マーク・スペクター(Mark Spector)(米)


【概略】
150118 スペクター1マーク・スペクター(Mark Spector 写真出典)は米国・コーネル大学の大学院生。専門は、がんの生化学・細胞生物学。

1981年、データねつ造が発覚。研究者事件史の代表的ねつ造事件。

1981年、在米中の筆者は、日本の雑誌に記事を書いた

以下はウィキペディアの引用

コーネル大学の大学院生マーク・スペクター (Mark Spector) は、ガン発生のメカニズムについて新発見をしたと発表。指導教授エフレイン・ラッカー(Efraim Racker)の指導の下スペクターは次から次へと成果を挙げたものの、実験データの不自然さと追試が成功しなかったことから実験データの捏造が発覚。論文が撤回されたばかりか経歴詐称までも判明し、スペクターは退学処分となった。

エフレイン・ラッカー(Efraim Racker)教授 写真出典
150118 RMC2005_1074[1]

  • 国:米国
  • 成長国:米国
  • 博士号取得:事件発覚時点では未取得
  • 男女:男性
  • 生年月日:1955年x月x日
  • 現在の年齢:62 (+1)歳
  • 分野:生化学
  • 最初の不正論文発表:1980年(24歳)
  • 発覚年:1981年(25又は26歳)
  • 発覚時地位:コーネル大学・大学院生
  • 発覚:共同研究者
  • 調査:
  • 不正:ねつ造、経歴詐称
  • 不正論文数:1報撤回。残りの6報(?)全部不審
  • 時期:研究キャリアの初期から
  • 結末:退学

【経歴と経過】

  • 1955年x月x日:米国で生まれる
  • 19xx年(xx歳):xx大学を卒業(虚偽らしい)
  • 1980年(24歳):米国・シンシナティ大学(University of Cincinnati)・修士号取得(虚偽らしい)
  • 1980年1月(24歳):米国・コーネル大学・大学院入学。生化学のラッカー(Efraim Racker)教授の研究室に入る。最初から不正研究をする
  • 1981年夏(25又は26歳):不正研究が発覚する
  • 1981年夏(25又は26歳):退学
  • 1991年春(35又は36歳):勤務先の病院で経歴詐称が発覚する

【データねつ造発覚の経緯】

★1980年1月(24歳)

シンシナティ大学で重要な論文を第一著者として発表していたので、コーネル大学の大学院の入学事務室は、入学時期は通常、秋なのだが、特例として、1月(1980年)に入学を許可した。さらに、研究室の実習ローテションを免除して、直接、ラッカー(Efraim Racker)研究室で実験を開始することも許可した。

つまり、スペクターは、最初から特別扱いだった。

しかも、ラッカー研究室では、新しい実験手法をすぐに覚え、研究結果の説明も抜群、1日18時間も研究に没頭するハードワーカーで、研究室に来て2か月もたたないうちに1つの研究を完成してしまった。ラッカーは「今までの見たこともない天才」と惚れ込んでしまった。大学院生にもかかわらず、すぐに、独立した研究者のように処遇された。

「寺岡伸章のブログ」に日本語の解説がある。改訂し引用する(美しすぎた仮説 寺岡伸章のブログ/ウェブリブログ)。原典の文章は、福岡伸一『世界は分けてもわからない』(講談社現代新書)と思えるがチェックしていない。

1980年1月のある日、研究室に大学院1年生の初々しい新人がやってきた。マーク・スペクター、24歳。彼は天才だった。スペクターはオハイオ州の田舎の大学を修了したばかりで、ほとんど実験室の経験がなかったのにもかかわらず、細胞とタンパク質の取り扱いと、その分析技術を瞬く間に自分のものとした。器用で、段取りもよかった。神業に近かった。深夜まで働くハードワーカーでもあった。ほどなくして、彼は世紀の大発見を行うことになる。

その論文の原稿は、1980年2月19日、生化学の一流雑誌ジャーナル・オブ・バイオロジカルケミストリーの編集部に届けられた。スペクターがラッカー研究室にやって来て、ひと月足らずしか経過していなかった。がん細胞からATP分解酵素を見事に精製したのである。

スペクターの業績はそれだけで終わらなかった。精製したATP分解酵素を試験管のなかで人工的に作り出した擬似的な細胞膜に埋め戻した。つまり、再構成実験にも成功したのだった。

二人はさらにがんの神秘へと迫っていく。では、なぜがん細胞のATP分解酵素は正常細胞と働きが異なるのか。ラッカー教授はリン酸化が原因だと踏んでいた。

がん細胞のATP分解酵素のリン酸化をつかさどるリン酸化酵素Mが存在する。そして、リン酸化酵素Mをリン酸化する酵素Sが存在する。その上流には酵素Lが、さらに上流には酵素Fが存在するはずだ。

つまり、F→L→S→M→ATPリン酸化酵素の順でリン酸化の滝が流れているのだ。滝の意義は情報制御と情報の増幅にある、とラッカー教授は考えた。下流に行くほどネズミ算式に情報の伝達量は増加する。これを、「リン酸化カスケード仮説」と呼ぶ。

研究成果はさらに上昇気流に乗って行く。ラッカー教授はがんウイルスの研究者と共同研究を始める。相手は同じコーネル大学の助教授・ヴォルカー・ヴォークト(Volker Vogt)だった。

がんウイルスは細胞をリン酸化すると考えられていた。ルイス・サルコーマ・ウイルスは細胞に感染すると、宿主のゲノムからリン酸化酵素の遺伝子をちぎり取って持っていってしまうのだった。このウイルスが持ち込むリン酸化酵素はsrc(サーク)と呼ばれることになった。

srcは細胞のなかでリン酸化の滝の上流の引き金を引き、次々とリン酸化のドミノを倒していくのだ。リン酸化酵素Fとsrcが同じであれば、どんなに素晴らしいことだろうか。驚くべきことに、スペクターの実験結果は両者の分子量ともほぼ60,000だと示したのだった。

ラッカーとスペクターは晴れ晴れとした顔で、科学雑誌「サイエンス」に特別論文を寄稿した。その論文は次のように締めくくられていた。

 「この研究の過程において、我々はごくごく限られた量の細胞試料から不安定な膜酵素を大変な労力を払って精製しなければならなかった。細胞内環境とはまったく違う条件で、膜酵素を再構成する方法を考案しなければならなかった。ウイルス発がんの原因タンパク質を突き止めたウイルス学者や遺伝学者たちから様々なサポートを受けた。そして今、そのすべてを乗り越え、長い間、待ち望まれていたこと、つまり生化学と分子生物学がここに融合したことを目撃したのである」

高らかな勝利宣言だった。特大のノーベル賞級の成果だった。

共同研究者のヴォークトはこの数ヶ月の間の出来事が夢のようで、現実感がなかった。データは予想される結果と完璧に一致していた。まるで絵にかいたように。

★1980年春(24又は25歳)

スペクターがラッカー研究室にきてまだ半年もたたない。

150118 Vogt_faculty_Photoラッカーの共同研究者であるヴォルカー・ヴォークト助教授(Volker Vogt 35年後の写真:右 出典)は、ラッカー研究室の上の階に実験室を構えていた。

スペクターの研究結果は華々しかったが、ラッカー研究室以外は、スペクターの研究結果を追試できなかった。

150118 Biogen_Biologics_0007_Blake_Pヴォークト研究室に1980年に入学した大学院生・ブレーク・ペピンスキー(Blake Pepinsky 35年後の写真:左 出典)は、大学院ローテ―ションでラッカー研究室の実習を受けたので、ラッカー研究室のことを知っている。また、スペクターとは仲良しだったが、スペクターの研究結果を追試できなかった。追試できたのは、スペクターが実験に協力してくれた時だけだった。

ヴォークト助教授は、どうして、スペクターの研究結果が追試できないのか、慎重に考えた。その1つのポイントは、免疫沈澱が再現できないことだと思い至った。

それで、スペクターに抗血清と抗原をもらい再現実験をすることにした。

「Na-K-ATPaseの抗血清」をもらって、2か月間、試行錯誤した。そして、ようやく突き止めた答えは、驚いたことに、スペクターがくれた「Na-K-ATPase」と書いた試料容器の中身が、全く別のタンパク質である牛血清アルブミン(BSA: bovine serum albumin)だったということだった。牛血清アルブミンはポピュラーなタンパク質で市販されている。さらに、スペクターがくれた「Na-K-ATPaseの抗血清」は、「牛血清アルブミンの抗血清」だったのである。

こんなミスはあり得ない。意図的でしかない。

ヴォークトは激怒した。

スペクターは陳謝し、「単にラベルを間違えただけです」、と弁解した。

都合よく、2つも偶然にラベルを間違えることはあり得ない。意図的でしかない。ヴォークトはスペクターと手を切ろうと考えたが、結局、1980年秋には、スペクターの魅力的な仮説に取り込まれてしまった。

★1981年春(25又は26歳)

生命科学の重要な研究発表会が、米国東部のコールド・スプリング・ハーバー研究所で、毎年、開催されていた。1981年5月、スペクターは、その研究発表会で、華々しい「リン酸化カスケード仮説」を発表した。大学院生が発表することは特例だし、その仮説の美しさと研究の驚異的なスピードに、会場の研究者たちは驚嘆し、興奮した。一方、スペクターの実験を追試できないという不満もくすぶり始めていた。

スペクターの試料の混乱は、コロラド大学のレイモンド・エリクソン(Raymond Erikson)研究室との実験試料の交換時にも発生した。

研究者の世界では、論文発表した抗血清やタンパク質試料は、世界中の研究者から依頼があれば、無償提供するのがルールになっている。エリクソンは自分たちが見つけたタンパク質がスペクターのと同じかどうかを確かめるために、抗血清の交換を申し出た。

エリクソンは、自分の抗血清をラッカー研究室に送った。ところが、スペクターは、エリクソンの抗血清を小分けし、自分の抗血清としてエリクソンに送ったのである。

当然、バレた。

エリクソンは抗議した。

すると、スペクターは陳謝し、再び、「単にラベルを間違えただけです」、と弁解した。

ヴォークトは、この話を聞いて、再び、そしてより強く、スペクターの研究成果を疑うようになった。

★1981年夏(25又は26歳)

ヴォークトは、スペクターの研究成果を疑う一方、リン酸化アミノ酸の分析技術を習得したいと思った。32P-標識のタンパク質を加水分解し、2次元の電気泳動とクロマトで展開し、リン酸化アミノ酸を同定する手法である。この手法の習熟を通して、スペクターの研究成果が正しいかどうかをチェックしたいと考えた。

ヴォークトは、スペクターの不要になったSDSゲルをもらって試すのが良いと思い、使用済みで不要のSDSゲルをくれるようにスペクターに依頼した。スペクターは「いいよ」と言うが、なにかと言い訳をして、実際にはくれなかった。

しびれを切らしたヴォークトは、自分の研究室の大学院生・ペピンスキーに、スペクターの使用済みで不要のSDSゲルのある場所を尋ねた。すると、ペピンスキーはSDSゲルが置いてある引き出しを知っていて、ヴォークトに教えてくれた。

ヴォークトはSDSゲルを1枚持ってきて、実験室で32P-標識のリン酸化アミノ酸の分析実験をしようとした。

32P-標識は弱い放射線であるベータ線をだす。ガラス板を遮蔽板に使えば、放射線が遮断され、人体に悪い影響を及ぼさない。実験台にはガイガーカウンターが常備してあり、実験する時は、いつもオンにするが、32P-標識はガイガーカウンターで検知できない。必要ないのだが、何気なく、ガイガーカウンターのスイッチをオンにした。すると、ガイガーカウンターは、ピッ、ピッという音を発して、放射線を検知したのである。

ヴォークトはなにかの間違いだろうと、不審に思った。しかし、放射線の発信源は、SDSゲルだった。SDSゲルのタンパク質バンドは、ベータ線ではなくガンマ線を発していたのだ。

となると、タンパク質の標識は、32P-標識や35S-標識ではなく、125ヨウ素-標識だということだ。スペクターの実験では、125ヨウ素-標識タンパク質はどこにも登場しないハズだ。本来検出されない放射線の発見、つまり、スペクターのデータねつ造の発見だった。

ヴォークトは、タンパク質が32P-標識ではなく、125ヨウ素-標識だということの意味を考えた。そして、スペクターのすべてのタンパク質が125ヨウ素-標識だったと仮定すると、スペクターの研究結果のすべての謎が解ける。すべての研究結果は、巧妙にねつ造されたものだと思い至ったのである。

翌々日の日曜日の夕方、ヴォークトはラッカーに直接会ってこのことを伝えた。ラッカーは、自分が惚れ込んだ天才児の研究結果を信じ込んでいた。リン酸化カスケード仮説で、スペクターとともにノーベル賞を受賞できると期待していた。それで、突然、顔面を殴られたような衝撃を受け、ヴォークトの言うことを信じられなかった。

ラッカーは、125ヨウ素-標識のことは一応、受け入れたが、それでも、なにかの間違いだろうと軽く考えようとした。スペクターを信じ込んでいたので、研究成果全体は間違っていないと主張した。

月曜日、ラッカーはスペクターをオフィスに呼び、ヴォークトと一緒にSDSゲルの125ヨウ素-標識タンパク質の説明を求めた。しかし、スペクターは、「ねつ造はしていません。なにかの間違いです」と冷静に答えるだけだった。それなら、2週間の猶予を与えるから、ATPaseとキナーゼの実験を再現するようにと、ラッカーは要請した。

しかし、2週間たっても、スペクターは実験を再現できなかった。

事件が公表され、スペクター事件は世界の生命科学界の大スキャンダルになったのである。マスメディアが殺到した。

1981年9月9日、スペクターは、ニューヨークタイムス記者に、電話インタビューで次のように答えている。 「自分の発見が証明されるには、もっと研究が必要だけれども、すべてが再現できると確信しています。125ヨウ素-標識のタンパク質がどうしてあったのか説明できませんが、自分も追加実験の結果を待っています」と。(1981年9月10日の「NYTimes」の記事:PROFESSORS TO CHECK QUESTIONED FINDINGS OF A CORNELL STUDENT – NYTimes.com

ラッカーは、スペクターに大学院を辞め、サイエンス論文を撤回するよう要求したが、スペクターは当初、拒否した。そして、ラッカーを裁判で訴えると脅した。ラッカーは、穏便に済ませたかったので、スペクターの母親を交えてスペクターと話し合った。スペクターは、結局、サイエンス論文の撤回を認め、大学院を辞めた。

その後、ラッカーは、スペクターの実験を再現しようと、1人で実験室にこもり、実験を重ねたが、スペクターの実験を再現できなかった。10年後の1991年9月9日、失意のうちに、78歳の生涯を閉じた。死因は、脳梗塞だった。

★1982年冬(25又は26歳)

スペクターが大学院を辞めて半年後、マスメディアによるスキャンダル報道が下火になったころ、スペクターの実験ノートに次の記述が見つかった。

スペクターがコーネル大学で研究を始めた1980年1月の実験ノートには既に、いくつもの市販タンパク質の購入記録があった。それらは、本来の研究テーマとは無縁のタンパク質で、後に自分で発見したタンパク質の代役を務めさせたタンパク質だった。つまり、最初から、「リン酸化カスケード仮説」をねつ造し、すべてのタンパク質を発見したように見せかけようと、緻密に計画した行為だったのだ。

左が、スペクターが“発見”し、“精製した”ハズの5つのタンパク質。右がそれらの偽物で安価な市販品である。分子量が同じなら、偽物になりうるのだ。

  • ATPase:carbonic anhydrase
  • PKM:soybean trypsin inhibitor
  • PKS:glyceraldehyde 3-phosphate dehydrogenase
  • PKL:ovalbumin
  • PKF:pyruvate kinase.

そして、コーネル大学・大学院入学前のシンシナティ大学での以下の論文も、同じ手法のデータねつ造だったのである。

  • Spector M, Winget GD (1980). Purification of a manganese-containing protein involved in photosynthetic evolution and its use in reconstituting an active membrane. Proc Nat Acad Sci USA 77:957-959.

【経歴詐称の発覚】

★1981年:経歴詐称その1

出典:上杉隆 氏についての検証 – 経歴詐称疑惑-補遺

キナーゼ・カスケード理論が崩れ始めると、マーク・スペクターの経歴の主要な部分もまた同様に崩れ始めたのである。1981年9月9日、スペクターは提出済みだった学位論文を撤回した。…そして、彼の経歴調査(スペクターがコーネル大学大学院に入学した時点で行われるべきだった)がようやく実施され、彼がもっていると言ったシンシナティ大学での文学修士号も文学士号ももっていないことがわかったのである。(W.ブロード・ N.ウェイド著、牧野賢治訳『背信の科学者たち』p.107)

★1991年:経歴詐称その2

1981年の事件後、スペクターは、オハイオ州に戻り、整骨医免許を取得した。

1991年5月19日(35又は36歳)の「Sunday Des Moines Register」紙の記事によると、スペクターは整骨医免許と医師免許を取得し、心臓外科の有名な医師チームのアシスタントとして働いていた。医療チームは彼を優秀だと認めていたが、スペクターがコンピュータ詐欺をした。詐欺の調査で、スペクターの医師免許が偽造だとバレた。

【論文数と撤回論文】
パブメドhttp://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmedで、マーク・スペクター(Mark Spector)の論文を「Spector M[Author]」で検索すると、2015年1月6日現在で442論文がヒットした。論文数の多さから、彼の論文ではない論文がかなり含まれていると思われる。

Rackerを足し、「Spector M[Author] Racker」で検索すると、1980と1981年の6論文がヒットした。この6論文は、ここで扱っているマーク・スペクター(Mark Spector)の論文である。

2015年1月6日現在、6論文の内の1論文だけが撤回されている。

  1. Warburg effect revisited: merger of biochemistry and molecular biology.
    Racker E, Spector M.
    Science. 1981 Jul 17;213(4505):303-7. No abstract available. Retraction in: Racker E. Science. 1981 Sep 18;213(4514):1313.

他の論文はどうして撤回されないのだろう?

【白楽の感想】

《1》 不正病患者

研究不正の大事件のデータねつ造は24歳の時の行為だが、それ以前から不正をしているし、経歴詐称もしている。マーク・スペクターは、「悪いと知っていてする」故意犯である。

シンシナティ大学で不正研究をし、最初からコーネル大学のラッカー教授をだまし、最初から研究界を欺いてきたのである。もう、病気としか言いようがない。「不正病」患者である。不正のプロである。

人生を、こうようなやり方で生きていく思想・信条である。どうして、そういう生き方を選択したのだろうか?

こういう人を、どう矯正するか? 矯正はできない。研究界から、排除するしかない。ところが、研究界は、「不正病」患者を排除する意識・システムが弱い。

それにしても、人生いろいろである。人の思想・信条は人によって異なるし、それはそれで良い。では、研究人生の思想・信条はどのように構築されるのだろうか? 特に、研究界で違反となる思想・信条をどこでどのように取り入れてしまったのか? そのプロセスの解明は重要だろう。

《2》 白楽の人生(思想・信条)のキッカケ

1980年秋、米国細胞生物学会がシンシナティ市で開催された。私(白楽)も参加した。ワシントンDCから自分の車を運転し、妻と2人、途中モーテルに宿泊しながら、米国をはじめて長距離ドライブし、初めて米国の学会に参加した。

米国の学会は、学会員の研究発表だけでなく、地元民へのサービス・イベントがある。その1つに、地元の高校生に細胞生物学の魅力を熱く語る会があった。多数の高校生が先生に引率され、バスを連ねてやってきていた。

シンシナティ出身のマーク・スペクターは大会場を埋め尽くす約2,000人ほどの高校生相手に、細胞生物学の魅力を語った。白楽も、その会場で、講演を拝聴した。当時、天才の誉れ高いマーク・スペクターを目の当たりにしたのである。

1年も経たない翌1981年夏、マーク・スペクターは全米の生化学・細胞生物学・がん研究界の大事件になっていた。

n2324_01マーク・スペクター事件を日本に最初に伝えたのは、当時、米国・NIH・国立がん研究所でがんの細胞生物学を研究していた私である。1981年夏、日本の細胞生物学者・石川春律先生(故人 記事1記事2、写真出典)から、がんの細胞生物学に関するNIHでの研究を、雑誌「生体の科学」の記事にするよう依頼された。

「がんの細胞生物学に関するNIHでの研究」の代わりに、大スキャンダルとなっていたマーク・スペクター事件のことを書いて原稿を送った。当時、国際郵便だったので往復2週間はかかる。それで、事前に了承を得るより、原稿を送ってしまえとばかりに、原稿依頼を受けた日の週末に執筆し、妻に清書してもらい、説明の手紙をつけて、石川春律先生に送付した。

石川春律先生は以前から白楽に好意的だったが、真面目な先生である。がんの細胞生物学に関する記事ではなく、スキャンダル話だったので、苦笑しつつも(後日談)、原稿の過激な部分を削除し、すぐに掲載してくれた。

それが、「生体の科学」1981年10月号の「リン酸化カスケード仮説の真偽」(p463~466)である。(生体の科学 スペクター事件 32(5)、463-466)

後年、1995年にバイオ政治学を提唱した私は、この事件がキッカケで、研究者の事件(研究規範・倫理)の研究にも大きく関与するようになったのである。

【主要情報源】
① ◎2013年、ヴォルカー・ヴォークト(Volker M. Vogt)の 「A giant scientific breakthrough that turned out to be a fraud」。ココで閲覧可 。元は、ecommons.library.cornell.edu
② 1981年9月7日のジェフリー・フォックス(Jeffrey L. Fox)の「Chemical & Engineering News」の記事:「Theory expanding cancer partly retracted
③ (未読)2004年のNicholas Zagorskiの修士論文「Broken castle, broken dreams」:Broken castle, broken dreams : a retrospective on one of the most spectacular cases of scientific fraud in recent history – JH Libraries
④「New Scientist」の記事:New Scientist – Google ブックス
⑤ 1981年9月10日の「NYTimes」の記事:PROFESSORS TO CHECK QUESTIONED FINDINGS OF A CORNELL STUDENT – NYTimes.com