)

  • 国:米国
  • 成長国:米国
  • 博士号取得:
  • 男女:男性
  • 生年月日:1939年月日
  • 現在の年齢:78 (+1)歳
  • 分野:糖尿病学
  • 最初の不正論文発表:1977年(39歳)。公式にはシロ
  • 発覚年:1980年(42歳)
  • 発覚時地位:米国・イェール大学・医学部内分泌学・教授
  • 発覚:
  • 調査:
  • 不正:盗用、ねつ造(+改ざん?)。公式にはシロ
  • 不正論文数:撤回論文は8報
  • 時期:研究キャリアの中期
  • 結末:辞職。数か月後、教授に再雇用

【経歴と経過】

★ヴィジェイ・ソーマン(Vijay Soman)

  • 1945年月日:インドで生まれる
  • 19xx年(xx歳):インドのxx大学を卒業
  • 19xx年(xx歳):インド・プネー(Pune)のxx医科大学・教員
  • 1971年(27歳):米国・ニューヨーク州のオールバニ医科大学(アルバニー医科大学)(Albany Medical College)。
  • 1975年(31歳):米国・イェール大学・医学部・内分泌学フェローシップ
  • 1976年(32歳):米国・イェール大学・医学部内分泌学・助教授
  • 1979年(35歳):他人の原稿を盗用する
  • 1980年2月(36歳):盗用が発覚する
  • 1980年4月(36歳):米国・イェール大学・助教授を辞職
  • 1980年4-8月(36歳):故郷のインド・プネー(Pune)に帰国。以後、音信不通

★フィリップ・フェリッグ(Philip Felig)

  • 1939年月日:米国で生まれる
  • 1961年(22歳):イェール大学(Yale Univ Sch Of Med)を卒業。医師免許取得
  • 19xx年(xx歳):米国・イェール大学・医学部内分泌学・教授
  • 1980年2月(42歳):共著者で部下のソーマンの論文盗用が発覚する
  • 1980年6月(42歳):コロンビア大学・教授、医学科長に栄転
  • 1980年8月頃(42歳):コロンビア大学・教授、医学科長を辞任
  • 1980年11月(42歳)11月:イェール大学・医学部内分泌学・教授に再雇用

【不正発覚・調査の経緯】

★登場人物

米国・NIH・NIDDK(国立糖尿病・消化器・腎疾病研究所; National Institute of Diabetes and Digestive and Kidney Diseases)の糖尿病研究部はジェシー・ロス(Jesse Roth)が1974年から1983年まで部長を務めていた。

150131 Rodbard[1]ブラジル人のヘレナ・ロッドバード(Helena Wachslicht-Rodbard、約37年後の写真。出典)は、ブラジル・サンパウロ大学医学部を1972年に卒業した医師で、1975年から米国・NIH・NIDDKの糖尿病研究部のポスドクだった。

米国・イェール大学・医学部のフェリッグ教授(フィリップ・フェリッグ:Philip Felig)は糖尿病の著名な研究者で、部下に助教授のソーマン(ヴィジェイ・ソーマン:Vijay R. Soman)がいた。

以下は、主要情報源①の1981年11月1日の「ニューヨーク・タイムズ(The New York Times)」記事(A FRAUD THAT SHOOK THE WORLD OF SCIENCE – NYTimes.com)を基本に、他の情報を加味した。

★発端:1978 年11月‐1979 年2月

1978 年11月9日、ロッドバード(約30歳)は、拒食症(神経性食思不振症)患者の細胞のインシュリン受容体の異常に関する論文原稿「Insulin Receptors in Anorexia Nervosa」を著名な医学研究雑誌「ニューイングランド・ジャーナル・オブ・メディシン」(NEJM:New England Journal of Medicine)誌に投稿した。

2か月半後の1979 年1月31日、ロッドバードの元に、「ニューイングランド・ジャーナル・オブ・メディシン」誌から論文を修正するようにという手紙とともに原稿が返送されてきた。3人の査読者(匿名)の内1人は、修正ではなく不採択と判定していた。

彼女は、原稿を修正し始めた。

150131 Roth-Jesse-210x225[1]数日後、ボスで原稿の共著者であるジェシー・ロス(Jesse Roth、当時44歳、1934年8月5日生まれ、写真出典)が、査読を手伝ってくれないかと、「The American Journal of Medicine」誌に投稿された原稿をロッドバードに持ってきた。

著者は、イェール大学・医学部のソーマンとフェリッグだった。

ロッドバードは原稿を読み始めて唖然とした。

内容は、自分たちが今修正している原稿と全く同じだったからだ。しかも、要約の60単語の文章は、一字一句、全く同じだった。さらに、いくつかのパラグラフと方程式が、ほとんど同じである。自分たちの原稿は今修正中でまだ出版されていない。原稿の内容を知っているのは、「ニューイングランド・ジャーナル・オブ・メディシン」誌の3人の査読者だけである。

イェール大学・医学部のソーマンとフェリッグの原稿は、自分たちが今修正している原稿を盗用したに違いない、とロッドバードは確信した。

「ニューイングランド・ジャーナル・オブ・メディシン」誌の3人の査読者の1人はフェリッグ教授で、フェリッグ教授が不採択と判定した、と推察した。

★弱肉強食:1979年2月‐3月

ロッドバードは、「ニューイングランド・ジャーナル・オブ・メディシン」誌に修正原稿を送る時、同時に証拠をそろえ、抗議の手紙を書いた。

ソーマンとフェリッグの原稿コピーとロッドバードの元原稿のコピーを比較し、同じ文章部分に蛍光マーカーで色を付けた証拠をそろえ、ソーマンとフェリッグが論文を盗用したと訴えたのだ。

150131 Relman_Arnold_photo-e1403118068163[1]1979年2月下旬、「ニューイングランド・ジャーナル・オブ・メディシン」誌編集長のアーノルド・S・レルマン(Arnold Relman、写真出典)は事の真相を確かめるべく、フェリッグ教授に電話した。

フェリッグ教授の返事は、「ロッドバードの原稿は、科学的な見地だけから審査しました。自分たちの原稿は、ロッドバードの原稿を査読する前に既に完成していました」だった。

数日後、フェリッグ教授はNIHのロスから電話をもらった。実は、フェリッグとロスの2人は子供の頃からの知り合いで、ブルックリン時代は同級生だった。そして、2人とも研究者になった現在、同じ糖尿病分野の研究者になったのである。

NIHのロスは、レルマンの電話の背景をフェリッグ教授に教えた。フェリッグ教授は「ニューイングランド・ジャーナル・オブ・メディシン」誌編集長のレルマンに答えたように、「自分たちの原稿は、ロッドバードの原稿を査読する前に既に完成していたので、盗用はあり得ない」と説明した。そして、間のなく開催されるベセスダでの会合で、会う約束をした。

フェリッグ教授の説明だと、フェリッグ教授はNIHのロスと会って、初めて、2つの原稿を比べたそうだ。2つの原稿は、どうみても、たまたま偶然に似通ったレベルではないことは一目瞭然だった。NIHのロスは、「ロッドバードは単なる盗用だけでなく、データも数式も盗用されているので、論文はねつ造だと言っている」と伝えた。

2人は、騒ぎにならないように、事態を迅速に終わらせるにはどうしたらよいかを相談した。

2人は、まず、ソーマンが一部盗用したと想定した。そして、ロッドバードの論文を先に出版させ、ついで、ソーマンとフェリッグの論文に、ロッドバードの論文を引用する文章を入れることで決着しようと話をつけた。

翌日、フェリッグ教授はロッドバードに電話した。フェリッグは事態が起こってしまったことを大変残念に思うが、計画を説明し、同意を求めた。

ロッドバードは、穏やかな話し方をするブラジル人の若い女性研究者だが、フェリッグ教授の提案に納得できなかった。気持ちは収まらなかった。

ところが、ロッドバードの心中を計れないボスのロスは、2日後、友人のフェリッグ教授あてに「ロッドバードの論文を先に出版することと、ソーマンとフェリッグの論文にロッドバードの論文を引用する文章を入れる」という協定書を書いた。部下のロッドバードに同意のサインをもらおうと、協定書を見せたが、ロッドバードはサインを拒否したのである。

ロスは、激しく怒った。

ロッドバードは、臭いものにフタをする事なかれ主義で始末をつけようとするロスの態度に納得できなかった。ソーマンとフェリッグ教授の2人は、「重大な」不正を行なっている。それを見過ごす。しかも、それに自分が加担する。いわば共犯である。とても我慢が出来なかった。

ところが、上司のロスは、ロッドバードに激昂し、「研究室を出ていけ」と脅した。さらには、NIHの文具の使用を禁じ、不正追及を止めるように命じた。

NIHのロスは、また、イェール大学に行き、フェリッグ教授とともにソーマンを問い詰めた。すると、ソーマンは、ロッドバードの原稿をコピーし、その原稿からいくつかの文章と数式を自分の論文原稿に利用したと告白した。

フェリッグ教授は、ここ数年、ソーマンと一緒に研究していて、彼を信じ切っていた。不正の疑いを一片たりとも抱いたことがなかったのである。

★反撃 その1

150131 berliner[1]1979年3月下旬、ロッドバードは、イェール大学医学部長のロバート・バーリナー(Robert W. Berliner、当時64歳 写真出典)に、「ソーマンとフェリッグの論文の信ぴょう性は疑わしいので、独立した第3者の監査をお願いする」、と手紙を書いた。

バーリナー医学部長は、フェリッグ教授に「実際に自分たちで実験をしたのか?」と問い合わせた。フェリッグ教授はソーマンに医学部長の問わせ内容を伝えた。ソーマンは、すぐに、患者名と日付のリスト、6人の患者から得たデータ表を持ってきた。

フェリッグ教授はそれ以上チェックすることなく、「原稿に書いてある通りに自分たちで実験をしました。全く問題ありません」とバーリナー医学部長に返事をした。

バーリナー医学部長はロッドバードへ、「フェリッグ教授とソーマンは、原稿に書いてある通りに彼ら自身が実験をしました。この件はこれで終わりにしてくださるようお願いします」と手紙の返事を書いた。

★反撃 その2

ロッドバードは、バーリナー医学部長の対応に憤慨した。

そこで、別の機会を狙った。

学会の講演発表の一覧表を見ると、ソーマンとフェリッグ教授は、1979年5月に米国臨床研究学会(American Federation of Clinical Research)で研究発表する予定になっている。ロッドバードは監査の要求を飲まなければ、その学会でソーマンとフェリッグ教授を糾弾すると、上司のロスにほのめかした。

それで、ロスとフェリッグ教授は、渋々ではあるが、独立した第3者の監査を設けることを、ロッドバードに同意した。

★停滞

間もなく、ロッドバードはNIHを退職し、ワシントンの病院で臨床医として勤めはじめた。もう研究には戻ってこない覚悟だった。

NIHのロスとイェール大学のフェリッグ教授は、監査役の人選に難航した。この人と思う人を人選し、依頼すると、イェール大学にきて監査する時間が取れませんと断ってきた。

そうこうしているうちに、1週間が経ち、1か月が過ぎていった。監査人が決まらなくても、何も起こらないので、NIHのロスとイェール大学のフェリッグ教授は、徐々に、問題が霧散したように感じてきた。

イェール大学のフェリッグ教授は、特に、問題が霧散してくれることを望んだ。というのは、コロンビア大学の人事委員会が、米国の著名大学であるコロンビア大学・医学科長(Samuel Bard Professor and chairman of the Department of Medicine)に、フェリッグ教授を採用したいと、フェリッグ教授に打診してきたのだ。この時点では、ロッドバードとの騒動は表沙汰になっておらず、コロンビア大学の人事委員会の委員は事件を何も知らない状態だった。

1980年1月、フェリッグ教授は、ソーマンを連れて、コロンビア大学の人事委員会に挨拶に行き、ソーマンを助教授に推薦した。この頃、フェリッグ教授は、嵐が無事に治まったと確信するに至った。

★反撃 その3

コロンビア大学・医学科長にとの打診があった同じ1980年1月、絶妙のタイミングというか、運命のイタズラというか、問題のソーマンとフェリッグの論文が、ロッドバードの論文より先に、「American Journal of Medicine」誌に出版されてしまった。

フェリッグ教授は、どんな問題にせよ問題があるうちは、論文の出版を保留するとロッドバードに約束していた。そして、もう、問題は片付いていると思っていた。

しかし、監査の約束は守られていなかった。ロッドバードは激怒し、かつての上司であるNIHのロスに電話して、約束を守るようにと強硬に伝えた。

150131 flier[1]NIHのロスは、イェール大学のフェリッグ教授に電話した。別の監査役を見つけることが必要だと言った。

2人は、ベス・イスラエル病院(Beth Israel Hospital)糖尿病代謝ユニット長でハーバード大学・助教授のジェフリー・フライヤー(Jeffrey Flier、当時31歳、写真出典)に監査役になってもらおうと考えた。

ロスがフライヤーに電話し、「監査役になって頂けないでしょうか? なって頂けるなら、すぐにイェール大学にきて、ソーマンとフェリッグの論文は、ソーマンが実際に研究したこと、つまり、データを適切に収集し、分析したかどうか、監査していただけませんでしょうか」と依頼した。

フライヤーは引き受けた。

★監査(audit)

1980年2月初旬の寒い朝、ハーバード大学・助教授のジェフリー・フライヤー(Jeffrey Flier)は、ボストンから列車に乗り、イェール大学のあるニューヘブンに向かった。

インシュリン代謝に関するイェール大学の助教授の論文が別の研究者から不正とみなされたので、イェール大学で、該当助教授の研究資料を精査するという監査の仕事だった。作業に数時間はかかるだろうと予想していた。

ニューヘブン駅につくと、そこには、該当助教授のソーマンが迎えに来てくれていた。ソーマンの車で、イェール大学までドライブし、研究室に案内された。研究室には、たくさんの診察記録、データシート、実験ノートが用意されていた。フェリッグ教授も監査役のフライヤーに挨拶する予定だったが、たまたま、数日前に、フェリッグ教授の母親が亡くなったので不在だった。

ソーマン助教授は、愛想はよいけれども、多少神経質だったとフライヤーは感じた。そこで、フライヤーは緊張をほどくために、30分ほど、最近の研究などについてお互いに話をして、気分を変えた。

そして、「用意は良いようだから、監査の仕事をしよう」、と切り出した。

フライヤーは、最初に、個々の患者のデータについて尋ね、それぞれの診察記録に目を通し始めた。患者は6人いたことになっているが、記録は5人分しかない。ソーマンは、1人分の診察記録がないことについては何も言わなかった。ただ、5人の患者の診察記録は論文とおなじ内容で整っていた。拒食症患者は、治療期間中に体重が増えていた。

「次に、私は、ソーマンに、これらの患者の治療の前後で、インシュリン結合実験をしたという証拠をだしてくれるよう求めた。彼は最初の患者のデータシートを私に手渡した。私は驚いた。私はデータシートではなく、経時的に測定したグラフを予期していたからだ。けれども、彼が私に渡したのは生の数値が羅列した紙だった。『グラフを持っていないのですか?』と、私は彼に尋ねた。彼は混乱したようだったが、『保管場所がないので、私達は個々のグラフは捨ててしまうのです』と返事した。私は急に不安を感じ始めた」。

どんな研究者も、先月出版されたばかりの論文の元グラフは廃棄しない。彼の言う説明は、到底納得できるものではなかった。

「しかし、仕方がない。データシートを見て、グラフを頭の中で視覚化した。データシートだったので、拒食症患者のインシュリン結合量は、体重が増えてからよりも、増える前の方が多いのは、数値として明瞭だった。また、データシートの測定点は、インシュリンとインシュリン受容器の実験で得られる曲線と違う様相を呈していたし、ソーマンとフェリッグの論文のグラフとも一致しなかった。

「私は、『論文のグラフではここで曲線が鋭く曲がっているけど、データシートの数値は平坦なのはおかしいですね』と言った。さらに、『あなたが論文で報告したものと違うし、または普通私たちが予期する数値とも違うけど』と加えた。すると、彼はシートを見て、『おやおや、そうですね。あなたの指摘は正しいですね。そのデータシートは何かの間違いです。別のデータシートを見ましょう』。それで、私達は別のデータシートを見たけれど、それは前のより悪かった。それで私達は、1つずつ、結局、全部のデータシートを見た。しかし、どれも欠陥データだった。どこか、何かが、ひどく異様だ。論文中の美しい曲線は、私が見てきたどのデータにも由来していなかった」

フライヤーは、少し困惑しながら尋ねた。「出版された論文のデータは、あなたが私に示してくれたどのデータにも対応していないように見えるけど」と、ソーマンに言った。

ソーマンは、ますます悲しそうな顔になって、テクニシャンがイイカゲンなことをしたと、テクニシャンを非難し始めた。フライヤーは、「たとえ、テクニシャンがイイカゲンなデータをだしたとしても、もしデータがよくないならば、そのデータを論文として出版しなければいいだけでしょう」、と問い詰めた。

フライヤーは、「その時、私は初めてデータ“ねつ造“という言葉を使った。『出版論文のグラフはデータねつ造なのか?』、と尋ねた。ソーマンは、ソワソワとまわりを手探りし、それから、基本的に、『はい。そうです』、と答えた。さらに、『出版論文のデータはねつ造したものです。フェリッグ教授も含めて、まだ誰もそのことを知りません』、と言った。私は、いくつかの不釣り合いなデータについて、さらに尋ねると、彼は、それもねつ造したことを認めた」。

論文は、ねつ造データでできていたということになる。行方不明の6番目の患者は、さらに、拒食症患者ではなく、論文のために拒食症患者というラベルを付けただけだった。これも、データねつ造の1部だった。

ソーマンがデータねつ造を認めたので、フライヤーは大きな衝撃を受けた。しかし、監査の仕事を終わらせるためには、さらに、質問を続けなければならなかった。

「『ねつ造がどれほど重大なのか、あなたは承知ですか?』、と私はきいた。ソーマンは、『はい』と答えた。そして、自己弁護を始めた。ソーマンは、『発見のためのプライオリティを得るために、できるだけ早く出版するという大きなプレッシャーがあったのです。論文をたくさん出版し、研究に成功する、というとてもキツイ目標が課された研究環境だったのです』と、自分を防御する言葉を並べはじめた」。

フライヤーは、「私は、こんなことになるとは予想していなかったので、事態の進展が非現実的に思えた。ソーマンは、ますます異常な顔つきになり、つじつまの合わないことを言いだし、特殊な哲学について語り始めた。私は方向感覚を失うのを感じた」。

★大学上層部の処置

150131 samuel-o-thier-1-sized[1]1980年2月12日、イェール大学・内科学・学科長のサミュエル・ゼア(Samuel Their 、当時40代半ば、写真出典)は、緊急の電話を受けた。

相手は、所属学科のフェリッグ教授からで、電話の内容は、とても悪い知らせだった。

フェリッグ教授がソーマンに「監査はどうだった?」と聞くと、ソーマンは、「監査役のフライヤーは最初からソーマンとフェリッグに偏見を抱いていて、研究ネカトを見つけたといって帰った」と答えた。

それで、フェリッグ教授は、すぐにフライヤーに電話した。すると、フライヤーは「(フェリッグが共著の)最近の論文で、ソーマンがデータねつ造したのは間違いありません」と答えた。それで、ゼア学科長にフェリッグの評判とイェール大学の評判はガタ落ちになる、と電話で伝えたのだ。

ゼア学科長とフェリッグ教授はバーリナー医学部長と会って相談した。バーリナー医学部長は、結論として、ソーマンを解雇すべきだと述べた。

ゼア学科長とフェリッグ教授は、ソーマンを呼び、「ソーマン、一体、どうなっているのだ?」と尋ねた。ソーマンを震えて、最初は、あれもこれも否定した。

「フライヤーは最初からソーマンとフェリッグに偏見を抱いていた」と主張した。「それは、今、問題ではない。フライヤーがワザワザ監査にきて、デタラメの監査をする意味は全くない。本当のところ、何があったのだ」。

ソーマンは、持ちこたえられなかった。「曲線を見映えよくしようと、データの数値をいじり・・・」と言いながら、泣き出した。フェリッグ教授は、恐ろしさで頭がいっぱいになった。

ゼア学科長とフェリッグ教授の2人は、ソーマンが実際に何をどこまでデータ操作したのかを理解しようとしたが、ソーマンはぼそぼそと答えるだけだった。しばらくして、ソーマンは、「私は、いま、どうしたらよいでしょうか?」と尋ねた。ゼア学科長は、「最もよい選択は、辞任し、研究を放棄することです」と突き放した。

ソーマンは、数週以内にイェール大学を辞任することを了承した。

しかし、ココまでは、むしろ容易な部分で、その後の方が苦しい困難な過程だった。

ソーマン/フェリッグの論文は撤回するにしても、もし、ソーマンの他の論文もねつ造なら、大スキャンダルになるだろう。しかし、もしこの時点で調査せずに、後になって、他の論文もねつ造だと判明したら、スキャンダルはもっと大きくなるだろう。

150131 Olefsky[1]バーリナー医学部長、ゼア学科長、フェリッグ教授は、ソーマンのすべての論文を調査することにした。今度の監査は、コロラド大学・内分泌学のジェロルド・オレフスキー教授(Jerrold Olefsky 写真出典)に依頼した。

オレフスキーは、2週間後にイェール大学にきてくれることになった。

フェリッグ教授は、その間、いくつか自己修復をした。まず、ロスとロッドバードに謝罪する手紙を書いた(ロッドバードは、送られてきた手紙の内容に納得しなかったが・・・)。

そして、ずっと大きな影響を与えるが、スキャンダルのいくらかは世間に公表せざるを得なかった。

★フェリッグ教授の栄転話

フェリッグ教授は、自分を医学科長に招聘しようとしているコロンビア大学の人事委員にもすぐに話す必要があると思っていた。

150131 cps_tapley[1]1980年2月下旬、彼は、コロンビア大学でセミナーを行なった。セミナー後に、彼を招聘しようとしいる医学部長のドナルド・タプリー(Donald F. Tapley 写真出典)に会った。

ここで2人の話は食い違うのだが、フェリッグ教授は、「現在進行中の事件を、タプリー医学部長にオープンに明白に伝えた」と述べている。しかし、タプリー医学部長は、「他の話をしている時、ついでに、そのことを軽く触れただけだった」、と述べている。

★監査:2回目

1980年3月下旬、監査役のオレフスキー教授が、イェール大学に監査にきた。ソーマンがイェール大学着任後に発表した14報の論文全部を調査する予定だった。しかし、フェリッグ教授は、「調査のための診察記録、データシート、実験ノートを揃えようとしたが、そのほとんどは、行方不明だと気付いて愕然とした」と述べている。つまり、資料は不十分だったことになる。(影の声・・・フェリッグ教授が証拠隠滅したのではないでしょうな)

オレフスキー教授は、5報の論文に対応する研究記録を整えるのに2日費やした。

バーリナー医学部長へのオレフスキー報告書は以下のようだ。

患者のデータに、インシュリン結合実験をしたという証拠は、どの患者にも見つからなかった。どの論文も、4分の1から2分の1の元データは見つからなかった。解釈は、定性的には間違っていないと思えるが、数値は論文の数値とは合致しなかった。すべてのデータで、データを見映えよくするための改ざんが行なわれていた。

多くの研究記録が行方不明なので、オレフスキー教授が述べているよりも研究ネカトはズッと広範でまたズッと深いと思われた。14論文のうち、研究記録で裏付けできたのわずか2報で、他の12報は、偽造されたデータを含んでいるか、またはオリジナルの元データが破壊されたので研究ネカトだと思われた。そして、この12報の大半は、フェリッグ教授が共著者だった。

★フェリッグの進退

すでに多くの人々がこの事件にかかわってきたが、それでも、今まで、なんとか秘密が保持できていた。しかし、1980年3月下旬頃、生物医学界に噂が広がり始めた。フェリッグ教授を医学科長に招聘しようとしているコロンビア大学にも噂が流れた。

1980年5月、フェリッグ教授は、コロンビア大学にきて、医学部教授陣に噂を吹き飛ばすよう人事委員会に依頼された。彼はコロンビア大学に行ったが、医学部教授陣に話したのは、ソーマンのデータねつ造と監査についてだけだった。後に、医学部教授陣は、論文盗用については何も聞いいていないし、フライヤーが3時間の監査で見つけたのに、フェリッグ教授は1年以上もソーマンと一緒に研究していてソーマンの不正を見落としていたと批判した。

委員会の1人は、不正な論文だけではなく、データが行方不明になった論文の全部を撤回するほうが賢明だと主張した。フェリッグ教授は同意した。まもなく、イェール大学から論文撤回の手紙が出版編集部に届き、結局、12論文が撤回された。その内8論文はフェリッグ教授との共著だった。

それでも、1980年6月、フェリッグ教授はイェール大学を辞任し、コロンビア大学の新ポストを得て、家族とともにニューヨークに引っ越した。

150131 53984[1]コロンビア大学のポール・マークス(Paul Marks)副学長 写真出典

1980年7月、コロンビア大学のポール・マークス(Paul Marks)副学長は、休暇から帰ると、フェリッグ教授のよからぬ噂を耳にした。翌日、彼は、医学部で起こっていることを関係者に質問し、イェール大学医学部長のロバート・バーリナーに電話した。すぐ、コロンビア大学医学部が危機に直面していることに気がつき、休暇中のタプリー医学部長に休暇を中断し、大学に来るように伝えた。

1980年7月23日(水曜日)、タプリー医学部長からの至急の呼び出しに呼応して、フェリッグ教授は、2回の監査書類を含む18の関係書類、26通の手紙とメモを抱えて、コロンビア大学のタプリー医学部長のオフィスに来た。

フェリッグ教授は、まな板の鯉だった。彼の立場はとてもあやうい状態だった。タプリー医学部長と学術担当副学部長のトーマス・モリス(Thomas Morris)に今までの経過全体を話した。

後に、タプリー医学部長は次のように述べている。「フェリッグ教授がかなり恐ろしい物語を話したので、私は、彼がかなりうまく事態を処理できたのだと思っていた」。

しかし、フェリッグ教授は、彼が潔白であることをマークス副学長に納得させられなかった。

マークス副学長は、フェリッグ教授が今まで彼に多くを話してくれなかった事実にこだわっていた。数か月前、フェリッグ教授の自宅にディナーを招待されたが、食事の後にでも、この件について何か話してくれるべきだったと思った。

タプリー医学部長は、マークス副学長の態度から、フェリッグ教授の評判は取り返しのつかないほど損われたと思った。

フェリッグ教授が去った後、タプリー医学部長はオフィスに6人の有力教授を呼んだ。タプリーは、彼らに、フェリッグ問題を検討する特別委員会を作り、人事をどうするか検討するよう依頼した。

150131 henrikBendixen[1]その日の午後、フェリッグ教授は、特別委員会の委員3人と会った。彼らは、「フェリッグ教授が率直さに欠けていたことを深く心配している」、と言った。委員長のヘンリク・ベンディクセン(Henrik H. Bendixen 写真出典)は、フェリッグ教授が辞任すべきだと、痛烈な一撃を見舞った。フェリッグ教授は、結果はすでに決まっているのではないかと恐れはじめた。

2日後の1980年7月25日(金曜日)、特別委員会は結論を出した。「とても残念ではあるが、フェリッグ教授をコロンビア大学から解雇する」という結論だった。

その同じ日、コロンビア大学のタプリー医学部長は、フェリッグ教授に、彼のオフィスに来るように頼んだ。オフィスに来たフェリッグ教授に、タプリー医学部長は、コロンビア大学の結果を伝え、特別委員会の報告書コピーを彼に渡した。

フェリッグ教授は、自分の世界が崩壊したことを認識した。

それでも、なんとか気力を振り絞って、コロンビア大学のマイケル・ソヴェルン学長(Michael Sovern)に特別委員会報告書の1つ1つに反論する長い手紙を書いて週末を費やした。イェール大学のバーリナー医学部長も、同時に、コロンビア大学のタプリー医学部長と特別委員会を非難する手厳しい手紙を書いた。

コロンビア大学のマイケル・ソヴェルン学長は、この件で両者の仲裁をしなかった。また、コロンビア大学のタプリー医学部長はイェール大学のバーリナー医学部長に返事を書かなかった。

その週の火曜日、コロンビア大学とイェール大学は、「フェリッグ教授とコロンビア大学医学部の間で撤回した研究論文に関する深い溝がある」という理由で、フェリッグ教授辞任の報道共同発表を行なった。
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★事件のあと

それから1年以上たった時、イェール大学のバーリナー医学部長、ゼア学科長、フェリッグ教授の同僚たちは、フェリッグ教授のとった行動のうちのいくつか「浅はかで、おろかだった」と答えている。ゼア学科長は、「フェリッグ教授は不注意過ぎた」と付け加えた。

それほど同情的ではない人々は、フェリッグ教授が本当に何をしたかを知らないのだが、「少なくとも彼は、科学の信頼と人々の信頼を損なう罪を犯した、盗用問題を隠蔽しようとした、無節操に論文発表しようとした」と答えている。「最悪なケースでは、彼は、ロッドバードを打ちのめす非道な行為の罪、ねつ造データ論文を出版する罪を犯している」と答えている。

★ヴィジェイ・ソーマンのその後

Vijay[1]ソーマンは、1980年4月にイェール大学を辞職した。その年の夏前に、家族とともに、故郷のインド・プーナに戻った。それで、米国科学界からは消滅した。その後、ソーマンにコンタクトを試みたが、すべて失敗に終わっている。

2015年2月、ウェブで検索すると、米国・カリフォルニアの財務コンサルティング会社の登録証券セールスマン(registered representative)に同姓同名のヴィジェイ・ソーマン(Vijay Soman)がいる。顔写真(出典)は似ている。同一人物だろうか?

★ヘレナ・ロッドバードのその後

150131 Helena%20W%20Rodbard%20MD%20FACP%20MACE[1]ヘレナ・ロッドバード(Helena Wachslicht-Rodbard、約37年後の写真。出典)は、研究を辞めて臨床に進み、大成功し、米国臨床内分泌学会・会長(American Association of Clinical Endocrinologists)など数々の要職を果たした。

★フェリッグ教授のその後

1980年11月、イェール大学医学部は 3か月の苦痛の審査の後、フェリッグを終身在職権を与えられた教授として再雇用した。ただし、学内の力、研究界での勢力は、かつてとは比べものにならないほど小さいものになってしまった。

【論文数と撤回論文】
パブメドhttp://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmedで、ヴィジェイ・ソーマン(Vijay Soman)の論文を「Soman V[Author]」で検索すると、1973年~1980年の8年間の22論文と2013年の1論文がヒットした。2013年の論文は本件とは異なる研究者の論文と思える。

2015年1月24日現在、22論文中の11論文が撤回されている。11論文中の8論文はフィリップ・フェリッグ(Philip Felig)と共著である。

1977年 2報発表 1報撤回
1978年 5報発表 5報撤回
1979年 5報発表 1報撤回
1980年 8報発表 4報撤回

以下は最新と最古の撤回論文各1報である。

最新(1980年)

最古(1977年)

【事件の深堀】

★常習

日本学術会議会長・金澤一郎が2009年7月3日に講演で述べているように、ソーマン事件は論文盗用事件だと思われている面もある。

だから、論文盗用事件だけだと思っていた時、白楽は、どうしてこんな単純な盗用をしたのだろうと不思議に思った。

つまり、他の研究者の論文原稿を盗用したわけだが、原稿には著者がいる。査読段階で発覚したのはタマタマだが、出版されたら、糖尿病研究という狭い領域なので、元著者からクレームがつくのは明白だ。それなのにどうしてこんな盗用をしたのだろう?

冷静に考えれば身の破滅を招くのは必至だ。そう考えると、ソーマンは1980年の盗用が初めての不正ではないと推察できた。今までにも、他人の成果を自分のものにすることをしてきたに違いない。いろいろな不正を見つからないように工夫し、常習的に行なっていたに違いない、と感じた。

そして、事件をさらに調べていき、撤回論文が11報もある事実に直面し、ねつ造も発覚し、論文盗用が1件だけの事件ではないことがわかってきた。

1976年(32歳)でイェール大学の助教授になって、最初の盗用が発覚する1980年(36歳)までに20論文発表しているが、その内11論文が撤回されていた。最古の撤回論文は1977年に発表しているねつ造論文である。ちゃんと調べれば、もっと古い論文にも研究ネカトは見つかるに違いない。

最初から不正にまみれた研究人生を歩んできていたのだ。

【防ぐ方法】

《1》 インド出身研究者に注意

人種差別的発言はしてはならないが、事実として、記載する。

インドで生まれ育って、大学院・研究初期で米国にきた研究者に「研究上の不正行為」者が多い。このキャリア・コースの研究者は要注意である。しかも、不正行為は堂々として、大胆である。

このキャリア・コースの研究者は米国人著名研究者に気に入られる要素が多いのだろう。多分、英語は流暢で、頭脳明晰、服装は整い、態度には礼節がある。米国人著名研究者はすっかり信用してしまう。

しかし、多くの「研究上の不正行為」者は、最初から、だます。

インドでは裕福な家庭に育っているのだろうが、インドの文化が、不正をしてでも成功することを優先しているように思える(白楽はインド文化を十分理解していないが・・・)。

《2》 不正の初期

「研究上の不正行為」は、初めて不審に思った時、徹底的に調査することだ。

ソーマンの場合、監査役のジェフリー・フライヤーが3時間監査しただけでデータねつ造が発覚している。上司のフェリッグ教授が、時々、ソーマンに診察記録、データシート、実験ノートをもってこさせ、データの整合性をソーマンと突き合わすべきだった。これは、1回に1~2時間かかるが、重要な作業だ。学会発表や論文原稿をまとめ始める前、あるいは、数か月に一度はすべきだろう。白楽は、研究室の学生・院生と最低でも毎週一度、一対一でデータ検討会を行なってきた。

そういうデータ検討会でデータと分析を確認していれば、研究ネカトを初期に発見できる。というか、そのような状況なら、部下は研究ネカトをしない・できない。

データ検討会をしないのはとても不思議である。

【白楽の感想】

《1》 当時、白楽は近くにいた

1980年3月から2年間、白楽はベセスダのNIH・国立がん研究所のポスドクだった。同時期、東大・第三内科から糖尿病研究者の春日雅人(かすが まさと、現・国立国際医療研究センター総長)がジェシー・ロス(Jesse Roth)の研究室のポスドクだった。

インネンは知らないが、春日さんは、白楽がいたケン・ヤマダ研究室でインスリン受容体のウエスタンブロットの実験をしていた。素晴らしいスピードで習得していったが、当時、彼は基礎的実験法に疎く、白楽が手ほどきした覚えがある。白楽は春日さんとの共著論文もある。

しかし、春日さんの本来の所属研究室・ジェシー・ロス(Jesse Roth)研究室でこんな事件が起こっていたとは、いままで、全く知らなかった。当時、春日さんも何も言わなかった。なんとも不思議な縁である。

《2》 管理者の問題

今回の事件の流れでわかるように、若い女性ポスドクのロッドバードの糾弾に、上司のロス部長、相手のフェリッグ教授、バーリナー医学部長は、事実を究明し問題を解決することよりも、通報者を脅し、臭いものにフタをし、退職させることに汲々としている。つまり、事件を握りつぶそうとしている。

地位と権力を握る多くの人は同様の行為をする。

この志向が諸悪の根源である。このような人が地位と権力を握る人事制度が腐敗をもたらす。この人事文化もなんとか変えないとマズイ。

ロッドバードのような公益通報が陽の目を見る割合は、データを持っていないが、推察では、10件の内1件か100件の内1件ではないだろうか?

最大の阻害因子は、偉い人が事件を握りつぶす行為である。

《3》 マスメディアの問題

今回、1981年のニューヨーク・タイムズの記事(主要情報源①)を元に書いたが、単なる新聞記事なのに、事件の詳細が冷静で克明に記述されている。本人だけでなく、関係した教授・学科長・学部長にも取材して、事実を記載している。素晴らしい資料で、事件の問題点や再発を防ぐヒントもたくさんある。学術論文並みの重要さだ。

ひるがえって、日本では、マスメディアにこのような記述がほとんど見当たらない。今後も期待できない。マスメディアが書かないなら研究者が事件を分析してもいいのだが、研究規範の研究者はあまりいないから、学術論文としての事件分析はほとんどされない。日本には研究公正局がないから、詳細な調査もない。

これらを変えないとマズイ。

【主要情報源】
① ◎1981年11月1日の「ニューヨーク・タイムズ(The New York Times)」記事:A FRAUD THAT SHOOK THE WORLD OF SCIENCE – NYTimes.com
② オーブリー・ブラムゾーン(Aubrey Blumsohn)のフィリップ・フェリッグ(Philip Felig)事件のサイト:Scientific Misconduct Blog: Memory Hole (1 November): The case of Philip Felig