エリアス・アルサブティ (Elias Alsabti)(米)改訂

2018年10月13日掲載

ワンポイント:【長文注意】。21~22歳でイラクで医師免許を取得し、ヨルダンを経て、1977年9月(23歳)に米国に留学し、テンプル大学やジェファーソン医科大学を転々とした。1978-79年(24-25歳)に米国で出版した約60報の全論文が盗用論文とみなされている。国民の損害額(推定)は10億円(大雑把)。この事件は、白楽指定の重要ネカト事件である:約60論文をそっくり盗用した大規模な盗用事件で、米国社会を本気でネカト対策に取り組ませた有名な大事件の1つである。

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目次(クリックすると内部リンク先に飛びます)
1.概略
2.経歴と経過
3.動画
4.日本語の解説
5.不正発覚の経緯と内容
6.論文数と撤回論文とパブピア
7.白楽の感想
8.主要情報源
9.コメント
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●1.【概略】

エリアス・アルサブティ (エリアス・アルサブチ、 Elias Alsabti、写真出典(保存版))は、21~22歳でイラクで医師免許を取得し、ヨルダンを経て、1977年9月(23歳)に米国に留学した。能力不足と虚偽のため所属研究室を追放され、テンプル大学やジェファーソン医科大学を転々とした。

1978-79年(24-25歳)に約60報の論文を発表した。しかし、ほぼ全部、他人の論文の著者名・所属だけを自分の名前・所属にすり替えた盗用論文だったことが、数年内に暴かれた。

アルサブティ事件は論文盗用の代表例とされるが、この方式の盗用は、盗用事件の中では少数である。

1980年(25歳)、この年、アルサブティ の論文盗用がはじめて発覚した。米国・ジェファーソン医科大学のウィーロック研究室の院生が、チェコスロバキアの学術誌「Neoplasma」にアルサブティが1979年に出版した論文が盗用だと気が付いた。

1980年6月27日(25歳)、ウィリアム・ブロード記者(William J. Broad)が「サイエンス」誌にアルサブティの論文盗用事件を記事にした。

1982年(27歳)、ウィリアム・ブロード記者らの著書『Betrayers of the Truth』、また、デビッド・ミラー(David J. Miller)らの著書『Research Fraud in the Behavioral and Biomedical Sciences』がアルサブティの約60報の論文盗用事件を詳細に記載し、世界の科学界に衝撃を与えた。

1979年5月(24歳)、論文盗用が発覚する前に、アルサブティは米国で医師免許証を取得した。

論文盗用が発覚した後は米国で臨床医として働くが、勤務先の病院で過去に犯した論文盗用が非難され、米国内の病院を転々とせざるを得なかった。

1990年9月(36歳)、南アフリカで自動車事故で死亡した。

エリアス・アルサブティのウェブ上の写真・記録はほとんど見つからない。1980年代の事件なので、インターネットはまだ発達していない。また、古い事件なので記事・記録は削除されたと思われる。一般的に、不正行為をした研究者の写真や活動記録は、削除されることが多い。それで、事実を把握しにくくなる。

米国・テンプル大学(Temple University):FLYING A DRONE OVER TEMPLE UNIVERSITY with Taylor Sison

  • 国:米国
  • 成長国:イラク
  • 博士号取得:博士号を取得していない。しかし、アルサブティは、ある時点から履歴書に博士号所持者と記載している
  • 男女:男性
  • 生年月日:1954年7月31日
  • 没年月日:1990年9月(36歳)。交通事故
  • 分野:がん学
  • 最初の不正論文発表:1978年(23歳)
  • 発覚年:1980年(25歳)
  • 発覚時地位:米国・病院の研修医
  • ステップ1(発覚):第一次追及者は米国・ジェファーソン医科大学のウィーロック研究室の院生
  • ステップ2(メディア): 「サイエンス」誌のウィリアム・ブロード記者(William J. Broad)
  • ステップ3(調査・処分、当局:オーソリティ):①
  • 大学・調査報告書のウェブ上での公表:なし
  • 大学の事件への透明性:実名報道だが大学のウェブ公表なし(△)
  • 不正:盗用。経歴詐称
  • 不正論文数:撤回論文数は1報。盗用は、米国での1978-79年の約60報の全論文と思われる
  • 時期:研究キャリアの初期から
  • 職:事件後に研究職(または発覚時の地位)をやめた・続けられなかった(Ⅹ)。
  • 処分:いくつかの州の医師免許が取り消された
  • 日本人の弟子・友人:不明

●2.【経歴と経過】

【中東時代】

自分の履歴書まで他人の履歴書を盗用していたというから、以下の経歴もダマされている部分があるかもしれない。

★イラク、ヨルダンでの青年期

  • 1954年7月31日:イラクのバスラで生まれる
  • 1971-1974年(17-20歳):イラクのバスラ医科大学(Basrah Medical College)で、アル‐サヤブ(Al-Sayyab)博士の指導で、がん研究を学ぶ
  • 1975年6-10月(21歳):英国・ロンドンのウェストミンスター病院、夏季研修
  • 1975年(21歳):ある種のがんの診断法を発見した。政治組織(バアス党)に取り入り、バグダード大学医学部の5年生に編入し、自分の研究室を開設してもらう。がん診断法を開発し、イラク大統領のアフマド・ハサン・アル=バクル(Ahmed Hassan al-Bakr、在位;1968年 – 1979年)に因み「バクル(Bakr)」法という名称にした。
  • バグダード大学医学部(College of Medicine University of Baghdad)を卒業し、医師免許を取得した、と本人が公言していたが、真実かどうか不明。ウィリアム・ブロード(William J. Broad)が、バスラ医科大学とバグダード大学に何度か電話し、医師免許取得を確認しようとしたが、回答は得られなかった。
  • 1977年(23歳):患者の血液検査で検査料を受け取った。社会主義国家・イラクでは、政府資金で運営している研究所で検査料を徴収するのは違法行為だった。それで、イラクを追われ、サウジアラビアを経由して、ヨルダンに逃げた。
  • 別の資料によると、患者から検査料を受け取るのは違法ではない。血液を採取したのに検査しないで検査料を徴収したり、治療費を横領したためにイラクを追われたという記述もある。こちらの方が正しそうだ。
  • 方法は不明だが、ヨルダン国王(フセイン1世、在位:1952年- 1999年)と弟のハッサン皇太子(Crown Hassan Prince of Jordan)の知己を得る。
  • ハッサン皇太子はアルサブティに、住居、車、金、研究所(「Albaath Specific Protein Reference Unit」と命名)を与え、首都アンマンのフセイン王医療センター(King Hussein Medical Center)でがん研究を続けさせた。

【米国でがん研究者の道を模索】

★米国・フィラデルフィア・テンプル大学 1か月

  • 141211 Jump_HermanFriedman1977年(22歳):ハッサン皇太子の支援で、ベルギー・ブリュッセルの国際学会に出席した。そこで、米国・テンプル大学(Temple University)の微生物学者・ハーマン・フリードマン(Herman Friedman、写真出典)に会い、自分は、ヨルダン王族の1人で、がん研究者だが、フリードマン研究室で研究したいと伝える。
  • アルサブティは、ヨルダン政府から、月額3,000USドル(約30万円)支給の約束と米国への旅行ビザを入手した。
  • 渡米にあたり、フリードマン教授(Herman Friedman)ではなく、テンプル大学事務局と手紙のやり取りをした。
  • 1977年9月22日(23歳)、米国・フィラデルフィア・テンプル大学のフリードマン研究室に事前の連絡もなしに訪問した。突然の来室に、フリードマン教授は驚いたが、無給ボランティア研究員として研究室員になることを認めた。
  • ある日、アルサブティは、フリードマン教授のオフィスに行き、ヨルダンで研究していた論文を見せ、「ヨルダンで白血病の新しいワクチンを開発し、150人の患者の命を救った」と話した。アルサブティは、白血病患者の治療経過を6か月しかみていなかったと、フリードマン教授に話した。フリードマン教授は、白血病の治療に6か月以上かかるので、アルサブティが白血病治療の基本を知らないことを悟った。また、生命科学の基礎知識の質問に、アルサブティはとんでもない答えをした。ワクチンを開発した話も嘘に違いないと考えた。
  • フリードマン教授は、アルサブティがウソつきで、研究の基本を知らないと判断し、アルサブティに研究室を退去するように伝えた。
  • アルサブティは、結局、フリードマン研究室に1か月強滞在し、退去させられた。
  • 1977年10月31日(23歳)、テンプル大学はヨルダン政府・厚生長官に彼を退去させると伝えた。ヨルダン政府から謝罪の返事がきた。

★米国・フィラデルフィア・ジェファーソン医科大学 5か月

上記の数日後、アルサブティはジェファーソン医科大学(Jefferson Medical College)で研究を始めた。

  • 1977年11月~1978年4月(23歳):フィラデルフィアのジェファーソン医科大学の微生物学者・フレデリック・ウィーロック(Frederick Wheelock)の研究室で研究を始めた。
  • ウィーロック教授は、ヨルダン王族の優秀な若者が研究者になりたいと米国に来たが、米国の事情に疎いために、テンプル大学で公正な扱いを受けなかったと考えた。自分の研究室では、アルサブティを温かく迎えてあげようと思った。正式な院生ではなかったが、大学院の授業を受講できる配慮もした。
  • しかし、アルサブティの知識と技術はウィーロック教授の期待値のはるか下だった。アルサブティは、実験手技をほとんど知らなかった。マウスに注射できないし、液体シンチレーションカウンターも使えなかった。
  • 1978年4月(23歳):ウィーロック研究室でデータねつ造したのが2人の研究室員に見つかり、ウィーロック教授に研究室を去るよう宣告された。滞在期間は5か月だった。

★米国・テキサス州立大学エム・ディー・アンダーソンがんセンター 6か月

上記の5か月後。

  • 1978年9月(24歳):テキサス州立大学エム・ディー・アンダーソンがんセンター(The University of Texas MD Anderson Cancer Center)のジオラ・マブライト(Giora M. Mavlight)研究室で研究を始めた。
  • 1979年2月(24歳):エム・ディー・アンダーソンがんセンターを去る。滞在期間は6か月だった。

★ヨルダン政府

1979年2月(24歳)、ヨルダン政府はエリアス・アルサブティへの苦情が多数寄せられていたので、彼を見限り、財政的な支援を打ち切った。

在米ヨルダン大使館の代理大使・シャーア・バク(Shaer Bak)は、「米国がアルサブティに法的処置をとるなら、それを歓迎する」と表明した。

★結婚

1979年2月14日(24歳)、テンプル大学のハーマン・フリードマン研究室の実験助手だったロビン・カッツ(Robin B. Katz, または Robin B. Kahn)とテキサス州で結婚し、テキサス州ヒューストンで暮らした。彼の研究キャリアへの妻の影響は不明。

【米国で臨床医の道を模索】

1979年(24歳)、エリアス・アルサブティは、がん研究者への道をあきらめ、米国で内科医へと転身する道を模索し始めた。

最初に比較的長期間勤務した病院をリストする。

  • 1982-1989年(26‐33歳)、ペンシルバニア州のグリーンスバーグで内科医院を開業した。7年間。
  • 1982年6月-1986年6月(26‐30歳)、ペンシルバニア州のジーネッテ記念病院(Jeannette Memorial Hospital)で内科医として勤務。4年間。
  • 1982年6月-1988年(26‐32歳)、ペンシルバニア州のモンソワ医学センター(Monsour Medical Center)で内科医として勤務。6年間。
  • 1983年7月‐1989年4月17日(28‐34歳) ピッツバーグのオハイオ・バレー総合病院・救急治療室の内科医として勤務。6年間

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1979年(24歳)、米国で内科医へと転身する道を模索し始めた時点に戻って話を進めよう。

  • 1979年5月(24歳)、アメリカン・ユニバーシティ・オブ・ザ・カリビアン(ACU:American University of the Caribbean)で米国の医師免許を取得した。この大学は、アメリカの大学で医師免許が取得困難な人が最後の頼みの綱とする大学だと評されている。
  • なお、エリアス・アルサブティは、イラクの医科大学で医師免許を取得したと主張してきたが、医師免許証を見た米国人はいない。もっとも、イラクの医師免許は米国でそのまま通用しない。日本の医師免許も米国でそのまま通用しない。

★ウィリアム・ブロードの「サイエンス」記事出版

1980年6月27日(25歳)、ウィリアム・ブロードが「サイエンス」に「エリアス・アルサブティ(Elias Alsabti)」の名前入りで、論文盗用事件を記事にした。

  • William J. Broad 「Would-Be Academician Pirates Papers」、 Science Vol. 208 no. 4451 pp. 1438-1440、27 June 1980

★米国 臨床医の続き

  • 1980年6月16日(25歳)、ヴァージニア大学(University of Virginia)のロアノーク・ベテランズ・アドミニストレーション病院(Roanoke Veterans Administration Hospital)で内科研修医として働き始めた。
  • 働き始めて間もなく、病院事務員は、1980年6月27日号の「サイエンス」誌の記事に気がつき、アルサブティに不正嫌疑を突きつけ(アルサブティは否定)、臨床の仕事と患者のケアを停止させた。
  • 1980年7月2日(25歳)、ヴァージニア大学の病院を辞職した。在職は1か月未満
  • 1980年7月10日(25歳)、ヴァージニア大学の病院辞職の8日後、マサチューセッツ州のボストン大学・カーニー病院(Carney Hospital)に研修医として移籍した。カーニー病院は採用時に、アルサブティの不祥事を知らなかった。
  • 1980年10月3日(26歳)、カーニー病院も1980年6月27日号の「サイエンス」誌の記事を読んで、彼を停職処分にした。
  • 1980年10月7日(26歳)、カーニー病院を辞職した。在職は約3か月だった。
  • 英国、米国・フロリダ、インディアナ州を旅行した。
  • 1981年5月1日 – 1982年1月29日(26 -27歳)、ペンシルバニア州のモンソワ医学センター(Monsour Medical Center、現在閉鎖)で研修医を務める。在職は約9か月だった。
  • 1981年10月(27歳)、米国・マサチューセッツ州の医師免許を得た。
  • 1982年4月21日(26歳)、米国・ペンシルバニア州の医師免許を得た。アーカンソー州、ネブラスカ州、ワシントン州の医師免許も申請した。
  • 1982-1989年(26‐33歳)、ペンシルバニア州のグリーンスバーグで内科医院を開業した。7年間。
  • 1982年5月13日(26歳)、米国・ワシントン州の医師免許認可局は、「アルサブティの研究規範と信頼性に関する問題記事を同封し、アルサブティに、医学教育と臨床経験を問い合わせたら、本人が医師免許申請を撤回した」と、連邦政府の州医師免許評議会に連絡した。
  • 1982年6月-1986年6月(26‐30歳)、ペンシルバニア州のジーネッテ記念病院(Jeannette Memorial Hospital)で内科医として勤務。在職は4年間だった。
  • 1982年6月-1988年(26‐32歳)、同時に、ペンシルバニア州のモンソワ医学センター(Monsour Medical Center)で内科医として勤務。在職は6年間だった。
  • 1983年(28歳)、米国国籍を得た。
  • 1983年7月‐1989年4月17日(28‐34歳) ピッツバーグのオハイオ・バレー総合病院・救急治療室の内科医として勤務。在職は約6年間だった。
  • 1986年1月2日(31歳)、米国・マサチューセッツ州の医師免許が取り消された。ボストン大学・カーニー病院(Carney Hospital)に研修医として勤めた時に履歴書にねつ造があったからだ。
    医師免許取消は一度無効になったが、1988年2月に再度取り消された。
  • 1986年12月10日(32歳)、米国・ペンシルバニア州は、ペンシルバニア州事務官はワシントン州の手紙を知っていたが、1982年4月21日(26歳)に付与したアルサブティの医師免許を更新した。
  • 1989年3月6日(34歳)、過去に論文盗用したことで、ペンシルバニア州の医師免許が取り消された。(1989年3月6日の「ゲティスバーグ」紙記事:Gettysburg Times – Google News Archive Search)。
  • 上記のゲティスバーグ紙の記事で、アルサブティは、「自分のしたことは論文盗用だったが、当時、研究とはどうあるべきかを知らなかった。今、臨床医として誠実に勤めているし、過去に犯した間違いも償っている」と述べている。「病院は以前から、私の過去の間違いを知っていたと思う。それでも、病院のみんなは協力的でした」と述べている。
  • 1989年4月17日(34歳) ピッツバーグのオハイオ・バレー総合病院を辞職した。

【経歴:死亡】

1990年9月(36歳)、南アフリカで自動車事故で死亡した。

但し、1991年4月時点では、南アフリカ政府の死亡証明書は入手できていない。偽装かもしれないという記述もある。

●4.【日本語の解説】

★2009年7月3日:日本学術会議会長・金澤一郎の講演

日本学術会議会長・金澤一郎が2009年7月3日の講演(リンク切れ)で述べている。

イラクのアルサブティという人であります。母国でも詐欺まがいの事件をいろいろと起こした人だそうですが、危うく捕まりそうになったので、隣のヨルダンに逃げ出します。そして、そこで嘘に嘘を固めてハッサン皇太子を信用させて紹介状を書いてもらったのだそうです。それを持ってアメリカに逃れまして、テンプル大学に潜り込んでたくさんの論文を書きます。ところが、その論文たるや架空の共同研究者との連名で、あまり読まれない論文をそのまま書き写して、それも無名の医学雑誌に投稿し続けるわけです。そして論文だけは増えて行く。ところが流石に告発されて1980 年に消息を絶ったと言われています。(2009年7月3日

日本学術会議会長が言うと、説得力が強い。しかし、間違いがある。読者は注意してほしい。例えば、上記に「1980 年に消息を絶った」とある(情報源は不記載)。私の記事を読めばおわかりになるように、消息を絶っておりません。

★日本語版ウィキペディア

出典 → エリアス・アルサブティ – Wikipedia

日本語版ウィキペディアによるとエリアス・アルサブティ(Elias Alsabti)は以下のようだ。

アルサブティは研究不正によって自身のキャリアを構築した。イラクで医学生だった頃、癌の研究者としての評判を得た。彼はあまり有名でない学術誌に掲載された他人の論文を盗用し、それを別の学術誌に投稿するという手口で研究業績を稼いだ。またヨルダン王室の一員のふりをすることにより、ヨルダン政府から多くの奨学金を受け取った。1977年にアメリカ合衆国に移住した。1970年後半、彼に専門知識や理解が完全に欠如していることが露呈するまで、アルサブティはアメリカの様々な研究施設で癌の専門医として働いていた。彼は数年の間に50件から60件ほどの剽窃論文を出版したと推定されている。その多くは評判の良い学術誌に掲載されたが、多くの場合、それらの論文には彼との共著以外では論文を発表していない共著者がおり、これらの共著者は実在しないのではないかという疑惑を持たれている。

いくつかの雑誌は、これらの研究不正が明らかになった後にアルサブティの論文を削除した。1988年にはアルサブティのマサチューセッツ州における薬物処方のライセンスが取り消された。

★2016年4月19日出版:黒木登志夫『研究不正』 (中公新書)(無料閲覧できません)

エリアス・アルサブティ(Elias Alsabti)事件は、30‐35頁に記載されている。以下は、30頁と31頁。残りは書籍(有料)をご参照ください。

●5.【不正発覚の経緯と内容】

【不正研究発覚の経緯】

★論文盗用の全体像

ウィリアム・ブロードの1980年の記事(主要情報源②)で、アルサブティは、1978-79年(24-25歳)に約60報の論文を発表したとある。それで、これらの約60報の論文のすべてが盗用だと理解されている。盗用だと証明はされていない(と思う)。

論文盗用の基本的方法は、他人の研究費申請書と出版論文(あるいは未出版の原稿)をタイプし直し、論文タイトルを変え(→ 論文タイトルが異なると同じ論文と思われない)、著者を自分の名前に変え、架空の共著者を加える(推定)。加えた共著者に、A,M.Taleb, K.A.Saleh, A.S.Talatなどの名前があるが、これら共著者の他の論文は見つからないことから、共著者は架空人物だと推定された。

そして、多くの研究者が読まない比較的無名な研究雑誌に投稿する。さらに、所属先をヨルダン王立科学協会やイラクの研究室にすることで、米国で所属していた研究室のボスや同僚は気がつかない。

アルサブティが1年間に盗用論文を60報出版したとすると、これはかなり重労働である。スキャナー、パソコン、ワープロがない時代なので、毎週1報以上出版したペースは、単純にタイプし直すだけでも、大変な労力だったに違いない。それに、投稿すれば自動的に出版されることはなく、出版まで、出版社と数回やり取りし、時間がかかる作業が必要だ。

★論文盗用例その1

1978年4月(23歳)、アルサブティはジェファーソン医科大学のウィーロック研究室を去った。その時、ウィーロックの研究費申請書と論文原稿をコピーして持ち出したと思われる。

約2年後の1980年(25歳)、ウィーロック研究室のめざとい院生が、チェコスロバキアの研究雑誌「Neoplasma」にアルサブティの以下の論文を見つけた。

驚いたことに、その論文は、米国の他の研究雑誌「J Cancer Res Clin Oncol.」のアルサブティの論文と酷似していた。

論文中の図と文章は、ウィーロックの研究費申請書と論文原稿から盗用したものだった。

★論文盗用例その2

1979年(24歳)、カンサス大学・院生のダニエル・ウィールダ(Daniel Wierda)は博士論文をまとめて、研究雑誌「European J. Cancer」誌に投稿し、発表した。

1980年4月9日、米国・化学工業毒性学研究所(Chemical Industry Institute of Toxicology:CIIT)のポスドクになっていたウィールダは、「European J. Cancer」のタグノン(Tagnon)編集長から手紙をもらった。

手紙には、あなたが「European J. Cancer」誌に発表した上記の論文は、以下の「Jpn J Med Sci Biol」のアルサブティ論文と同じです、と。

驚いたウィールダは急いで図書館に行き、「Jpn J Med Sci Biol」のアルサブティ論文と自分の論文を見比べた。

ナント、著者名と論文タイトルこそ違うが、図、文章の一字一句、内容のすべてが同じだった。しかも、アルサブティ論文は4月号(1979年6月11日出版)で自分の論文は8月号である。アルサブティ論文の方が早く出版されているので、自分がアルサブティ論文を盗用したと疑われる。

1980年5月2日、ウィールダはタグノン(Tagnon)編集長に、「とても驚きました。全く同じ内容です。しかし、自分は盗用していません。どうしましょう? ご指示ください」と伝えた。

1980年5月9日、タグノン(Tagnon)編集長は、ウィールダに状況を説明した。「ウィールダさんの原稿は1978年10月20日に米国内の2人の査読者に送付した。その査読者の内の1人であるエム・ディー・アンダーソンがんセンターのジェフリー・ゴットリーブ(Jeffery Gottleib)は3年前の1975年7月に亡くなっていた。申しわけないが、査読依頼時に、死亡に気がつかずに、原稿を送付した。そして、送付した原稿は戻ってきていない」。

アルサブティが、査読用に送付された原稿をジェフリー・ゴットリーブの郵便受けから盗み取り、原稿の著者名を自分の名前に変え、論文タイトルを変え、「Jpn J Med Sci Biol」に投稿したに違いない。

1980年5月21日、ダニエル・ウィーダは「Jpn J Med Sci Biol」の編集長に事情を説明し、アルサブティの論文を撤回するように依頼した。

その後、「Jpn J Med Sci Biol」の編集長は依頼された論文を撤回した。

●6.【論文数と撤回論文とパブピア】

2018年10月12日現在、パブメドhttp://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmedで、エリアス・アルサブティ(Elias Alsabti)の論文を「Alsabti E[Author]」として検索すると、1977年~1980年の4年間の34論文がヒットした。26報が1979年出版である。7報が日本のジャーナル「Jpn J Exp Med」である。

2018年10月12日現在、「Alsabti E[Author] AND Retracted 」でパブメドの論文撤回リストを検索すると、下記の1論文が撤回されていた。

なお、「Jpn J Med Sci Biol.」は日本の国立感染症研究所が発行する隔月学術誌で、組織名の変更に伴い、1999年に「Japanese Journal of Infectious Diseases (JJID)」と雑誌名が変更されている。

★パブピア(PubPeer)

省略。

【事件の深堀】

★盗用論文数

アルサブティの盗用論文数は約60報と想定されるが、上記のようにパブメドではアルサブティの論文は全部で34報しかない。しかも撤回論文は1報である。

盗用かどうかは別にして、アルサブティの約60報の論文をどうやって確認したのだろう?

ウィリアム・ブロードの1980年の記事(主要情報源②)に、アルサブティは、主に1979年に60報以上の論文を発表したとある。ここが原典に違いない。

では、ウィリアム・ブロードは盗用論文をどのようにカウントしたのか? 当時、インターネットで論文を検索するシステムはない。パブメドもない。「インデックス・メディカス(Index Medicus)」という紙媒体の書誌情報誌で見つけたと書いてある。

当時、パブメドの前身の書誌情報データベース「Medline」はオンライン検索サービスができた(1971年10月~)。がん研究に特化した書誌情報データベース「Cancerlit」(1963 年~)もあった。

それらで、アルサブティの論文を調べることはできるが、それらがどの論文の盗用であるかを書誌情報データベースからは調べることはできない。盗用検出ソフトは2006年頃、開発されたのだ。

だから、約60報の論文を確認しても、盗用と判定できたのは、全部ではない。「主要情報源①」によると、盗用と判定できたのは7報で、残りの約53報は盗用「疑惑」だとある。

★撤回論文は1つ

盗用論文数が7報で約53報は盗用「疑惑」だとしよう。しかし、パブメドでみる限り、撤回論文は1つしかない。

本記事で述べたように、以下の2論文は、盗用とされている。

しかし、論文は撤回されていない。

出版社(出版学会)は、盗用論文だとわかっていても、論文を撤回しない場合がかなりある。

日本のジャーナル「Jpn J Exp Med」に、アルサブティの論文が7報ある。7報の内、1報も撤回されていない。7報は盗用ではないのか? 盗用論文かどうか調査しなかったのか? 盗用論文だとわかっていても、論文を撤回しなかったのか? ナントも不思議である。

と思って、調べると、「Jpn J Exp Med」は1990年に廃刊になっていた。廃刊10年前の1980年頃にアルサブティの論文盗用が学術界をにぎわしていた。どうして気が付かなかったのか? そのころ既に編集活動は低迷していたのかもしれないが、編集者失格である。

廃刊したジャーナルはあきらめるとしても(イヤイヤ、組織を作って撤回すべきだ)、廃刊していないジャーナルは、盗用論文を撤回する義務と責任がある。

そもそも、こんなに有名な事件なので、アルサブティの論文は全部盗用論文だと思わないのだろうか? それとも、盗用論文だとわかっていても、論文を撤回しないのか?

研究者が盗用論文は発表することは重大な研究違反行為だが、ジャーナルが盗用論文を撤回しないのもジャーナルとして重大な研究違反行為である。ある意味、現在も違反し続けている共犯者という見方もできる。

盗用書籍なら、出版社は回収し販売中止するだろう。ジャーナルも直ちに論文撤回すべきだろう。

●7.【白楽の感想】

《1》青年期の師の重要性

アルサブティの行為は、論文盗用が有名だが、履歴も偽造している。いろいろ盗用する詐称者(impostor)が適切かもしれない。

成長期に、研究のあり方を間違って習得し、また研究者の生き方も間違って身につけたと思える。

アルサブティが研修医として勤めたボストン大学・カーニー病院のスポークスマンは「アルサブティは良い研修医だった」と述べている。モンソワ医学センターの関係者も「彼は、ここでは実験研究をしなかったが、よい内科医だった。患者への対応マナーは優れていて、いつもきちんとした恰好をし、金銭的にも裕福に見え、患者は彼を「グッチ先生」と呼んでいた」と述べている。

研究も臨床も熱心でハードワーカーだったというから、成長期にまともな研究観と人生観を形成していれば、幸福な人生を送れたのではないだろうか。

研究観の形成は、青年期に初めて研究世界に入った時の師がきわめて重要で影響力が大きい。17-20歳の時、イラクのバスラ医科大学でがん研究を学んだ師・アル‐サヤブ(Al-Sayyab)博士が教えるべき立場の人だった。とはいえ、アル‐サヤブ(Al-Sayyab)博士自身が品行下劣な人物だったようで、なんともはやである。

重要な教訓は、「弟子に重要なことは、優れた師を選ぶこと」である。天野 浩は赤崎 勇を師に選んだから、54歳でノーベル物理学賞(2014年)を受賞したのである。

そして、米国に最初に滞在したテンプル大学の微生物学者・ハーマン・フリードマン(Herman Friedman)も悪かったのだと思う。

生命科学がとても貧弱な中東の発展途上国からやって来た若干23歳の青年が、「生命科学の基礎知識」を少しぐらいどころか、かなり知らなくても、仕方ないと考えないのであろうか?

フリードマンは期待しすぎだ。大学は教育機関なので、1か月で追い出さないで、自分の研究室でアルサブティを躾ければ、その後のアルサブティ事件はなかったハズだ。

フリードマンは、発展途上国から来た若者への配慮に欠けていた。アルサブティが突然やって来た1977年9月22日はフリードマンの46歳の誕生日だった。誕生日に突然来訪したのは、フリードマンにもアルサブティにも不運だったに違いない。

そして、翌1978年、フリードマンはテンプル大学からサウスフロリダ大学(University of South Florida)に移籍している。アルサブティがフリードマン研究室に滞在した頃、フリードマンは移籍に忙殺され、余裕がなかったのだろう。

経歴をみると、アルサブティは頭脳明晰で行動も大胆である。臨床医としての勤務態度は優れていたという証言もあり、資質は良いものを持っていたのに違いない。

《2》メディアの過剰さ

アルサブティ事件の解明は、1980‐1982年に詳細に追ったウィリアム・ブロード(William J. Broad) に大きな功績がある。彼の記事や書籍がその後のアルサブティ事件の基本情報になっている。

141211 bill-broad-articleInline[1]ウィリアム・ブロード(写真出典)は、1986年と1987年の2度のピューリッツァー賞、2002年にエミー賞、2007年にデュポン賞を受賞した。それら受賞対象は宇宙科学などネカトとは別の報道だが、米国社会では優れた科学ジャーナリストとして認められている。

しかし、アルサブティの記述に関して言えば、アルサブティを悪者にし、事件をあおっている印象がある。アルサブティに「報道刑」を課している。まあ、そういう記事を書かなければ、記事は売れないし、科学ジャーナリストとして認められない。優れた記事を書くことよりも、売れる記事を書くことが、科学ジャーナリストとして認められる道である。

つまり、100人が心酔して各100回読む濃厚な記事よりも、1万人が1回読む軽いセンセーショナルな記事の方が100倍儲かる。だから、アルサブティを悪者にし、事件をあおってしまうのだ。このメディアの問題をなんとかできないものだろうか。

職業記者ではない人が、無報酬でウェブ発信するのは解決法の1つだろう。我田引水になるが、白楽のここでの記事は、バナー広告はなく、白楽が金銭的に収入を得る意図は全くない。そういうスタンスで白楽は「研究者の事件」を書いている。

研究者が専門知識・情報を国民に伝えるシステムには改革が必要だろう。

《3》ネカト者の職業

アルサブティはネカトをしたことで、臨床医としての資格をはく奪された。ネカト者は、臨床医として不適格か? 研究ネカトは道徳と言うより研究規範の問題なので、医師免許は取り消されなくても良いように思う。「研究」規範と「医療」規範は異なるからである。ただ、人間としての道徳面に問題があれば、大学教授、教員、医師などの職業は不適格だろう。

日本では、研究ネカトや研究クログレイで大学・研究職を辞職しても、医師免許は取り消されないことが多い。医師として勤務し続ける人は多い。大学教授や研究職をし続ける人も多い。

では、ネカト者は、発覚後、何を職業としてはいけないか? 白楽は、「研究」はしてはいけないと思う。また、研究者を育成する「大学教授」はどうだろうか? 否定的である。「医師」は境界線上である。研究ネカトを犯した人のその後の職業は、何が良くて何が悪いか、一度、考えるべき問題だ。

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●8.【主要情報源】
① 141211 research-fraud-in-the-behavioral-and-biomedical-sciences[1]◎英語版ウィキペディア(最新版より旧版が良い):Elias Alsabti – Wikipedia, the free encyclopedia
② William J. Broad (1980). “Would-Be Academician Pirates Papers: Five of his published papers are demonstrable plagiarisms, and more than 55 others are suspect”. Science 208 (4451): 1438?1440. doi:10.1126/science.208.4451.1438. PMID 17796686. 。一部無料閲覧可能
③ ◎1992年書籍:David J. Miller, Michel Hersen、「Research Fraud in the Behavioral and Biomedical Sciences」、John Wiley & Sons, 1992/03/24 – 251 ページ。一部無料閲覧可能
④ 1982年書籍(写真出典):ウィリアム・ブロード(William J. Broad)、ニコラス・ウェイド(Nicholas Wade)、「Betrayers of the Truth」、Simon & Schuster。ISBN-13: 978-0671447694。
141211 71nAkax-AqL[1]日本語訳は、1988年、牧野賢治訳・『背信の科学者たち』化学同人。無料閲覧できないが、本記事に少し利用しています。
⑪ 旧版:2014年12月21日

★記事中の画像は、出典を記載していない場合も白楽の作品ではありません。

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