2015年1月2日掲載。2022年6月10日更新
ワンポイント:ガジュセックは、米国・NIHの研究者で医師。1976年(53歳)、クールー病の研究で、ノーベル生理学・医学賞を受賞した。南太平洋でクールー病の研究をしたが、現地の貧しい子を米国で育てようと、結局、56人(主に男の子)を養子にして米国で育てた。ところが、1986年(62歳)、成人に育った養子の1人がかつて性的暴行を受けたと訴えた。1997年(73歳)、有罪判決で、懲役1年7か月の実刑判決が言い渡された。刑期を終えた後、2度と米国に戻らず、欧州に住み、2008年12月11日(85歳)、ノルウェーで亡くなった。死因不明。白楽は「恩を仇で返す恩知らず」事件かもしれないと思った。国民の損害額(推定)は100億円(大雑把)。
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目次(クリックすると内部リンク先に飛びます)
1.概略
2.経歴と経過
3.動画
4.日本語の解説
5.不正発覚の経緯と内容
6.論文数と撤回論文とパブピア
7.白楽の感想
9.主要情報源
10.コメント
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●1.【概略】
カールトン・ガジュセック(カールトン・ガイジュセク、カールトン・ ガイジュセック、 Carleton Gajdusek、Daniel Carleton Gajdusek、73歳の写真出典)は、米国・NIHの研究者で医師。1976年(53歳)、クールー病の研究で、ノーベル生理学・医学賞を受賞した。
この「性的暴行」事件は、学術界・教育界の性不正(sexual misconduct)ではない。
学術界・教育界の性不正(sexual misconduct)は、
学術・職場・教育の場で、力(権力、金力、知力、慣習など)の上下関係(支配関係)を利用し、同意なしに、または、同意があったとしても、力の関係で同意せざるを得ない状況で、不快に感じる性的言動を個人に対して行なうこと。また、性的な言動で学術・職場・教育の場にいる人を不快にする言動も含む。(3‐1‐1 性不正の分類・規則 | 白楽の研究者倫理)
ただ、この事件は、ガジュセックの研究人生と深い関係があるので、同じ枠で扱った。
ガジュセックは、クールー病の研究を主に南太平洋で行なった。現地で、ガジュセックは多くの悲惨な人々の生活をまのあたりにした。
研究の傍ら、貧しい子供たちに米国の教育を受けさせようと、多数の子供(主に男の子)を米国に連れてきて育てた。
結局、56人を養子にして米国で育てた。
1986年(62歳)、1977年(53歳)の時にミクロネシアのポンペイ島から連れてきた14歳の少年が、9年後、23歳の大学生になり、かつて、ガジュセックに性的虐待をされたとFBIに訴えた。
この時、ガジュセックに養育され、成人になったかつての養子のほぼ全員が、「父」として「友人」としてのガジュセックを擁護した。
それで、起訴されなかった。
しかし、再度、性的暴行の疑惑が持ち出され、1996年4月(72歳)、児童性的虐待(child molestation)の罪で起訴された。
1997年(73歳)、有罪判決で、懲役1年7か月の実刑判決が言い渡された。
1998年(74歳)、釈放。以後、欧州に住み、2度と米国に戻らなかった。
2008年12月11日(85歳)、ノルウェーで没。享年85歳。死因不明。
1976年(53歳):ガジュセック(左)は、クールー病の研究で、ノーベル生理学・医学賞を受賞。写真出典
- 国:米国
- 成長国:米国
- 医師免許取得:ハーバード大学・医科大学院
- 博士号取得:カリフォルニア工科大学
- 男女:男性
- 生年月日:1923年9月9日
- 死亡:2008年12月11日、享年85歳
- 分野:ウイルス学
- 犯罪:1996年4月(72歳)、児童性的虐待で起訴される
- 被害者:1人? 訴えた人は1人でも実際は多数?
- 判決:1997年(73歳)、懲役1年7か月の実刑
- 釈放:1998年(74歳)
- 発覚:1996年4月(72歳)、 1977年(53歳)の時にミクロネシアのポンペイ島から連れてきた14歳の少年が、9年後、23歳の大学生になり、かつて、ガジュセックに性的虐待をされたとFBIに訴えたが起訴されず。その後、再度、事件化した。
- 調査:FBI
- 時期:
- 結末:懲役1年7か月の実刑判決
【国民の損害額】
国民の損害額:総額(推定)は100億円(大雑把)。
●2.【経歴と経過】
- 1923年9月9日:米国・ニューヨーク州のヨンカーズ(Yonkers)の肉屋の長男として生まれる。父はスロバキアから、母はハンガリーからの移民である。次男のロビン・ガジュセック(Robin Gajdusek:1925~2003)はサンフランシスコ州立大学・教授(英文学)になった。
- 1940~1943年(16~19歳):ロチェスター大学(University of Rochester)、卒業
- 1943 ~1946年(19 ~22歳):ハーバード大学・医科大学院(Harvard Medical School)、医師免許取得
- 1949~1950年(25 – 26歳):カリフォルニア工科大学(Caltech)で博士号取得
- 1957年(34歳):オーストリア・メルボルンのウォルター・アンド・エリザ・ホール医学研究所(Walter and Eliza Hall Institute of Medical Research)のバーネット研究室(ノーベル賞受賞者)・研究員。そこから、ニューギニアに派遣され、クールー病患者に初めて接した
- 1958~1997年2月(35~73歳):米国・NIH・国立神経疾患・盲目研究所の研究部長(National Institute of Neurological Diseases and Blindness、現・国立神経疾患・脳卒中研究所:NINDS; National Institute of Neurological Disorders and Stroke)
- 1963年(40歳):56人の養子の最初の少年(12歳)をアメリカに連れてきた
- 1976年(53歳):クールー病の研究で、ノーベル生理学・医学賞を受賞
- 1996年4月(72歳):児童性的虐待(child molestation)の罪で起訴された
- 1997年(73歳):有罪判決で、懲役19月の実刑判決が言い渡された
- 1998年(74歳):釈放
- 2008年12月11日(85歳):死亡
●3.【動画】
【動画1】
2009年6月1日、BBC4放送のドキュメンタリー・テレビ番組・「天才と少年」が放映された。「Storyville The Genius And The Boys – YouTube」(英語)1時間18分31秒
Charles Walsh(チャンネル登録者数 50人)が2014/03/19にアップロード
【動画2】
ノーベル賞受賞講演の動画。静止画で講演の音声:「CARLETON GAJDUSEK (1978) The Elucidation of Chronic Diseases Occuring in High Incidence in Primitive and Isolated Populations」(英語)49分54秒
以下をクリック
●4.【日本語の解説】
★日本語版ウィキペディア:ダニエル・カールトン・ガジュセック – Wikipedia
南太平洋に研究に出かけた際、彼はより良い教育を受けさせる目的で、子供たちをアメリカ合衆国に連れて帰り、一緒に住まわせた。こうして連れて来られた男児の一人が成年後、彼を性的虐待で訴えた。
1996年4月、彼は児童性的虐待の罪で起訴された。そして、彼が研究室に残したノートの記述や、被害者の証言およびガジュセック自身の自白に基づき、1997年に有罪判決が言い渡された。司法取引により自ら有罪を認めた結果、彼には懲役19月の実刑判決が言い渡された。1998年に釈放されると、彼は5年間の保護観察期間をヨーロッパで過ごすことが許可された。
これに先立つ1996年10月、エジンバラ大学の心理学者クリス・ブランドは、ガジュセックへの扱いが反エリート主義的で不当に厳しいとして非難していたが、のちにブランドは大学の名誉を汚した廉で大学から解雇された。
●5.【不正発覚の経緯と内容】
●【研究内容】
クールー病は、南太平洋のパプアニューギニア(Papua New Guinea)のフォレ(Fore)族に見られた神経疾患で、発症すると1年以内に死ぬ病気だった。女性と子供に発症した。
ガジュセック(写真出典)は、1950年代・60年代に現地に赴き、研究した。
1965年(42歳)、クールー病の原因をスローウイルスだと突き止めた。
この突き止めた論理に、白楽はとても感動した記憶がある。
1976年(53歳)、クールー病の原因を解明した業績で、ガジュセックはノーベル生理学・医学賞を受賞した。
志知 均(しち ひとし)の2013年12月11日の記事「JA Circle: 奇妙な病原体プリオン」(保存版)を改変引用し、研究内容を説明しよう。
人食い人種として知られるパプア・ニューギニア(Papua New Guinea)のフォア族(Fore)の部落民、特に女、子供が一年間に200人以上も原因不明の脳疾患クールー病(kuru disease)で死亡していることが報告された。病原性バクテリアやビールスによる感染の痕跡はなかった。フォア族には病気で死んだ親族の脳組織を食べる習慣があることが人類学者の調査でわかっていたため、脳の中に未知の病原体が存在するだろうと推測された。
ガジュセックはインディアナ・ジョーンズのような研究者でニューギニアのジャングルの奥にあるフォア族部落を訪れ,クールー病で死亡した患者の脳組織をNIHへ持ち帰った。彼はその組織の抽出液をチンパンジーの脳に注射してクールー病が発病することを示した。抽出液中の病原体は確認できなかったが、脳組織の病理所見が、病原体不明のもうひとつの脳疾患であるクロイツフェルド・ジャコブ病(Creutzfeldt-Jakob disease, CJD)にきわめて類似していることを指摘した。
それは脳組織がスイス・チーズやスポンジのようになる病変で、これらの病気はスポンジ型脳障害(spongiform encephalopathies)と総称されている。ガジュセックはクールー病その他の研究で1976年にノーベル賞を受賞した。
1957年、ガジュセック(左)と地元の医師・ビンセント・ジーガス(Vincent Zigas)(右)がクールー病の少年を調べている。写真出典:主要情報源⑤
●【事件の経緯】
事件は、研究そのものとは別であるが、クールー病の研究活動と関連が深い。
★56人の子供(主に男児)を養子
1963年(40歳)、南太平洋の現地研究で、ガジュセックは多くの悲惨な人々の生活をまのあたりにし、貧しい子供たちに米国の教育を受けさせようと、最初にアンガ(Anga)族の少年(12歳)をアメリカに連れてきた。ワシントン空港に降り立ったとき、少年はガリガリに痩せていて、裸足だった。
ガジュセックは、その後も南太平洋のパプアニューギニアやミクロネシアの貧しい子供(主に男児)を、両親の承諾を受け、養子として引き取り、米国に連れてきた。住む場所、食糧をあたえ、高校教育と大学教育(医学部が多い)を受けさせた。
結局、養子とした子供の総数は56人にのぼった。彼らの数人は米国で学者になり、数人は母国に帰り成功した。
米国に連れてきた養子たちと食事をするガジュセック 写真出典
彼の動機は、南太平洋の貧しい子供たちを養育するという利他的な慈善だった。彼自身がたくさんの子供たちに囲まれて暮らすのが好きだったこともある。
養子たちは彼を頼りにし彼を慕った。ガジュセックは、彼を称賛してくれる優しい取り巻きがいることで心が満たされた。
「ガジュセックは、楽しいことを求めて快楽的な生き方をする性格でもあった」という、彼に悪いイメージを与えようとする文章もある。
白楽が思うに、「楽しいことを求める」の大多数の人間の志向だと思う。多くの人間は「快楽的な生き方をする」。その欲求と行動に、何も非倫理的なことはないと思う。
★1986年(62歳)に児童性的虐待の容疑
1986年(62歳)、1977年(53歳)の時にミクロネシアのポンペイ島から連れてきた14歳の少年が、9年後、23歳の大学生になり、かつて、ガジュセックに性的虐待をされたとFBIに訴えた。
米国に到着後すぐの14歳の時、ガジュセックに性的なこと(具体的行為は不明)をされたと訴えたのである。
この時、ガジュセックに養育され、成人になった養子のほぼ全員が、「父」として「友人」としてのガジュセックを擁護する行動にでた。
「ガジュセックは、自分たちの人生を変えてくれ、米国の家に住まわせてくれた恩人であり、この時代の最も立派な精神の持ち主だ」と証言したのである。
他の誰も性的虐待されたとは証言しなかった。
それで、地元警察はガジュセックを起訴しなかった。
★1996年(72歳)に児童性的虐待で逮捕
199x年(7x歳)、ガジュセック研究室の1人が、「性的暴行の手掛かりはガジュセックの学術論文や日記にあるかもしれない」とFBIに連絡した。
FBIは、日記を調べたが、T.S.エリオットの『プルーフロックの恋歌』のような抑圧された記述以外、犯罪と思えるものは何も記述されていなかった。
FBIは、次いで、ガジュセックの養子たちに聞き込みを行なった。
証言してくれる養子(大人になっている男性)と電話で会話したのをテープに録音した。その養子は、「養子の子供たち(男性)がお互いに自慰をしていた時、ガジュセックが子供たちに触れた」と述べた(子供たちの性器に触れたということ?)。
この人は、1986年に告発した人と同じかどうかわからない。他のすべての養子は、ガジュセックが自分たちに触れたとは言わなかった。その内の数人は自分たちに触れていないことを喜んで証言する述べた。
1996年4月(72歳)、ガジュセックが欧州旅行から帰り、米国・メリーランド州の自宅につくと、待機していた警察官に児童性的虐待の罪で逮捕された。
56人の養子の内の1人が、児童性的虐待で告発したのだ。
事件の最も意外な点はガジュセックの学術論文にあった。学術論文には、血液サンプルなど生物医学的な研究記録とともに、南太平洋の部族の性風俗・文化・習慣についての記述もあった。
学術論文は、つまり、原住民の少年は大人の男性の性的欲望を満たすことが伝統的だという同性愛の傾向を詳しく解説していたのである。
学術論文は1960年代の記録で、法廷事件以前に記述されたものであるが、ガジュセックと養子の米国での共同生活を推察するのに利用された。
学術論文は、ニューギニアで行われる同性愛の儀式を、科学的な客観性と個人的な感想で文書化していた。文脈から、エキゾチックな国の性的な自由さを称賛していることがうかがわれた。
ガジュセックは、彼自身がいかなる性的行為にも参加していないし、参加を望んだとは片鱗も書いていない。しかし、ガジュセックに性的な欲望があったことが読みとれた。
例えば、1969年のクリスマスの朝、前夜に若いアシスタントのグループと夜をともにした下りを次のように記述している。
私は再びよく眠った。まるで、6匹の子犬が、お互いの上に横たわり、はいずったかのように眠った。そして、パプアニューギニアのドラマチックな朝の空気の中で目覚めた。
また、1961年10月2日から1962年8月4日のニューギニア・ジャーナルのガジュセックの論文に次の記述がある(New Guinea journals October 2, 1961 to August 4, 1962)。
若い少年はいつも同性愛者である。同性愛者であることは秘密ではない。短時間でも私が1人でいると、少年は、いちゃついて私のポケットに手を入れてくる。私のペニスを触ると、すぐに、それを愛撫しようとする。
同性愛的にふざけるという性風俗・文化・慣習に私はある程度ついていけるようになったが、すべての大人の男性は、性的な目的のために若い少年を欲しがる。7~8歳の少年は全員、5~6歳の少年の何人かは、フェラチオを知っている。この事実はこの地域の性風俗・文化・慣習として最も意外だった。少年たちは、半分冗談、半分まじめに、口と指で吸う仕草をする。従って、同性愛はニューギニアのどこでも珍しくないと思われる。
1969年のニューギニア旅行の日記が1971年に出版された。一部抜粋する。
11月3日、Wabiri Haus Kiapにて。「少年たちは精液に興味があり、友好的になると、親しげに座り、大人の男性の性器を手に持ち、マスターベートし、フェラチオをする…」
11月5日、Sedado村にて。「Tiduaは、少年たちがが若い少年を警察官にプレゼントする言葉として使われている。・・・、彼らは、全然恥ずかしがらずに、少年と大人がいる前で公然と誘う。その誘い方は、舌を口から少しカールさせて突き出し、フェラチオをする身振りで、公然と誘っている。これは、私には初めての経験だった。
南太平洋の原住民が性に寛大だという性風俗・文化・習慣を、ガジュセックが、1960代の実験的な時代の学術論文として記述した。
それを、1990年代の児童性的虐待に敏感な文化・価値基準で執拗に調査し、30年前の行為を糾弾した。
メディアと一般大衆は、重大な児童性的虐待だと糾弾し、ノーベル賞受賞者という雲上の人を、邪悪な感情・愉快・嫉妬で地に引きずり落とした。セイラム魔女裁判のように理性を欠いていた、と見る人もいた。
彼の実弟でサンフランシスコ州立大学名誉教授(英文学)だったロビン・ガジュセックは、「告発は節度を欠いている」と批判した。
★1997年4月(73歳)に有罪判決
1997年4月(73歳)、多くの著名な科学者がガジュセックを擁護したが、有罪判決で、懲役1年7か月の実刑判決が言い渡された。
刑務所に向かうガジュセック 写真出典
1998年4月29日(74歳)、減刑され、1年間の投獄後、釈放された。
ガジュセックは米国の扱いを強く憎んだ。
釈放されたその日、監獄から直接、ダレス・ワシントン空港に行き、エールフランスでパリに飛んだ。米国の航空機も使わなかった。
その後、二度と米国に戻らず、ヨーロッパで暮らした。
★2008年(85歳)、死亡
2008年12月11日(85歳)、ノルウェー北部の街・トロムソで没。死因は不明。
★2009年、ドキュメンタリー放映
2009年6月1日、BBC4放送のドキュメンタリー・テレビ番組・「天才と少年」が放映された。「Storyville The Genius And The Boys – YouTube」(英語)1時間18分31秒
Charles Walsh(チャンネル登録者数 50人)が2014/03/19にアップロード
ドキュメンタリー・テレビ番組・「天才と少年」の中で、ガジュセックと性行為があったと7人が証言した。4人は「問題ありませんでした」と答え、3人は「恥、侮辱だった」と答えている。
それまで、裁判に訴えた少年は養子として育てられた56人の内の1人だと、記述されていた(裁判の審理でのFBIの記述なので、事実で、正確だと思える)
しかし、テレビ番組では、3人が「恥、侮辱だった」と答えている。
ガジュセックが亡くなって、自由に証言できるようになったから3人に増えたのだろうか? 事件をインパクトがあるようにテレビ局が脚色したのだろうか? 騒いだ方が利益になると養子が思ったのだろうか? わからない。
●6.【論文数と撤回論文とパブピア】
論文と事件は無縁なので、論文数と撤回論文は調べていない。
●7.【白楽の感想】
《1》56人の子供(主に男児)の養子
ガジュセックが、56人の子供(主に男児)を養子にしたことが、非現実的な印象をうけた。
以下質問と回答。
- 56人の養子を米国の管轄官庁はどうして許可したのだろう?
→ 正式には養子としていない。ガジュセックが面倒を見るということで、留学ビザで入国している。高校・大学と進学すれば、滞在期間は更新できる。 - ガジュセックは、56人と一緒に生活していたのだろうか?
→ 一度に56人つれてきたのではないが、数十人と一緒に住んでいたことがあるそうだ。 - ガジュセックは結婚し家族はいなかったのか?
→ 未婚で家族はいない。いわば、養子が家族で、何人かをノーベル生理学・医学賞の受賞式に連れて行っている。 - 1976年(53歳)にノーベル生理学・医学賞を受賞したところで、56人の生活費だけでなく、高校・大学への教育費を賄うほどに経済的に豊かとは思えない。どうしたんだろう?
→ ノーベル賞受賞後はあちこちで講演し、かなりの収入があった。裕福なサポーターもいたようだ。何年に何人の子供を連れてきという人数は不明である。面倒みていた子供の西暦年別人数も不明である。財政的収支も不明。1963年(40歳)に最初に1人を養子にし、初期は少人数で、経済的に豊かになってから、増やしたと思われている。
南太平洋で、子供たちに囲まれるガジュセック 写真出典
《2》ノーベル平和賞レベル
貧しい子供たちに米国の教育を受けさせようと、多数の子供(主に男の子)を米国に連れてきて育てた。
結局、56人を養子にして米国で育てた。
白楽は思うに、ノーベル平和賞を授与してもいい、素晴らしい活動だと思う。
「性的暴行」を犯した人として投獄したけど、白楽は少し批判的である。
1990年代の児童性的虐待に敏感な米国の文化・価値基準で、30年前の行為を執拗に調査し、針小棒大に糾弾した事件だと白楽は思う。
そして、なんでもいいから有名人を逮捕して手柄を立てたいFBI捜査官が、「出過ぎたマネ」をしたのだと思う。米国はそういう国である。
《3》白楽の失敗
ガジュセック個人が、56人を養子にして米国で育てたのは偉業である。
白楽も外国人留学生の面倒を見た経験がある。米国留学で米国にお世話になったお返しに、お茶の水女子大学に留学経験のあるタイ人女性(タイで偉い地位に就いていた)に紹介してもらい、バンコックで個人的に2人の候補者に面接した。この候補者は、結局、日本に来なかった。
別途、アジアの学生5人をお茶の水女子大学の大学院に入学させ面倒を見た。
しかし、白楽の指導が下手なため、まともに育った人は、5人の内、中国人1人だけだ(現在、日本人と結婚し日本在住)。
他の4人(韓国2人、バングラディシュ2人)のうち3人は、国費留学生の申請書類をほぼ全部白楽が作成するなど、何から何まで、かなり面倒を見た。
しかし、成田まで迎えに行った人も含め、就学してからさんざんな目にあわされた。思い出したくない苦い経験がある。
だから、養子にして米国で育てた人数が56人というのは、驚異的で、尊敬する。
《4》人間は嫉妬する
人間は嫉妬する。1億円の遺産をもらっても、兄の方がもっともらったと、弟は怒る。
告発した養子は、他の仲間に比べ、自分が充分に扱われなかったと嫉妬して、ガジュセックを告発したのだと思う。
複数人の子供がいればウマが合う子もいるし、合わない子もいる。ひねくれる子もいる。平等に扱っても、扱われる子供の方はそう思わない。複数人の数が56人となれば、恩を仇で返す子供も1~2割はでるだろう。
有名人を告発するとカネになると親・知人・弁護士にそそのかされたかもしれない。
歌手のマイケル・ジャクソンは、1993年に13歳の少年に児童性的虐待をした疑惑で騒がれた。少年の父親がカネに目がくらんだという話しだ。
《5》小児性愛
南太平洋で小児性愛が許容されていても、米国で許容されていなければ、米国ではしてはいけない。
ガジュセックは、ペドフィリア、小児性愛(しょうにせいあい)という特殊な性欲の持ち主だった。つまり、成人の異性に性的関心はなく、子供に性欲を感じるた、という指摘がある。
ガジュセックは成人女性と結婚していないことを証拠にあげている。
これらはFBIがガジュセックを逮捕し悪人に仕立てる御用意見だと、白楽は思う。
ただ、合意であるかどうかを問わず、小児に性的行為を実行すると、米国・日本では社会的・法的に許容されず、強制わいせつ罪や強姦罪などの犯罪となる。そして、ガジュセックは現在の基準でみると、性的暴行をしたのだと思う。
小児性愛を特殊な性欲と書いたが、それは日本的な理解であって、米国では、特殊ではない。米国成人男性の約25%は小児に対し性的魅力を感じている(1975年のキンゼイ報告、2002年のリチャード・グリーン)。日本は数%である。
なお、当時、ガジュセックが養子として連れてきたパプアニューギニアの部族では、大人の男性と子供の性的関係は性風俗・文化・習慣となっていて、社会に許容されていた。
このような性文化に関する記述がガジュセックの学術記録にもあったとしている。しかし、それは真っ当は研究成果の1つだ。
クールー病はなぜ、特定の部族(フォア族)の 女性と子供にしか発症しないのか? 感染症なら部族を問わないし、男性にも発症するハズだ。性風俗・文化・習慣を理解できなければ、クールー病の解明はできなかった。
それは、フォア族の 女性と子供に死人の脳組織を食べる行為・習慣があったからだ。ここまで突きとめるには、性的な文化・習慣まで調べたから、クールー病を解明はできたと思われる。
《6》性的記述とクールー病
上記、《5》に書いたが、重要なポイントなので、もう一度書いておく。
欧米の文化・価値観で考えていたら、クールー病の原因を突き止められなかっただろう。クールー病はフォア族で発症したが、近隣の部族では発症しない部族もあった。フォア族でも女性と子供に発症したが大人の男性に発症しなかった。従来の病原性バクテリアやウイルスによる感染では説明しにくい。なにか特殊な文化・習慣とカップルしているのだろう。
パプアニューギニアの部族の文化人類学的解析がなければ、クールー病の原因はつかめなかっただろう。
欧米の文化・習慣では考えられないが、フォア族の女性と子供は病気で死んだ親族の脳組織を食べる習慣があった。だから、「脳組織を食べる」行為が感染源、つまり「脳組織」に原因があると推定できた。わかってしまえば、そうかと納得するが、わかる前は、マサカと思う文化・習慣と関連していたのである。
ガジュセックの学術論文での性的な描写も、パプアニューギニアの部族のそういう文化・習慣を理解する一環だったと思える。
単純な性病も性的な文化・習慣に影響を受けるだろうが、エイズ・ウイルスのような同性愛がらみの疾患は文化・習慣に大きく関連する。
クールー病は結局、性的な文化・習慣とは無縁だったが、可能性のある文化・習慣は、トコトン理解する方針でなければ、クールー病の原因はつかめなかっただろう。
《7》研究者として偉大だった
ガジュセックは性的暴行事件で悪者にされたが、研究者としては偉大だった。
白楽は、ガジュセックを児童性的虐待で投獄し悪者にした米国社会を異常に思う。狂っていると思う。
昔だと、1942年の第二次世界大戦時に「日系米国人の強制収容」とか、最近だと、「中国系米国人科学者の排斥」など、米国が狂っていると感じることが何度もある。
研究上のガジュセックの名言を書いて記事を終わりにする。
緩衝液を準備したり、顕微鏡を覗いたり、卵にウィルスや細菌を接種したり、孵化前のヒヨコの肺を摘出したりといった、退屈なお決まりの手順のいったい、どこに、知的な努力という、やりがいのある仕事が見つかるというのか。(出典:3分で人生を変える言葉(科学者編) カールトン・ガジュセック)
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日本がスポーツ、観光、娯楽を過度に追及する現状は日本の衰退を早め、ギリシャ化を促進する。日本は、40年後に現人口の22%が減少し、今後、飛躍的な経済の発展はない。科学技術と教育を基幹にした堅実・健全で成熟した人間社会をめざすべきだ。科学技術と教育の基本は信頼である。信頼の条件は公正・誠実(integrity)である。人はズルをする。人は過ちを犯す。人は間違える。その前提で、公正・誠実(integrity)を高め維持すべきだ。
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●9.【主要情報源】
① 2009年6月1日のBBC4のテレビ番組:スウェーデン人のボス・リンドクイスト(Bosse Lindquist、1954生まれ、写真出典)執筆・プロデュース. “The Genius and the Boys”. (英語)1時間18分31秒、Charles Walshが2014/03/19にアップロード https://www.youtube.com/watch?v=4OxppDxzSww
②ノーベル財団のサイト:D. Carleton Gajdusek – Biographical
③ ウィキペディア: Daniel Carleton Gajdusek – Wikipedia, the free encyclopedia
④ 2009年2月25日のキャロライン・リッチモンド(Caroline Richmond)の「The Guardian」記事: Obituary: Carleton Gajdusek | Science | The Guardian
⑤ David M. Asher with Michael B. A. Oldstone 「Daniel Carleton Gajdusek」
⑥ 1996年8月5日の「The Independent」記事:The fall of a family man – News – The Independent
⑦ 1996年11月8日の「Times Higher Education」記事:A laureate accused | General | Times Higher Education
⑧ 未読(閲覧有料):2007年、Ceridwen Spark「Family Man: The Papua New Guinean Children of D. Carleton Gajdusek」、Oceania Vol. 77, No. 3 (Nov., 2007), pp. 355-369
★記事中の画像は、出典を記載していない場合も白楽の作品ではありません。
●コメント
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