レオ・パケット(Leo A. Paquette)(米)

ワンポイント:研究公正局から10年間締め出し処分、科学庁から2年間締め出し処分の盗用事件。事件後も米国で研究者を続けた少数例。分野は化学だが研究公正局が扱ったので生命科学枠に書いた

【概略】
Job# 100351 MAPS, Mathematical and Physical Sciences Paquette Legacy Symposium MacPherson Rm 1015 MAY-15-2010 Photo by A.J. Zanyk The Ohio State University レオ・パケット(Leo A. Paquette、写真出典)は、米国・オハイオ州立大学(Ohio State University)・殊勲教授(Distinguished University Professor)で、医師ではない。専門は化学(有機化学)である。1,000報以上の論文出版、学術書の38章、17冊の学術書、約150人の研究博士号(PhD)輩出で、大学教授としては超優秀である。

レオ・パケットは、35歳でオハイオ州立大学の正教授に就任した。

1982年(48歳)、正12面体(Platonic solid dodecahedrane)(C20H20)を世界で最初に合成した。有機化学の歴史に残る業績である。

1984年(50歳)、米国科学アカデミー会員に選出された。オハイオ州立大学には当時、米国科学アカデミー会員は3人しかいなかった。

また、NIHや科学庁(National Science Foundation)の委員(advisory committees)も勤め、学術誌「Journal of Organic Chemistry」、「Journal of the American Chemical Society」、「Organic Syntheses」、「Organic Reactions」の編集員、「Electronic Encyclopedia of Organic Reagents (eEros)」の編集長も務め、学術社会に大きく貢献した。

1995年(61歳)から、オハイオ州立大学で「レオ・パケット遺産シンポジウム(Leo Paquette Legacy Symposium)」が毎年開催されている。

ところが、1992年(57歳)、経緯は不明だが、パケットの論文と研究費申請書に盗用が発覚した。

1993年6月25日(58歳)、研究公正局は調査の結果、パケットを盗用でクロとした。研究公正局が調査したので本ブログでは「生命科学」で扱ったが、分野は化学なので、「研究者の事件一覧(世界:自然科学・工学)の一覧表にもリストした。

なお、レオ・パケットは、研究公正局から10年間締め出し処分を受けた(10年間以上は7人しかない。「研究公正局の締め出し年数」ランキング | 研究倫理)。また、科学庁から2年間締め出し処分を受けた。締め出し処分を受けた米国の研究者なのに、その後も著名な研究者として生涯を全うした(失礼しました。2016年1月29日現在も存命です)。事件後も研究者を続けた少数例。

cbec-slide-01-680-375オハイオ州立大学の化学生物分子工学・化学棟の完成図(Chemical and Biomolecular Engineering and Chemistry (CBEC) Building)。写真出典:CBEC | chemistry.osu.edu

  • 国:米国
  • 成長国:米国
  • 研究博士号(PhD)取得:マサチューセッツ工科大学
  • 男女:男性
  • 生年月日:1934年7月15日
  • 現在の年齢:90 歳
  • 分野:有機化学
  • 最初の不正論文発表:1992年(57歳)
  • 発覚年:1992年(57歳)
  • 発覚時地位:オハイオ州立大学・教授。殊勲教授(Distinguished University Professor)
  • 発覚:不明
  • 調査:①オハイオ州立大学・調査委員会。②研究公正局。~1993年6月(58歳)。③科学庁
  • 不正:盗用
  • 不正論文数:研究費申請書と論文1報
  • 時期:研究キャリアの後期
  • 結末:辞職・解雇なし。研究室院生制限、NIHと科学庁の締め出し処分

【経歴と経過】

  • 1934年7月15日:米国・マサチューセッツ州のウースター(Worcester, Massachusetts)に生まれる
  • 1956年(22歳):米国のホーリー・クロス大学(Holy Cross College)を卒業
  • 1959年(25歳):米国・マサチューセッツ工科大学(Massachusetts Institute of Technology)で研究博士号(PhD)を取得した。有機化学専攻。
  • 1959 – 1963年(25 – 29歳):アップジョン社(Upjohn Company)・研究員(Research Associate)
  • 1963年(29歳):オハイオ州立大学(Ohio State University)・助教授または準教授(?)
  • 1969年(35歳):同・正教授
  • 1984年(50歳):米国科学アカデミー(National Academy of Sciences)・会員
  • 1987年(53歳):オハイオ州立大学・殊勲教授(Distinguished University Professor)
  • 1992年(58歳)頃:パケットの盗用が発覚した
  • 1993年6月(58歳):研究公正局はパケットの盗用事件を公表した

【不正発覚の経緯と内容】

★研究公正局

1993年6月25日(58歳)、発覚経緯は不明だが、研究公正局はパケットの盗用事件を公表した(【主要情報源】③)。

Paquette-SmallパケットはNIH研究費の審査員だった。他の研究者の研究費申請書を研究室のポスドクに教育的配慮から見せた。研究費申請書の内容は機密であり、そこに記載されているアイデア・方法・内容を自分の研究に使用したら盗用になる。

オハイオ州立大学の調査によると、パケットは、他の研究者のNIH研究費申請書に記載した内容を自分のNIH研究費申請書に記載したのである。これは、日本ではかつて「役得」とされていたが、明白な盗用である。

研究費申請書への盗用は、審査した他人の研究費申請書は公表されないし、パケットの研究費申請書も公表されない。盗用発覚の経緯は不明だが、理論上、両方の申請書を見ることができる人、つまり、両方の研究費申請書を審査した同分野の有力研究者ではないだろうか。

paquetteパケットは、他の研究者の申請内容を自分の申請書に記載したのは「不注意・うっかり(inadvertent)」だと認めている。

教育的な配慮から、ポスドクに申請書を見せたと述べているので、ポスドクが申請書のアイデア・方法・内容を盗用し、パケットに自分の研究計画として見せたのだろう。パケットはそれを盗用だと知らずに(知っていて?)、自分の研究費申請書に使用したのだろう。

パケットは、ポスドクの名前を明かさず、全責任は自分にあると述べている。勘ぐると、実際はそういうポスドク存在せず、弁解のために、ポスドクのせいにした可能性はある。

研究公正局は、1992年12月31日から10年間締め出し処分を下した。

その頃、58歳だったパケットは、10年間の締め出し処分を受けても、研究職を廃業しないで乗り越えた。米国ではこれは珍しい。専門が有機化学で、研究費の主要な出所はNIHではなく科学庁だったからかもしれない。

しかし、科学庁の研究費申請書でも盗用が発覚したのである(次節)。

★オハイオ州立大学と科学庁(National Science Foundation)

paquette-02パケットは、自分の「1992年4月のJournal of the American Chemistry Society誌」論文に他の研究者の科学庁研究費申請書の内容を盗用して記載した。

1992年9月、この盗用が発覚し、オハイオ州立大学は、今後3年間、パケットの研究室員の上限を25人に制限した。1997年夏に40人の院生が、1998年夏には29人の院生がいた。

この制裁は、①院生数を制限することで、パケットがもう少し丁寧に院生を世話することを指示する。②大学としては盗用も容認していない。この2点を示すためだった。この制裁は、現在、在籍している院生を追い出すことはないが、誰かが辞めなければ、新しく加われる院生枠もない。

paquette-03パケットは、「手と頭が多ければ多いほど研究は進む。院生数が制限され、研究成果は実質的に、3分の2になった」と述べている。

米国・科学庁(National Science Foundation)は、パケットと示談の末、パケットを盗用と認定しない代わりに、科学庁からの2年間締め出し処分をしたと発表した。

とは言え、パケットの弁護士であるマイケル・クライツ(D. Michael Crites)は、「パケットは悪いことは何もしていないと精力的に否定している」と言う。

オハイオ州立大学は、制裁が終わる3年後の1995年、それまでの経過から制裁を再考するとした。

【論文数と撤回論文】

2016年1月29日、パブメド(PubMed)で、レオ・パケット(Leo A. Paquette)の論文を「Leo A. Paquette [Author]」で検索した。この検索方法だと、有機化学論文は網羅せず、2002年以降の論文がヒットするハズだが、1996~2009年の101論文がヒットした。

2016年1月29日現在、撤回論文はない。

【白楽の感想】

《1》行為に対して判断

パケットの盗用行為に対して、米国・科学庁(1998年)はとても甘く、米国・研究公正局(1992年)はとても厳しく対処した。

1992年頃は、研究ネカトに対する調査や判断の実績がなく、何をどう判断し、どの程度の処分が妥当か、基準が定まっていなかったのだろう。

ノーベル賞受賞者など著名な研究者には、研究ネカトだけでなく反社会的な行為や法律違反に対して「お目こぼし」や「手加減」がされる風潮がある。これは不適切だが、人間社会の一面でもある。

行為に対する判断には、名声・身分・権威・貧富などを排除し、単に、行為に対して処分をすべきだ。著名な研究者だからといって研究ネカトは許されない。あってはならない。

逆の風潮も散見する。著名な研究者に「研究者の模範的な態度を求め」より厳しく批判する風潮もある。これも不適切だ。Doc

《2》研究者を続けられた珍しいケース

研究公正局がクロと判定し、締め出し処分を下した人で、研究者を続けられた研究者は少数である。

米国ではパケットだけかもしれない(確かもう1人いた気がする。研究公正局の結論が間違っていたケースだったような・・・。)

米国は研究ネカト者を研究界から排除する方針だから、基本的に研究者を続けることが困難になる。ただ、パケットのクロ判定は1993年で、研究ネカト制度の初期だったから、排除方針がブレたのかもしれない。

paquette-in-truck なお、パケットは、「悪いことはしていない」と、意図的な盗用を一貫して否定した。単に「不注意・うっかり(inadvertent)」で、ポスドクが一枚かんでいると主張した。一方、責任は自分にあり、盗用による制裁を受け入れた(弁護士を雇い、研究公正局・科学庁・大学と交渉の後)。一部認めるこの方法は、裁定者が許しを与え、かつ、同情を買う、うまい方法だと指摘する人もいる。

なお、米国で研究ネカト事件を起こし日本に帰国し、研究を続けている日本人は4人もいる。そもそも、日本は、研究ネカトした研究者を研究界から排除する思想がない。停職などの処分の後、復職させてしまう。

この「いい加減」な制裁は、世界的にきわめて「珍しい」。思うに、日本は、それが世界的に異常だという認識や自覚もない。

【主要情報源】
① ウィキペディア英語版:Leo Paquette – Wikipedia, the free encyclopedia
② 1998年3月9日のパメラ・ズーラー(Pamela Zurer)の「Chemical & Engineering News」記事:NSF, Paquette Settle Misconduct Case – Chemical & Engineering News Archive (ACS Publications)
③ 1993年6月25日、研究公正局の報告「NIH GUIDE, Volume 22, Number 23」の8人目:NOT-93-177: FINAL FINDINGS OF SCIENTIFIC MISCONDUCT
④ 1998年10月4日のベス・ダヴィズ(Beth Davidz)の「Lantern」記事:Six-year plagiarism suit vs. OSU professor ends in settlement | The Lantern
★記事中の画像は、出典を記載していない場合も白楽の作品ではありません。

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