ワンポイント:省庁長官(技術官僚)が博士論文盗用で博士号をはく奪され、記者と通報者を脅迫
●【概略】
スパチェー・ロロワカーン(Supachai Lorlowhakarn、写真出典)は、タイのタイ国家イノベーション庁(National Innovation Agency:NIA)・長官で、専門は農学(有機農業)である。なお、タイ国家イノベーション庁はタイ政府・科学技術省傘下の独立行政法人で、2003年に設立された。
2008年(48歳?)、ロロワカーンはアスパラガスの有機農法の論文で、タイのチュラーロンコーン大学(Chulalongkorn University)で研究博士号(PhD)を取得した。
その博士論文の80%が盗用だったことが発覚し、2012年6月(52歳?)、博士号ははく奪された。
タイの悪習なのか、タイ政府はロロワカーンを2015年10月4日現在も解雇していない。それをいいことに、ロロワカーンは長官(政府要人)の権力を乱用し、アメリカ人新聞記者を脅迫し、英国人通報者も脅迫した(し続けている)。
タイ国家イノベーション庁の有機米サイトの写真。出典:National Innovation Agency : Organic @ NIA
- 国:タイ
- 成長国:タイ
- 研究博士号(PhD)取得:チュラーロンコーン大学
- 男女:男性
- 生年月日:不明。仮に、1960年1月1日とする
- 現在の年齢:64 歳?
- 分野:農学(有機農業)
- 最初の不正論文発表:2008年(48歳)
- 発覚年:2008年(48歳)
- 発覚時地位:タイ国家イノベーション庁・長官
- 発覚:同僚(?)の英国人の農業コンサルタント
- 調査:①チュラーロンコーン大学・調査委員会。②裁判所
- 不正:盗用
- 不正論文数:2報
- 時期:研究キャリアの初期から
- 結末:辞職なし
2011年1月28日、「Dr. Supachai Lorlowhakarn局長と広島大学岡本副学長とのプレゼント交換」(広島大学のサイト)。2010年4月にチュラーロンコーン大学は盗用と結論していた。盗用事件を起こした人を広島大学はどうして招聘したのでしょう? 写真・見出し出典(予備)
●【経歴と経過】
主たる出典:http://supachailor.com/wp-content/uploads/2015/01/CV-Supachai-311214_a.pdf
- 生年月日:不明。仮に、1960年1月1日とする
- 19xx年(xx歳):タイのxx大学を卒業
- 1984年(24歳):タイのチュラーロンコーン大学(Chulalongkorn University)で修士号を取得。 生物学(Biological Science)。
- 1984 – 1992年(24 – 32歳):タイの民間企業である「ICI Asiatic」 (農業)社の研究者、上級技術者、製品管理部長
- 1993 – 2003年(33 – 43歳):タイ国立科学技術開発庁(National Science and Technology Development Agency)の上級科長(Senior Department Director)
- 2000 – 2003年(40 – 43歳):タイのイノベーション開発基金の長官(Director, Office of the Board of the Innovation Development Fund)
- 2004 –2015年現在(44歳– 2015年現在):タイ国家イノベーション庁(National Innovation Agency:NIA)の長官
- 2006年(46歳):The Capital Market Academy (Class II)を修了
- 2007年(47歳):タイ防衛大学(The National Defense College of Thailand (Class 2550)) を修了
- 2008年(48歳):チュラーロンコーン大学から研究博士号(PhD)を取得した。有機農業
- 2008年(48歳):博士論文が盗用だと指摘された
- 2009(49歳):The Leadership Program, FranklinCovey & PacRim Groupを修了
- 2009年8月(49歳):チュラーロンコーン大学が博士論文盗用の調査を開始した
- 2010年4月(50歳):チュラーロンコーン大学はロロワカーンの205ページの博士論文は、80%が盗用だったと結論した
- 2012年6月(52歳):チュラーロンコーン大学はロロワカーンの研究博士号(PhD)をはく奪した
- 2015年10月4日現在(55歳):ロロワカーンはタイ国家イノベーション庁・長官を辞任していない。
●【不正発覚の経緯と内容】
★ウィン・エリス(Wyn Ellis)
本事件での重要な脇役であるウィン・エリス(Wyn Ellis、写真出典)のことをまず述べよう。
エリスは英国人で、研究博士号(PhD)を持つ農業専門家である。国際連合環境計画 (UNEP:ユネップ) のアジア太平洋地域事務所(在バンコック)の持続的米プラットフォーム(Sustainable Rice Platform)の研究員・コーディネーターである。
タイ国家イノベーション庁(National Innovation Agency:NIA)のコンサルタントもしていて、2005年にロロワカーンと共著の論文も出版していた。
- Lorlowhakarn S and Ellis W (2005) Thailand’s National Innovation Agency – Nurturing National Competitiveness. Asia Pacific Tech Monitor. May-June 2005. pp 34-42.
1985年から30年もタイに住んでいる。家族(妻と子供)もバンコクに住んでいる。
★ロロワカーンの論文盗用
2004年、ロロワカーンはタイのタイ国家イノベーション庁(Thailand’s National Innovation Agency:NIA)の長官に就任した。タイ国家イノベーション庁は科学技術省傘下の独立行政法人で、タイの革新技術を発展させるのが使命である。知的財産権問題も統括する。
ロロワカーンは、エリスの協力でタイの有機農法を発展させていた。
2007年、ロロワカーンは、アスパラガスの有機農法の論文で、チュラーロンコーン大学に博士論文を提出した。
2008年、ロロワカーンはチュラーロンコーン大学から研究博士号(PhD)が授与された。しかし、ロロワカーンの博士論文はエリスの論文の盗用だった。エリスは盗用だと訴えた。
2008年6月7日、エリスから話を聞いたアメリカ人の若い女性記者・エリカ・フライ(Erika Fry)は、タイの新聞「バンコクポスト(Bangkok Post)」紙に、ロロワカーンの博士論文盗用の記事を最初に書いた。
2008年8月、エリスは、正式に、ロロワカーンの博士論文の盗用をチュラーロンコーン大学・学長とタイ政府・科学技術省に訴えた。また、ロロワカーンの2008年の「Journal of Agricultural Science」誌の論文にも盗用がある訴えた。
ロロワカーンは、対抗してエリスを、その後、「バンコクポスト(Bangkok Post)」紙に記事を書いたエリカ・フライ記者(Erika Fry)も名誉棄損(defamation)で訴えた。この訴えは後に棄却されたが、裁判が続く間、2人はタイから離国禁止になった。フライ記者は保釈金を払って、米国に帰国した。
2009年8月(38歳):チュラーロンコーン大学は、調査を開始した。
2010年4月(41歳)、チュラーロンコーン大学はロロワカーンの205ページの博士論文は、80%がウィン・エリス(Wyn Ellis)の文章の盗用だったと結論した。
チュラーロンコーン大学での研究博士号(PhD)の取得には、国際学術雑誌に査読付き論文を出版することが必要だった。
それで、ロロワカーンは、ロロワカーンが第一著者の論文を2008年の「Thai Journal of Agricultural Science」誌に出版していた。
- Organic Asparagus Production as a Case Study for Implementation of the National Strategies for Organic Agriculture in Thailand
S. ,Lorlowhakarn, S. Piyatiratitivorakul and W. Cherdshewasart
Thai Journal of Agricultural Science, 41(1-2), 63-74, March-June 2008 [ Full Text ]
しかし、それも、盗用だった。博士論文が盗用なら、この論文が盗用というのも当然だろう。
エリスは、自分の文章が盗用されたので、ロロワカーン論文を撤回するよう「Thai Journal of Agricultural Science」誌に何度も要請した。
盗用されたエリスの文章は本の一部で、その本の出版社であるオランダのワーゲニンゲン学術出版(Wageningen Academic Publishers)がエリスの文章の著作権を所有している。それで、ワーゲニンゲン学術出版も、「Thai Journal of Agricultural Science」誌にロロワカーン論文の撤回を要求した。しかし、「Thai Journal of Agricultural Science」誌は論文撤回をしなかった。ワーゲニンゲン学術出版の編集員(Lieke Boersma)は、撤回要求への以下の返答に驚いた。
「Thai Journal of Agricultural Science」誌の編集長はカセサート大学の土壌学教授・アイプ・クラルンラーム(Irb Kheoruenromne)だが、彼は、「著作権法違反という裁判所の書類がなければ論文を撤回しません」と答えた(出典:2012年4月19日のポール・ジャンプ(Paul Jump)の記事:Innovation boss in duplication row | Times Higher Education)。
2012年6月21日(41歳)、チュラーロンコーン大学はロロワカーンの205ページの博士論文は、80%がウィン・エリス(Wyn Ellis)の文章の盗用だったとことから、授与した研究博士号(PhD)をはく奪した。なお、2010年4月にチュラーロンコーン大学は盗用と断定し公表しているのに、研究博士号(PhD)はく奪まで2年余りもかかった。異常に遅いが、いろいろ攻防戦があったようだ。
ロロワカーンは、研究博士号(PhD)がはく奪されても、タイ国家イノベーション庁・長官職を解雇されなかった。タイ国家イノベーション庁はタイ政府・科学技術省が監督する独立行政法人である。タイ政府・科学技術省・事務長(permanent secretary of the Science and Technology Ministry)でタイ国家イノベーション庁の理事長(NIA board chairman)のポンチャイ・ルチプラパー(Pornchai Rujiprapa、写真出典)は、次のように容認した。
「研究博士号(PhD)の取得は個人的な問題です。ロロワカーンがタイ国家イノベーション庁・長官に就任する時に研究博士号(PhD)は持っておらず、研究博士号(PhD)は就任の条件ではありませんでした。また、現在の職務に必須でもありません。研究博士号(PhD)をはく奪されたことは遺憾に思いますが、それは、長官を解雇する理由に該当しませんし、その必要はないと考えます」。
それで、ロロワカーンがタイ国家イノベーション庁・長官職を追われなかった。
2012年8月8日、南バンコク刑事法廷(South Bangkok District Court)は、ロロワカーンを文書偽造罪(criminal forgery)で有罪と宣告した。罰金6,000 バーツ (US$190、約1万9千円)を徴収し、執行猶予付きの6か月投獄を科した。
法廷での争点は以下だった。
エリスは、2006年の論文「Strengthening the Export Capacity of Thailand’s Organic Agriculture」(著者:Wyn Ellis, Vitoon Panyakul, Daniel Vildozo, Dr Alexander Kasterine)の主要な著者である。ロロワカーンはその論文のデータと文章を盗用し、博士論文を執筆した。一方、ロロワカーンの抗弁は、エリスは単にタイ語を英語に翻訳して上記の2006年論文にしただけで、論文の所有権はないと主張していた。
エリスは、また、ロロワカーンの次の違法行為も文書偽造罪と訴えた。エリスは、2007年1月-6月の6か月間のタイ国家イノベーション庁のコンサルタントとして雇用される契約があった。その契約をロロワカーンが無断で、違法に、2007年1月-3月の3か月間に変えたのだった。
●【記者・通報者への脅迫】
★ウィン・エリス(Wyn Ellis)
盗用だと公益通報した英国人科学者・ウィン・エリスへの脅迫は度を越している。その脅迫は幾つもの記事に記載されているが。以下にいくつか書く。出典:①‘Death threats’ in Thailand for UK whistleblower | Times Higher Education
【動画】
2011年3月18日、裁判所に行くため公道を車で走行中、オートバイに乗った暴漢がエリスの車の後部ガラスを破壊した。
監視カメラ動画:「Bangkok Barbarians – YouTube」(英語)2分15秒。
Wyn Ellis が2012/09/18 に公開
2012年8月8日、先に記述したように、南バンコク刑事法廷でロロワカーンの次の違法行為が問題視された。エリスは、2007年1月-6月の6か月間のタイ国家イノベーション庁のコンサルタントとして雇用される契約があった。その契約をロロワカーンが無断で違法に、2007年1月-3月の3か月間に変えた。
2013年8月23日、エリスは4日間にわたり250回の嫌がらせ電話を受けた。最初の電話で男は、「あんたの妻と子供を誘拐して殺す。あんたの家の外で待っている」と言い、「お前は、どうすればいいか知っているだろう。そうだ、今すぐにやめるんだ」とエリスを脅迫した。
2015年9月3日、エリスがタイのスワンナプーム国際空港に到着し、パスポートを提示したら、2009年にロロワカーンが書いた危険人物リストの手紙を見せられ、身柄が拘束された。結局、4日間も拘留された。
拘留されている間、インターネットを使えたので、インターネットで妻や英国の新聞に不当行為だと訴えた。4日目の真夜中2:29amに拘束が解除された。その数時間前に、在タイ英国大使のマーク・ケント(Mark Kent、写真出典)が「間もなく良い知らせがあります」と述べているので、在タイ英国大使がタイ国政府の折衝したものと思われる。
拘束が解除されたことを感謝するエリスのツイッター。日時はタイ時間? 出典
この4日間の拘束で、エリスは「ガーディアン」誌記者に次のように話した。
「長年、私の家は偽造IDを持つ人、偽造ナンバープレートを付けた車に監視されています。嫌がらせは何年にもわたり、匿名手紙の送付、税金の執拗な調査、私のタイ公民権の嫌がらせ的調査、480回の「殺す」という脅迫電話、私の車への襲撃など、長期に及んでいます」。
★米国人記者のエリカ・フライ(Erika Fry)
エリカ・フライ(Erika Fry、写真出典)は米国人記者で、ワシントンD.C の海軍の対テロオフィスで分析官として勤務していた。仕事に満たされず、2005年末にタイのバンコクに来た。2006年から「バンコック・ポスト(Bangkok Post)」紙に記者として勤務していた。
2008年6月7日、エリスから話を聞いて、フライ記者は、タイの新聞「バンコクポスト(Bangkok Post)」紙に、ロロワカーンの博士論文盗用の記事を最初に書いた。
この記事がロロワカーンの逆鱗に触れ、ロロワカーンに訴えられ、タイからの離国が禁止された。フライ記者は保釈金を払って、米国に帰国した。
顛末は英語で克明に記載されている。フライ記者の憤懣と不安、タイの国情を知るには興味深い物語になっている。ただ、この話を書きだすと、ロロワカーンの論文盗用と主軸がずれるので、これ以上書かないが、興味のある人は → Escape From Thailand – Columbia Journalism Review
●【論文数と撤回論文】
2015年10月4日、パブメドhttp://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmedで、スパチェー・ロロワカーン(Supachai Lorlowhakarn)の論文を「Supachai Lorlowhakarn [Author]」で検索した。この検索方法だと、2002年以降の論文がヒットするが、2015年までの14年間に1報の論文もヒットしなかった。
ロロワカーンの履歴書には、2000 -2014年に50報以上の論文をタイ語で出版したとある。また、英語で3つの教科書、6報の論文を出版したリストがある。エリスと共著の教科書が1つ、論文が1つある。その2つを以下に示す。
- 教科書:Lorlowhakarn S, Boonyanopakun K, Ellis W, Panyakul V, Vildozo D and Kasterine A (2008). “Strengthening the Export Capacity of Thailand’s Organic Agriculture”. National Innovation Agency, Bangkok. 95 pp.
- 論文:Lorlowhakarn S and Ellis W (2005) Thailand’s National Innovation Agency – Nurturing National Competitiveness. Asia Pacific Tech Monitor. May-June 2005. pp 34-42.
2015年10月4日現在、撤回論文はない。盗用とされた2008年の「Thai Journal of Agricultural Science」論文も撤回されていない。
●【白楽の感想】
《1》権力の乱用
ロロワカーンの場合、政府は早く長官職を解任すべきだった。
しかし、欧米先進国にも同じ体質はあるだろうが、後進的な国々やアジアでは、政府高官が権力を乱用して保身を図る体質が強い。これは、現代では極めて悪質な社会文化である。
対抗するには、現代社会のいろいろな仕組みが機能する必要がある。例えば、3権分立の確保であり、違法行為の取り締まりであり、「ペンは剣より強し」、「社会の木鐸」のメディアの強化だろう。また、国際社会の監視・圧力とともに、各所に透明性が確保される必要もある。
記事には記載されていないが、政府高官の権力乱用には、ロロワカーンの親族、財閥、贈収賄、王家との関係、チュラーロンコーン大学の学閥・朋友関係などが絡んでいるのかもしれない。そうなると、仲間の権益を守る強固なパイプができてしまう。それで、ロロワカーンを解雇できないのかもしれない。
タイを批判的に書いたが、ただ、日本に長年住んでいて、日本のシステムに空気や水のように慣れてしまっているのだが、白楽には、日本にも同じ体質があることを時々感じる。
●【主要情報源】
① 2012年6月26日のLamphai IntathepとNanchanok Wongsamuthの「Bangkok Post」記事: Bangkok Post article
② 2013年8月22日、エイザベス・ギブニー(Elizabeth Gibney)の「Times Higher Education」記事:‘Death threats’ in Thailand for UK whistleblower | Times Higher Education
③ 2012年8月26日のYojana SharmaとSuluck Lamubolの「University World News」記事:Plagiarism scandal continues after forgery verdict – University World News
④ 2013年10月31日のSuluck Lamubolの「University World News」記事:Appeal Court upholds university verdict on plagiarism – University World News
⑤ 2015年9月8日のオリヴァー・ホームズ(Oliver Holmes)の「The Guardian」記事:Thailand frees UK academic Wyn Ellis | World news | The Guardian
⑥ 2015年9月8日のアリソン・マコーミック(Alison McCook)の「撤回監視(Retraction Watch)」記事:Whistleblower released after being held for 4 days in Bangkok airport – Retraction Watch at Retraction Watch
⑦追記:2016年7月12日のアリソン・マコーミック(Alison McCook)の「撤回監視(Retraction Watch)」記事:Broken windows, threats, and detention: Is whistleblowing worth it? – Retraction Watch at Retraction Watch
★記事中の画像は、出典を記載していない場合も白楽の作品ではありません。